日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

読書から聞こえる時代の声 19.5.2

 近況報告「娘が子連れで里帰りお産」に書いたように、この2ヶ月、娘のお産に付き合っているうちに、時代は平成から令和へ変わった。お産が無事に済み、少し余裕が出来たところでせめて本でも読まなければと思って、私が「芋づる式読書」と呼んでいる読書をして来た。系統も何もない、行き当たりばったりの読書である。それは空海や最澄の仏教関連の本、鎌倉仏教の始祖たち、これらを解説した梅原猛の本、そして河合隼雄、鶴見俊輔など京都方面の学者たちの本。また、河合隼雄の「心理療法入門」から芋づる式に彼と村上春樹、吉本ばななの対談本などである(末尾にリストアップ)。

 さらに、日本の共同体と自然神との共生に光を当てた「共同体の基礎理論」、戦艦大和とともに沈んだ司令長官を描いた先輩の著書「四月七日の桜」、兵士たちの無惨な死の実態を調べた「日本軍兵士」など。これらは、ジャンルも系統もバラバラだが、全体を振り返って見ると、今の時代に忘れてはならない何か重要なメッセージを伝えているような気がする。その問題提起は時代が平成から令和に変わっても、依然として私たちの前にある。「令和」への私なりの思いは最後に書くとして、今回はこうした読書の整理を兼ねて、それらの本から聞こえて来た「今の時代へのメッセージ」について書きたい。

◆時代は今も、「末法の世」なのか
 老年になって自分の終末が否応なく視野に入ってくると、この世と自分との突き詰めた関係を知りたくなる。自分がこの世に生まれて死ぬということにどんな意味があるのか。死んだ後に自分の意識、無意識はどうなるのかなど、昔から人々を捉えてきたテーマが身近に迫ってくる。その中で、特に空海の真言密教に惹かれて来た。宇宙に遍満する「仏心」が、自分を含む山川草木全てに宿っていて、その仏心を見つめて自己研鑽すれば、この身のまま成仏するという(即身成仏)。今回もそうした空海の思想から始めて何冊かの仏教解説書を読んでみた。難しい教義というより、むしろそういう宗教家たちの“熱い思い”に触れるために。

 空海と同時代の最澄(天台宗)の伝記、そこから派生した(法然、親鸞、一遍といった)鎌倉仏教の始祖たちの解説書である。平安末期から鎌倉にかけて、日本は災害や戦乱に見舞われて餓死や病死が蔓延し、それを見た人々に釈迦の教えが届かない「末法の世」の到来を感じさせた。そうした民衆の深刻な悩みや苦しみを救うために、既存の宗教を飛び出して新宗派を立てたのが鎌倉仏教だった。そこに共通するのが、(全ての人を救うために)生きとし生けるものはすべて成仏できる、とする「草木国土悉皆(しっかい)成仏」の思想だと梅原猛は言う。人間も含めて山や森の自然に神(仏)が宿るというのは、日本人にとって親しい考え方となったわけである。

 一方、鶴見俊輔の「かくれ仏教」では、この「末法の世」が近代以降の日本にも続いていると指摘する。辛うじて勝利した日露戦争(明治38年)以来、日本は足元の現実を見ないで一流国の幻想に酔って来た。先の戦争で徹底的に愚かな負け方をしたこともすぐに忘れて、日本は今も幻想の中に生きている。一人当たりのGDP(23位)でも、大学の実力(46位)から見ても日本は既に世界の二流国、三流国なのに、アメリカについて行きさえすれば一流国になれると思い込んでいると言う。確かに足元をよく見れば停滞の30年の中での貧困と格差、親殺しや児童虐待、そして若者の生きづらさや自殺、災害。そしてテロと戦争に怯える世界がある。日本を取り巻く状況には、末法の世が忍び寄っているのかも知れない。

◆心の拠り所を失い、生きることが困難な時代
 その鶴見が推奨している河合隼雄(1928-2007)の「心理療法入門」や、河合と吉本ばなな、村上春樹との対談本も読んでみた。これらを読むと、今の社会の生きづらさが人々の精神に深刻な影を落としていることが分かる。従来の価値観が崩壊した管理社会で個性を否定され、意味の分からない同調(同調圧力)を強いられて不登校になったり、引きこもったり、様々な精神的不調を訴える学生やサラリーマンが増えている。そこには、かつての家制度が崩壊し、家族がバラバラになる中で、幼児期からの「個の確立」を見失った日本人の姿があると言う。

 崩壊したのは家庭だけではない。明治期からの中央集権的な国家を作る過程で解体されてきた共同体である。鶴見の本に出て来た「共同体の基礎理論」(内山節)によれば、かつては村でも都会でも、様々な集団が多層的になって作り上げた共同体があり、先祖から子孫まで永続的に続いていくものとして、人々の心の拠り所(アイデンティティ)となってきた。その根本にあったのが、仏や神の心が山や森などの自然の形となって現れるとする自然信仰(権現思想)である。共同体の人々は、その神々が宿る山や森と共生しながら、死んだら先祖のいる自然に還るという死生観を持って生きてきた。 

 共同体に生きることは、集団主義を個人に押しつけることではないと内山は言う。そこでは、様々な結びつきの集団が多層的に存在し、他人との違いを際立たせて「個の確立」を目指す欧米とは違って、日本での「個の確立」は、ひたすら自己を極めて内面を掘り下げることだった。そうして、共同体の根本にある神々の宿る自然とつながって生き、そこに還って行く。その中にいると、自分の存在が納得でき、了解できるというのが、かつての共同体だった。それは、心の拠り所を見失って生きづらさを抱える現代人の環境と裏腹にあるものだ。その共同体は今や殆ど消えつつあるが、最近はその再評価と再構築の試みが始まっていると言う。日本型の「個の確立」を考えさせる問題提起として興味深かった。

◆個人の尊厳がぼろきれのように扱かわれた愚かな戦争
 買ったままになっていた「四月七日の桜 戦艦大和と伊藤整一の最期」(NHKの先輩、中田整一さんの著書)と、「日本軍兵士〜アジア太平洋戦争の現実」(吉田裕)も読んだ。そこでは「個の確立」どころか、個人がまるで意志のないぼろきれのように理不尽に扱われた戦争の現実が描かれている。前者は軍人として「死に場所」を求めて戦艦大和と運命をともにした伊藤整一第2艦隊司令長官と家族の物語。感動的な物語ではあるが、大和が何の成算もなく沖縄へ特攻艦隊として派遣されるという無謀で愚かな作戦に唖然とする。

 伊藤の最後の決断で乗員6千人のうち、3千人は助かったものの、大本営は死に場所を与える名目で膨大な命を海に棄てようとした。さらにひどいのは「日本軍兵士」に書かれた実態である。この本は、日本人必読の書とも言うべきもので、かつての日本軍を美化したり賛美したりしている人たちに特に読ませたい。アジアを侵略した日本軍は時代錯誤の精神論と時代遅れの装備のまま、次々と連合軍の餌食になって行く。食料の補給もなく、武器も軍靴もボロボロ、戦地に歯医者もなくて殆どが虫歯。最後には、まるで乞食の集団のようになって戦地をさまよい、殆どが餓死と病死で命を落とした。それを、膨大な資料から暴いていく。

◆国民一人一人が個性を発揮しながら、主体性を持って「令和」を作るために
 この「日本軍兵士」に書かれた現実を直視し、徹底的に反省しない限り明日の日本は作れないとさえ思わせる内容だが、何故このような理不尽がまかり通ったのか。もちろん、丸山真男が指摘した日本中枢の「無責任の体系」も大きいが、その根本には、やはり「個の確立」がなく、従って「個の尊厳」も(メディアを含む)民主主義もない近代日本の病巣があった。これは、国家の名の下に個人を従属させる国柄が続く限り改まらないだろう。

 5月1日の朝見の儀で安倍首相は、「令和」にちなんで「平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本。人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を」と美辞麗句を並べたが、「令」にはうるわしいと言う意味もあるが、同調圧力の下で個人が押しつぶされる社会では、美しくあるだけで平和が作れるとは思えない。むしろ素直に「令」を第一義のいいつけや命令と捉えるならば、令和は「主権者である国民が政治にもの申して(命令)して平和を作る」と、能動的に捉えるべきではないか。幼い孫たちのためにも新しい令和の時代には、国民一人一人の個性が輝き、皆が主体性を持って平和を作る日本であって欲しいと思う。
*)最近読んだ本
「空海の風景(上下)」(司馬遼太郎、再読)、「沙門空海」(渡辺、宮坂)、「空海の思想について」、「最澄と空海」、「梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍」(梅原猛)、「芸術新潮4月号 梅原猛追悼号」、「かくれ仏教」(鶴見俊輔)、「心理療法入門」(河合隼雄)、「なるほどの対話 河合隼雄と吉本ばなな」、吉本ばなな推奨の小説「短い金曜日」、「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」、「共同体の基礎理論」(内山節)、「四月七日の桜」(中田整一)、「日本軍兵士」(吉田裕)、「家計ファーストの経済学」(中前忠、触れられず)

権力の澱みに沈む長期政権 18.2.28

 国会では毎月勤労統計を巡る野党の追及が続いている。しかし、統計上のサンプル抽出の是非や経緯の問題だけに、どうしても議論が難しくなる。果たして国民はどこまでついて行けるのか。どれだけ関心を持続できるのか。これは、労働者の賃金の動向を見るためのデータで、(特に東京都の)サンプルの取り方が全数調査から一部サンプル調査に変わったり(2004年)、またサンプルにする事業者も年によって全部入れ替えたり(2015年)、あるいはそれを隠すために全数調査にデータを近づける(2018年)など、その時々で結果として実質賃金を上振れさせるような様々な操作が行われてきた問題である。 

◆「偽装」と「粉飾」のアベノミクス
 こうした操作が、アベノミクスを少しでも良く見せたい官邸の意向によるものか、あるいは厚労省官僚の忖度によるものかどうか。それが事実ならば、野党の言うように「アベノミクス偽装」にあたるだろうが、官僚たちの「記憶にない」の連発によって結局は藪の中だ。また実際に、こうしたデータ操作によって延べ2015万人の雇用保険や労災保険が影響を受けたというが、その額は一人当たり凡そ幾らなのか、全体では幾らになるのか。また見直し作業に新たに幾らの税金がかかるのか。全体像が示されないので問題の大きさが良く分からない。

 野党もメディアも偽装の経緯にばかり関心が行っているが、アベノミクスの操作は実はこれだけではない。「アベノミクスによろしく」(明石順平著)によれば、安倍政権は2016年に正体不明のデータを取り入れて名目GDPを嵩上げする「粉飾」に近いことをした前科がある(「アベノミクスの時限爆弾」18.2.18)。偽装をいうなら、野党は安倍政権がやって来たこうした「粉飾」も合わせて取り上げるべきだと思うのだが、なぜやらないのだろうか。このままだとまた誰も責任を取らず、「長期政権の腐臭」だけが漂う結果になり、それが見えるだけに国民は嫌気がさしている。 

◆八方塞がりの「ミッションインポッシブル」
 実体は八方塞がりなのに、その都度、表面を言いくるめて(だらだらと)時間稼ぎをするのは、長期政権の特徴でもある。国会論戦が始まり、直後の7月には参院選挙も予定されているのだから、野党は本腰を入れてその内実を突くべきだと思うのだが、それが出来ないのは何故なのだろうか。野党にとっては攻めどころ満載のテーマが沢山あるはずなのに。

 例えば民意が明確に示された沖縄の基地問題である。最近では、建設予定地の海底が想定を超える軟弱地層で、莫大な税金を投入してもいつ完成するか見えない状況になっている。加えて、辺野古には地震を引き起こす活断層や、珊瑚礁地下の空洞の存在まで懸念されている。そうなると危なくて基地など作れない。しかも、仮に基地が完成しても、アメリカは緊急用として普天間基地を残したいと言っているという情報もある。これでは何のための辺野古なのか分からない。この他、安倍政権がやるやると言いながら、一向にらちがあかない問題は沢山ある。

 例えば、低迷するアベノミクスの裏で進行する1000兆円もの財政赤字問題、アベノミクスの柱にしたインフラ輸出や原発輸出の総崩れ、ロシアにいいようにやられている北方領土返還、全く目途の立たない拉致被害者救済、どう変えるのか一向に具体案が出ない憲法改定、周回遅れの地球温暖化対策などなど。これらは、「出来もしない公約(ミッションインポッシブル)を背負ってめげないお方が日本の宰相だ」などと皮肉られている(「選択」河谷史夫)が、安倍政権は支持率キープと選挙に勝つことだけを目的に「やるやる」と言い続け、他方で(地方創生とか女性活躍とか働き方改革とか)様々な目くらまし政策を小出しにして政権を維持して来た。  

◆政治の要諦は「次世代への奉仕」
 問題は、その長期権力の澱みと停滞によって日本が抱える最重要課題が次々と先送りにされていることである。以前にも取り上げたが、「ヨーロッパを代表する知性」と言われるフランスの思想家、ジャック・アタリはその本「新世界秩序」の中でこんなことを書いている。「いま、政権政党がとるべき態度は、未来に向かってポジティブなイデオロギーを立ち上げること。そして次世代に奉仕することに尽きる。それは私たち自身の幸福にもなる」というものだが、今の政権は未来に向かって望ましい国家像も示せず、次世代に奉仕するどころか、権力維持に汲々として問題のツケを次世代に回している。

 確かに、今の日本は世界的に見ても豊かな国になっている。外国人観光客が感心するように、文化財や自然は豊かだし、人々は優しく、暮らしもまあまあ安定しているし、治安状態もいい。交通や水道、医療などの社会的インフラも整っている。しかし、こうした豊かさは、戦後の焼け野原から先人たちがたゆまぬ努力で蓄積してきたもので、今や日本が直面する急激な少子高齢化、莫大な財政赤字、迫り来る地震災害などによって脅かされようとしている。こうした危機に先手を打ち、豊かな社会的インフラを壊さずに、少しでも豊かにして次世代に手渡していくことこそ「次世代に奉仕する政治」の要諦になる。

◆次世代に手渡すべき社会的インフラ(共通資本)
 上に書いたような社会的インフラは、かつて経済学者の宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」と呼ばれるもので、彼によれば、それらは世代を超えて国民生活を営んでいく行くための大切なインフラで、それを維持発展させて行くには、決して利潤追求のみの対象にしてはならず、高い専門性を持った人材によって維持されるべきインフラになる。その対象は、私なりに数え上げればかなり広範なものになる。例えば、物理的インフラで言えば、鉄道、道路、電力、上下水道、防災設備など。社会制度で言えば、教育、医療、社会保障、放送などが含まれる。

 政治関連で言えば、中央と地方の政治制度、行政、司法制度など。そして環境に関わる農業、自然も大事な社会的共通資本になる。こうした広範囲の社会的インフラが今、巨額の財政赤字や急激な少子高齢化によって危機にさらされているだけでなく、小泉政権から安倍政権に引き継がれた規制改革によって利益追求の対象となり、その土台が揺らいでいる(「規制改革という名の破壊」18.5.14、「科学技術立国の揺らぐ足元」18.11.5)。その影響は安倍政権が終わる2021年には極端に顕在化しないにしても、20年後には確実に現れる筈だ。その時、私の孫たち世代の生活はどうなるのか。

◆未来にツケをまわす情けない政治
 次世代にツケを回すと言えば、原発もそうである。いつ事故につながるか分からない大地震の迫る国土で原発を維持する危険もさることながら、最大10万年も管理しなければならない厄介な放射性廃棄物の扱いもまだ決まっていない。福島の事故処理でさえ手に余るのに、もう一つでも事故が起きたら日本は完全にお手上げになる。そして一基数千億円という膨大な廃炉作業が50基分も次世代に引き継がれる。こうした問題の一つ一つを議論できないにしても、国会ではそのツケを次世代に回さないための深い議論をこそして貰いたいと思うのだが、政治は長期政権の驕りと停滞に陥っている。

 内実は八方塞がりでどれも上手く行っていないのに、安倍政権は長期の権力を得て、周囲がおだてる「裸の王様状態」が続いている。そのために、何故か万能感に酔って謙虚さを失い、首相みずから野党質問をヤジったりする見苦しい国会である。一方のメディア(特にNHK)も最近では、安倍政権によってすっかり骨抜きにされて官邸の広報ニュースのような内容ばかり。今回のタイトル「権力の澱みに沈む長期政権」は、今の私の気分を言い表すのに随分と考えたものだが、3月末には7人目の孫の誕生を控えて嬉しいはずが、この子たちの未来を考えると、政治的には一向に明るいきざしの見えない現状がもどかしくなる。

悲劇の隣人とどう暮らすか 19.2.12
 2月3日に放送されたNHKスペシャル「朝鮮戦争秘録〜知られざる権力者の攻防〜」は、1950年に始まった朝鮮戦争の内幕を描いたものだった。北朝鮮を巡るソ連と中国の指導者の駆け引きの中で始まった朝鮮戦争は、連合国の参戦によって大規模化し、半島は未曾有の戦渦に見舞われていく。中でもショックだったのは、期間中アメリカ空軍によって(日本の面積の6割弱の)朝鮮半島に投下された爆弾が、太平洋戦争で日本に投下された爆弾の4倍、66万9千トンにも達したことである。指揮を執ったのは、日本への無差別大空襲を行ったカーチス・ルメイ(戦略空軍司令官:写真)だった。

 その結果、朝鮮民族は200万の民間人と66万の兵士が犠牲になり、人口の2割(5人に1人)を失う。東京大空襲、広島、長崎での無差別大量殺戮がまだ記憶に新しい時、自由主義陣営を守るためにはそれが許されるとアメリカ軍主導部が考えたからである。計画されていた(中国国内などへの)26発もの原爆投下はマッカーサーの解任によって避けられたが、焦土と化した朝鮮半島は、民族同士が戦争で殺し合う悲劇と、半島各地で思想的違いによる25万人とも言われる住民虐殺事件が頻発する悲劇に見舞われた。そして、一時的な休戦協定(1953年)によって、今も民族の分断が続いている。  

◆隣人の変化を理解出来ない日本
 朝鮮民族にとっては気の毒としか言いようがない現状だが、こうした悲劇を生んだ責任の一端は日本にもある。南北分断そのものが、1910年から1945年まで続いた日韓併合と、日本が始めた太平洋戦争の結果だからである。敗戦時、日本も北海道をソ連に占領されて国が分断される可能性がゼロではなかったが、そうなったのは朝鮮半島の方だった。そして冷戦の終結に伴って東西ドイツが統一したのに、朝鮮は唯一分断国家として取り残されている。北朝鮮が核開発に血道を上げてカルト的な独裁体制を維持し、崩壊しなかったからである。

 一方で、民族分断の不幸な状態にいつか風穴を開けたいというのが、南北指導者たちの悲願でもあった筈である。そのきっかけがやって来たのは、つい最近。瀬戸際まで行った核戦争の危機がひとまず回避され、米朝対話の気運が出て来たのを千載一遇のチャンスと捉え、南北朝鮮の指導者(文在寅と金正恩)が60年以上も動かなかった事態に風穴を開けようとしている。この時、南北融和を警戒してあれこれ口を出す日本は、北朝鮮にとっても文在寅政権にとっても民族の悲願を邪魔する、苛立つ対象でしかない。しかも、かつて分断の遠因を作った責任者なのに。

◆韓国駆逐艦によるレーダー照射事件
 一方の日本は、最近まで韓国を自由主義陣営の同盟国と考え、ともに核を持つ北朝鮮に対峙して来たので、この急展開について行けない。南北融和に前のめりになる文在寅政権に不信感が強まる一方だ。これは歴史的悲劇の解決を重視する韓国(北朝鮮)と、核の脅威を重視する日本の隣人同士の行き違いと言える。12月20日に起きた韓国駆逐艦によるレーダー照射は、こうした最近の経緯を踏まえると、これまでの従軍慰安婦問題や徴用工問題といった単一テーマとはレベルの違う、もう少し大きくて厄介な国家間の相互不信の中で起きた事件と捉えるべきだろう。

 日本のP1哨戒機が韓国軍艦に関して監視飛行したのは今年度4回目になると言う。過去3回には、このような事件は起きていないのに、今回は何故起きたのか。その日、韓国警備救難艦と駆逐艦は、北朝鮮の木造船から乗員3名と死者1名を確保した。このとき、それを監視飛行した日本のP1哨戒機が韓国駆逐艦からレーダー照射を受けた。韓国側は否定しているが、レーダー照射があったことは事実だろう。そもそも韓国側が言うように人命救助なら、なぜ駆逐艦まで現場にいたのか、これについても日本側から様々な憶測がなされている。いわく、韓国は北朝鮮と密輸(瀬取り)をしていたのではないか。

 あるいは、韓国は北朝鮮漁船の密漁を助けていたのではないか(「月刊文春」3月号)、北からの脱北者を北の要請で阻止したのではないか(「Will」3月号)、などなどだ。これらを見ても日本の韓国に対する警戒感は相当な所まで来ていたことがうかがえる。実際、日本の哨戒機は、この疑念を裏付けるようにかなり執拗に韓国側の艦艇と救難艦の上を旋回し、その直後にレーダー照射を受けた。日本側は排他的経済水域(EEZ)での通常の監視飛行だと言うが、飛行経路を見ると実際はかなり露骨な警戒心として相手に伝わったのではないか。

◆韓国の勇み足と、その公表を指示した首相
 そこで苛立った韓国側が、(現場の勇み足で)やってはいけない照射をしてしまった。この辺が実体だと思う。照射が本気でないのは、この時の駆逐艦の砲が哨戒機の方を向いていないことを日本側が確認していることでも分かる(図の2)。日本側の不信感と執拗な監視、それに苛立った韓国軍の勇み足。その背景には、このところ北朝鮮への宥和政策を巡って高まってきた日韓の相互不信がある。実はこれと全く同じことが6年前の中国と日本の間で起きている(「レーダー照射事件の背後にあるもの」13.2.11)。この時も、安倍政権は中国と「やった、やらない」で応酬を繰り返したが、そこにもそれなりの背景があったことが分かる。

 但し、日韓のような同盟国同士の場合は、まず実務者レベルで解決の糸口を探るのが通常(外交専門家)というが、今回は首相の指示で防衛相が抗議し、映像や音声まで公表した。韓国側の頑なな否定もあってのことではあるが、その結果は公表を指示した安倍の思惑通りになった。今、日本国内の強硬派は勢いづき、国内世論は韓国非難で一色になった。安倍としては、自分の支持基盤へ毅然とした姿勢をアピールする狙いもあったかも知れない。しかし、狙い通り安倍の支持率は(若干だが)持ち直し、世論は韓国非難で染まる結果になったけれど、日本はこれで喜んでいていいのだろうか。 

◆双方のナショナリズムに火をつけない大人の対応を
 当初、韓国国内ではレーダー照射事件への関心はそれほど高くなかったという。このところの韓国は、国内経済が行き詰まって野党の批判が高まり、文在寅政権の支持率は下降気味だった。しかし、互いの応酬が続くにつれ世論の方も熱くなって強硬姿勢をとる文在寅への支持が高まる皮肉な結果を招いている。それが北朝鮮に対する文在寅の前のめり状態をさらに加速すると同時に、日韓の対立が鮮明になり、これまで積み重ねてきた友好親善の足元が音を立てて崩れつつある。さらに心配なのは、米朝対話と南北融和が進む時に、日本だけが蚊帳の外に置かれる状態を招いていることである。

 これらはつまるところ、隣人の悲劇に無理解で自分の利害しか頭にない日本の近視眼的外交の限界とも言える。レーダー照射は確かに起きてはならない事件だが、その背景も十分考慮しながら大人の対応をしなければ、複雑な心情を持つ隣人とは上手く暮らせない。まして、話の進み方次第では、日本はこれから南北朝鮮が連邦制になったり、統一したりする事態への対応まで考える必要が出てくる。その時までに北が核を放棄してくれればいいが、そうでない場合は核を保有した朝鮮との軍事境界線が、対馬海峡まで下がってしまうという指摘もある。

 防衛省幹部は「韓国疲れだ。日本列島をカリフォルニア沖に移したい。アメリカと一緒になりたい」とぼやいているようだが、両国は離れられない隣人である。大事なのは、日本と朝鮮民族との間には複雑な負の歴史が存在することを踏まえて、多少のことには目くじら立てずに聞き流すくらいの余裕を持つこと。そして、互いに未来志向の長期的な構想を持って友好関係を粘り強く構築していくことである。決して歴史の傷口のカサブタを剥がすような上から目線の対応や、支持率アップのためにナショナリズムを煽るような態度をとってはならない。さもないとその火の粉はたちまち我が身に降りかかってくるからだ。
民族の厄介で危険なDNA 19.2.2

 先日、ひょっとしたことからドイツ生まれの小説家で、イギリスに移住したゼーバルト(1944-2001)の小説「移民たち〜四つの長い物語」を借り出して読んだ。いずれも故郷を離れ異国に移り住んだ人や家族の物語だが、ゼーバルトは老境に入ってから異郷で心が壊れて精神病棟に入ったり、自死したりした移民たちの過去をたどってその心の軌跡に分け入っていく。中でも第二次世界大戦が始まる頃に、ドイツで迫害に会い故国を脱したユダヤ人たちの物語が、そうした機微に疎かった自分にある種の思いを呼び起こした。一人は、ゼーバルトの子ども時代にユニークで卓越した授業をしてくれた元小学校教師の話である。

◆ゼーバルトの小説「移民たち」
 彼は幼い時から教師になることを夢見て努力し、ようやく教職を得るが、父が2分の1ユダヤ人で、自分にも4分の1ユダヤの血が流れているというだけで、街の人たちから様々な嫌がらせを受け、ようやく得た教職を追われる。2分の1ユダヤ人と結婚した母も商店からものを買うことを拒否されたりして、追い詰められていく。教師はユダヤ人の女性と恋に落ちるが、その恋人はやがて収容所送りになって殺害される。心に深いトラウマを抱えた元教師は故郷を離れ、戦後、かつて学校があった街に戻るが、街の人々はこうした過去の一切合切を秘密にして口をつぐんでいる。74歳の彼は、故郷の鉄道線路で自死する。

 もう一つは、子どもの時にドイツを脱出した画家の話。英国マンチェスターの暗い倉庫に閉じこもって、描いては絵の具を削ると行った不思議な創作をしている老画家の過去に作者は惹かれる。ユダヤ人画商の家に育った彼は、戦争の足音が近づいているのに(多くのユダヤ人と同じように)不安を抱えたまま日常を過ごしていた。いよいよとなって一家は脱出を決意するが、時既に遅かった。少年だけが飛行機に乗り、「後から行くから」と言った両親はその直後に捕らえられて収容所送りになり、そこで殺害された。彼は全てに心を閉ざしてイギリスで生きていく。その画家の抜け殻のような最後を作家が病床に見舞ったところで小説は終わる。

◆ヨーロッパに巣くうドイツに対する警戒感
 この沈鬱な小説は、私に2つのことを思わせた。一つは、今、ヨーロッパには何百万という移民が押し寄せているが、そうした移民たちも故国を脱出するまでには、想像を絶する過酷な運命を経験して来に違いない。その経験は、これから何十年と移民たちの心に深い傷跡を残して行くだろうが、ヨーロッパは、そうした移民たちのトラウマにきちんと向き合って行けるのだろうか、ということ。もう一つは、ドイツが過去に犯した罪の重さである。それは、ちょっとやそっとの反省で消えるものではなく、今も抜きがたい警戒心をヨーロッパ諸国に残しているのではないか、ということである。

 そんな思いと改めて結びついたのが、以前のコラム(「国の望ましい姿を見失う不幸」)でも紹介した、フランスの歴史思想家のエマニュエル・トッドのインタビュー集「ドイツ帝国が世界を破滅させる」だ。そこには、彼の過激なまでのドイツに対する警戒感が表れている。EU成立後のドイツはEUの中心となって、ポーランドなどの東欧諸国のEU加盟を推進し、域内労働者の「移動の自由」を利用して、かつての共産圏からの安い労働力を自国経済に取り込んで、めざましい経済成長を成し遂げた。ドイツ経済界は、とことんまで輸出にこだわって他国経済を踏み台にしながら、一人勝ちの状況を作っているとトッドは言う。

◆ドイツの民族としての危うさ、厄介で危険なDNA
 その強さをドイツ国民もまだ十分自覚していないと言うが、トッドはそうした「十分自覚されていない強国としてのドイツの危うさ」を警告する。例えば、ドイツの社会文化は不平等的で、平等な世界を受け入れることに慣れていない。ドイツ人たちは、自分が一番強いと感じるときには、より弱い者が服従するのを当然と考えがちだ(服従の拒否を受け入れることが非常に不得意)。そして歴史上、ドイツは重要なポジションについたときに変調を来たす、と言う。こうした厄介で危険な側面をもつ“ドイツ民族のDNA”、すなわち文化的特徴とは何なのか。

 トッドによれば、ドイツというのは計り知れぬほどに巨大な文化だが、人間存在の複雑さを視野から失いがちでアンバランス故に恐ろしい文化でもある。ドイツは、子どものうち一人だけを相続者にする権威主義的な家族システム、直系家族を中心とする特殊な文化に基づいている。そこに、ドイツの産業上の効率性、ヨーロッパにおける支配的なポジション、同時にメンタル的な硬直性も起因している。しかし、平等を基本とするフランスなどは、このドイツ的性格の前に全く無力で、かえってドイツを(偉大さの)錯覚の中に追いやってしまい、それがヨーロッパ全体にドイツに対する反感を拡大させてしまう、と言う。

 いま、財政赤字に悩むヨーロッパ諸国が、一人勝ちのドイツの主導で厳しい状況に陥っているのを見るにつけ、トッドは問わざるを得ない。「ヨーロッパは20世紀の初め以来、ドイツの覇権の下で定期的に自殺する大陸ではないのか」と。実際、ドイツ社会が大きなストレスにさらされたときに、権威主義的で不平等な文化の国であるドイツは、ヒトラーを登場させた歴史を持つ。トッドの頭の中には、近年ドイツで台頭している極右勢力への警戒感もあるのだろうが、ドイツを全体主義に導いたナショナリズムの記憶が、戦後70年以上経過してもヨーロッパに生々しく残っているのに改めて驚く。

◆ドイツと日本の類似性
 トッドは一方で、ドイツと日本の類似性についても語っている。日本もドイツと同じように直系家族の文化で、長年の間に培った権威、不平等、規律と言った諸価値(つまり、あらゆる形におけるヒエラルキー)を、現代の産業社会・ポスト産業社会に伝えた。この点で、日本とドイツはまれに見る類似性を持っているが、日本文化がドイツと違う点は、他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取り付かれていることだと言う。これは、彼が東日本大震災後に日本を訪れて、日本の伝統社会の様々な担い手が(機能不全に陥った政治制度に代わって)水平に連携しているのをみて得た感想に基づいているらしい。

 しかし、日本の直系家族の権威主義的な文化的DNAは、そう簡単に忘れ去れるものかどうか。例えば、戦前の日本は天皇を中心とした家父長的な縦社会の権威主義を国民に強いながら戦争に突入し、アジア諸国に多大な傷跡を残した。そのおぞましい残虐行為は、かつて立花隆が紹介した「日本軍占領下のシンガポール〜華人虐殺事件の証明」などに生々しく書き残されている。今の日本はそれをすっかり忘れているが、やはりその根元には、戦争に特有の問題だけでなく、そこに容易に落ち込んでしまう民族の厄介で危険なDNAが働いていたと思わざるを得ない。日本は忘れているかも知れないが、今のアジアはその記憶と警戒心を拭い去ってくれているのだろうか。

◆レーダー照射事件の応酬に見る日本のDNA
 今回のレーダー照射事件に端を発する日韓の応酬の場合。もちろん、この事件は韓国側に発端があったと思われるが、問題は事実の背後に北朝鮮を巡る日韓の複雑で入り組んだ思惑と不信があることだ。それはそれで、別途書くべきと思っているが、この間、日韓の応酬に伴って右翼雑誌がヒートアップし、「やられたらやり返せ!」と書き、自民党の政治家がいきり立って「経済制裁だ、断交だ」と政府を突き上げる姿を見ると、この厄介で危険なDNAは戦後70年経っても変わらないものだと思う。むしろ、戦後の反省の時期を過ぎ、世代が代わったところで日本でもドイツでも再び息を吹き返しているようにも見える。私たちは、その厄介で危険なナショナリズムというDNAを自覚的に乗り越えられるだろうか。

民主主義がやせ細る時代に 19.1.19

 年明け、様々なメディアが2019年の世界の政治的展望と、日本の平成時代を振り返る論調を展開している。その中で特に目を引いたのが「民主主義」という言葉である。本来、現代の政治・社会が目指すべき大事な理念が、その根っこのところで揺らぎ始めているという危機感である。一つには今、世界各国で強権的で独裁的、そして排外的な政治家が次々と登場していることがある。例えばアメリカだけでなく、ハンガリー、トルコ、ポーランド、ブラジル、フィリピンなどの国々で、移民への厳しい姿勢や、分断を煽る極端な政策を掲げる政治家が現れ、「ミニトランプ」などと呼ばれている。

 一方の欧州では、オーストリア、ドイツ、フランス、オランダ、イタリアなどで反EUの自国第一主義を掲げて、移民を排斥する極右政党が台頭し、今年5月の欧州議会選挙では、議席をさらに伸ばす勢いだ。「民主主義の死に方」の著者、ダニエル・ジブラット(米ハーバード大教授)は、これらのリーダーには、4つの共通する特徴があると言う。民主主義のルールを軽んじること、対立相手の正当性を否定すること、暴力を許容・促進すること、メディアを含む対立相手の市民的自由を奪おうとする姿勢、である(新年インタビュー、朝日1/8)。

◆日本にも民主主義がやせ細る状況が
 ジブラット教授は、民主主義を脅かす政治が台頭する背景には、政治的な二極化、分裂が深まっていること、経済的な不平等や格差が拡大していることがあると指摘。これは民主主義にとって慢性の病気のような深刻な問題であり、放置すると死に至る可能性があると言う。民主主義が脅かされているという、似たような指摘は今の日本についても目立っている。例えば、平成になって導入された小選挙区制の弊害である。民意以上の議席数が増幅されて一党に集中し、それが行き着いた安倍政権では、一強状態が続く長期政権の驕(おご)りによって民主主義がやせ細っている。

 民主主義は最終的には多数決だが、その前提にあるのは少数意見の尊重でなければならない。しかし、安倍政権は国の将来を左右する重要法案に関して、少数意見には全く聞く耳を貸さずに、国論を分裂させたまま、強行採決を繰り返してきた。かつての「決められない政治」の反動なのか、「決める政治」に前のめりになって、国会や少数意見を軽視する「粗い国会運営」(12/28毎日)が日常茶飯事になっている。小選挙区制が、過度の権力集中による横暴を許してしまったわけで、これは民主主義の政治とはほど遠い姿である。  

 また、不祥事を起こしても誰も政治責任を取らないことが、民主主義の根っこを腐らせているという指摘も(朝日12/30)。財務省による公文書の改ざんといった「民主主義の根幹をずたずたにする」大事件が起きてもトップ(麻生)は責任をとらない。この無責任体質は他の閣僚や議員も同様で、政治資金報告を何度も書き換えている片山さつきも、「LGBTは非生産的だ」と書いた杉田水脈なども平然と居座っている。森友・加計問題の首相や忖度官僚たちも同じ。「政治責任が有効に機能しないところには民主主義が存在しない」(憲法学者、杉原泰雄)の言葉から見ても、民主主義の病状は深刻だ。

◆ないものねだりの理想論と国会改革
 民主主義がやせ細る時代にあって、民主主義の構成員である野党、メディア、そして国民はどうすればいいのだろうか。強大になりすぎた権力者の暴走を止める有効な手段はあるのだろうか。ジブラット教授は、民主主義が機能する上で権力者に求められるのは「政治で競い合う相手は敵でなく、正当な存在であると認める『相互的寛容』。政治家が特権を行使するときにわきまえる『自制心』。この2つが民主主義を守る『柔らかいガードレール』になる」と言うが、今の安倍政権に『相互的寛容』や『自制心』を求めるのは、ないものねだりだろう。

 国会を強くすべきだという意見もある(朝日社説1/1)。一つは、(衆参どちらかの1/4以上が要求すれば)臨時国会の召集を義務づけている現行の憲法53条に、開催の期限を設けよという。安倍内閣は期限の規定がないことをいいことに野党の要求を無視し続けて来たからだ。あるいは「首相の専権事項」と称される国会の解散権。「国難突破」など恣意的な理由を設けては解散して来た首相の衆院解散権に、英国やドイツ並みに縛りをかけることである。しかし、今の巨大与党に、こうした提案に耳を傾ける謙虚さは期待出来ないだろう。

◆民主主義の担い手として、野党とメディアは?
 一方で野党はどうかと言えば、これが驚くほど発信力が弱い。多弱の野党は、巨大与党にいいように分断され力を削がれている。(移民政策や消費税など)個々の政策に反対の声を上げても、それは数の上で殆ど無力だ。4月の統一選挙、5月の参院選挙で、野党は何を対抗軸として訴えて行くつもりなのだろうか。それが全く見えない。本当は個々の政策はさておいても、上に書いたような政治の横暴と腐敗が民主主義の危機を招いているという「長期政権の弊害」を、国民の心に届く「物語性のある強いメッセージ」として訴えていくべきだと思うのだが。 

 ここで敢えて「物語性のある」と書くのは、今日本で起きている事象を世界的潮流の文脈の中で考えるという意味である。世界各地で強権的政治を生み出している「社会の分断や格差の拡大」は、この日本でも例外ではないということ。安倍政権は敢えて国民や野党を分断するような政策(改憲など)を持ち出し、反対勢力を敵視する社会的雰囲気を積極的に容認し、相変わらず竹中平蔵や大田弘子のようなブレーンを用いて、格差をさらに拡大する新自由主義的な経済政策を目指している。そうした政権がもたらす民主主義の危機を、野党は効果的にアピールできるかどうかである。

 一方、民主主義の担い手の一つであるメディアはどうか。権力に対する監視機能を十分果たしているだろうか。森友・加計問題に関してもそうだったが、目の前の些細な事象に囚われて重箱の隅をつつくような報道になり、いつの間にか事件の本質を忘れる結果になっていないだろうか。あるいは「安倍官邸VS.NHK」(相澤冬樹)が示すように、権力の締め付けによって上層部が萎縮し、現場に曖昧な報道を強いていないか。事実を踏まえながら政治の本質に迫る報道を可能にするには、メディアもやはり、今世界と日本で起きている民主主義がやせ細りつつある状況に対する認識と危機意識が必要になってくると思う。そこを是非期待したいところだ。

◆民主主義が失われるとき。私たち国民は?
 そして、民主主義の最大の担い手である国民は何をすればいいのだろうか。ジブラット教授は、「民主主義は、スイッチを押すだけで自動で動く機械ではない。不断の努力が求められ、常にエネルギーを注ぎ込まなければならない。民主主義に完成はなく、永遠に進化を続けなければならない」とし、「そうした努力によって人々の不満や怒りをしっかりと政治の場に反映させることができ、変化し続けることが出来る」と言う。これが理想だろうが、戦後に民主主義を与えられた私たちは、それがやせ細って行く時に立ち返るべき民主主義の原点を、しっかり共有しているだろうか(「政治腐敗と民主主義の試練」18.3.11)。

 ネットやメディアが発達し、誰もが発信できる情報化の現代。様々な意見が飛び交い、政治が身近に感じることもあるだろうが、それは(このコラムも含めて)錯覚に過ぎない。現実の政治は、別の次元の極右的な力学で動いている。その時に、主権者の国民が選挙にも行かず、集団でまとまった声も上げずに、「政治のことは政治家に任せていればいい。政治とはそんなものだろう」といった諦めと無力感に浸っているとしたら、それは権力者にとって好都合ではあっても、民主主義にとって危険な兆候だろう。民主主義が岐路に立たされているような2019年である。私たちは想像力を働かせて、それが失われた時の危険性を十分に心し、何が有効なのかを模索し続けなければならない。

恐怖の男・トランプの真実 19.1.8

 今年も、世界はトランプ大統領に何かと振り回される一年となりそうだが、暮れから年始にかけて読んだ本に「恐怖の男〜トランプ政権の真実〜」がある。著者はあのウォーターゲート事件をスクープしたボブ・ウッドワード(1943年生まれ、ワシントン・ポスト副編集長)である。この本が扱っているのはトランプが大統領選挙を戦っていた2016年7月から大統領就任後1年2ヶ月が過ぎた2018年3月までの期間。500ページを超える大部の本で、膨大な資料と多方面へのインタビューをもとにトランプの特異な性格と、公約に掲げた重要政策への彼の固執ぶりを描いている。

 それらの政策とは、地球温暖化のパリ協定からの離脱、国境に壁を作ることや移民が家族を呼び寄せることができるオバマ時代の政策を廃止する移民政策、北朝鮮の核問題、TPPからの離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)の破棄、イラン核合意の破棄、貿易不均衡を是正するための関税政策、アフガニスタンや韓国からの米軍引き上げなどである。加えて、シリア爆撃、そしてロシア疑惑捜査問題など、実に1年2ヶ月とは思えない慌ただしさである。もちろん、これらは政権内部でも意見が分かれる政策で、ホワイトハウスは対立と混乱に陥って行く。 

◆「ディープ・バックグラウンド」インタビュー
 高官同士の衝突、スタッフ間の足の引っ張り合いなどの権力闘争が渦巻き、次々と重要人物が辞任していく。それでもトランプは弱みを見せずに、辞めたいという閣僚たちの首を事前に切り、ツイッターで激しく非難する。ホワイトハウスはまるで血みどろの動物園のようになっていくが、これらの場面がまるでそこに居合わせたような「会話体」でつづられているのに驚嘆する。冒頭の覚え書きによると、それらの大部分は情報の提供元が特定されないようにした「ディープ・バックグラウンド」というインタビュー手法で書かれている。

 全部で42の章立てになっているが、各章にはタイトルがなく、ほぼ時系列的に発生するテーマが次々と現れ、しかも登場人物が40人以上に上る。著者(写真)自身の評価を交えずに、取材源によって語らせる(ある意味)客観的な手法をとっているので、「それでどうなのだ」という要点を絞るのに読者は苦労するのだが、今回は私なりにこの本から2つほどのテーマを取り出して書いてみたい。各政策についての議論はさておき、一つは様々な証言から浮かび上がったトランプという人間の異常性について。もう一つはトランプとその応援団を特徴づける思想的背景の今日性についてである。

◆歴代大統領とは全く異質な存在
 選挙に多大な影響力を発揮したスティーブ・バノン(大統領首席戦略官)は、当選が決まった日のトランプについて「自分が勝つだろうとはこれぽっちも思っていなかった。この瞬間のための準備に1秒も費やしていなかった」と表現したが、トランプは就任早々から歴代の大統領とは異質な性格を見せ始める。衝動的で思いつきが多く、しばしば怒りと激情に駆られ、しかも気まぐれで忘れっぽい。目の前に書類がないと忘れることが多く、視界にないものは意識になくなる。

 トランプは、政策についての込み入った説明を受け付けない。スタッフは常に幾つかの選択肢を作って一枚の紙にまとめるが、それさえも目を通さないことが多い。意志決定と調整のプロセスを踏まずに数人で決定を下すことが多い。政府がどう機能しているかを全く理解しておらずに、自分で命令書を書いたり、口述したりすることもあった。従って、同盟関係を破壊するような政策を「今日やる」と宣言したような時には、高官たちはトランプのデスクから関係書類を盗むことまでしたと言う。「あの男がやらないように救ってやったんだ」と。

 一日6時間から8時間もテレビのニュース番組を見ている。自分を批判するメディアに憤慨し、それへの反論や敵対者に対して頻繁に行われるのが、ツイッターによる攻撃である。それが過激すぎて、スタッフに「こういったことばかりやっていると命取りになります。自分の足を撃つようなものです」、「ツイッターで戦争が起きるかも知れませんよ」と忠告されても、「これは私のメガホンなのだ。こうやってコミュニケーションをとる。私が選ばれた理由、成功した理由はこれなんだ」と言って、やめない。そして常に反応を気にしている。ツイートは大統領の職務の片手間ではなく中心なのだ。

◆「真の力は恐怖」を演じる大統領
 際立つのは彼の異常なまでの自己愛である。自分が誤っているとは絶対に認めない。誰かに反対意見をぶつけられたときは、つねに力を駆使しないと負けるというのが彼の本能的な反応だ。「何かを認めたり過失を認めたら、それで終わりだ。強くなければならない、攻撃的でなければならない」。交渉ごとでも「有利な合意を得るには、古い合意を吹っ飛ばすしかない。吹っ飛ばしたら、6ヶ月以内に相手国は交渉のテーブルにつくだろう」と豪語する。イエスという返事を得るために、まずノーと言えというのがトランプの交渉理論である。そして言う。「真の力とは、恐怖だ」

 もとは存在していなかったリスクの大きい緊急事態を創り上げて、自分の手札の方が強いと思わせるのが、彼の得意技である。北朝鮮を度々刺激した発言もそうだった。そのギャンブルのような手法に対して、マティス(国防長官)やティラーソン(国務長官)は幾度も危惧を表明したが、彼ら2人とも政権を去ることになった。意見が対立し、政治の経験がないスタッフたちが互いに相手を攻撃する血みどろの状態をトランプは好んだという。高官や安全保障チームは「大統領の不安定な性格、問題に対する無知、学習能力の欠如、危険なものの見方に、極度の懸念を抱いている」とメモしている。

◆反グローバリズムの流れに乗った大統領の明日は?
 アメリカ大統領とも思えないトランプだが、それでも一定の国民から(そして共和党議員からも)根強い支持を得ているのには理由がある。それは一口で言えば、行きすぎたグローバリズムに対する反感である。冷戦終結後のアメリカは、唯一の超大国として世界の警察官役を引き受け、紛争地に米軍を送ったり、反米的で非民主的な国家に軍事介入したりしてきた。それは、一方で軍と企業が結びついた軍産複合体や国際金融資本の世界進出とセットになっているが、儲かるのはそうしたグローバル企業だけで、犠牲はいつも国家や国民が支払ってきた。それが見えて来たのである。

 泥沼化しているアフガニスタンやシリアから米軍を撤退させたいというトランプの主張に対して、軍の上層部は米軍の駐留はアメリカ人をテロから守っているのだと説得するが、トランプは聞き入れない。同じように在韓米軍についても「あれだけ金を使ってこの貿易赤字だ。駐留は何の役に立っているのか」と撤退を主張する。トランプがやろうとしていることは、これまでの常識を打ち破るもので、同盟国や軍産複合体を敵に回しても財政負担の大きい世界の警察官役をやめ、世界を多極化に導く政策である。この反グローバリズムの政策は危険ではあるが、ある面では正しく、今は(世界的にも)強固な支持者がいる時代なのである。

 貿易収支についても同じ。貿易赤字は結局アメリカの経済にプラスになっていると幹部たちは説得するが、トランプは聞き入れない。彼にとっては、それで利益を上げているのは大資本で、彼の支持層の労働者たちではないと見ているのだ。しかし一方、トランプを包囲する既成勢力や金融資本の力は強大で、思うように動けないのも現実だ。それが富裕層であるトランプの弱点かも知れないが、世界に目を向ければ、この「反グローバリズム」の潮流は、移民問題も含めて今後どんどん大きくなって行く。その大きな流れに乗った異質な大統領の明日が、どうなるか。そして世界はどんな影響を受けるのか。目を離せない一年になりそうだ。

望ましい国の姿を見失う不幸 18.12.30

 2018年も間もなく終わろうとしている。この一年、世界は大きな戦争こそなかったが、自国優先の政治がぶつかり合い、欧米では移民や難民を排除する極右パワーが頭をもたげている。これまで世界に影響を与えてきた大国が国内的にも様々な分断と対立を抱えて混迷を深める中で、世界秩序を作ってきた国際機関が力を失い、切迫する地球的課題に適切に対処することが難しくなっている。安定とはほど遠い状況に陥っているそうした国々を見るにつけ、この国々が何か大事なものを見失っている“不幸”を感じる。その大事なものとは何なのか。年の終わりに当たって、少し大きなテーマを考えて見たい。

◆立ち往生するヨーロッパ
 例えば、EUからの離脱を巡って国内政治が暗礁に乗り上げているイギリスである。今のイギリスはメイ首相がEU側と取り付けた協定案の採決の目途が立たず、迷走に迷走を重ねている。そもそも協定案そのものが、英国憲法に違反する内容を含んでいるといわれ、だからと言って否決したら、待っているのは「協定なしの離脱」という経済の大混乱である。議会の出直し選挙や、2回目の国民投票という事態も考えられるが、もう期限的に間に合わない。EU側はその迷走を冷ややかに眺めているが、政治家の誰もこの事態を打開しようとしない。

 そもそもUE離脱を巡っては国論が真っ二つになっていて、国の命運が迫っているのに、政治家たちは互いに妥協せずにやり合っている。次の選挙に備えて自分の得になりそうなパフォーマンスを各自勝手に繰り返す。惨憺たる状況になっているらしい。イギリスのEU離脱は、先輩が主宰する勉強会の今月のテーマでもあったが、先輩は「あれらは政治家でなくて、政治屋だ」と言っていた。かつてはチャーチルなど大政治家を輩出した大英帝国も落ちぶれたものである。今のイギリスは、国を統合する何か大事なものを見失ってしまったのだろうか。

 一方のEU側だって褒められたものではない。ソ連崩壊やアラブの春を予言した歴史人口学者エマニュエル・トッド(仏)によれば、EUのメリットを最大限生かして一人勝ちになっているのはドイツだけ。ほかの国々はドイツに甘い汁を吸われて隷属させられているという(「“ドイツ帝国”が世界を破滅させる」2015年)。中でも彼の母国フランスは、ドイツと手を組んだ巨大金融資本に踏みつけられ、国民大多数の貧困層の怒りが高まっている。この状況は、最近の黄色いベスト運動(政府に対する抗議デモ)に見るように、マクロン大統領になっても変わらないように見える。

◆国民大多数が共感する望ましい国の姿
 アメリカや中国、ロシアの権力者のように日頃は強権的なやり方をしながら、口を開けば自国民に「偉大な国家を!」と、国民の心に響かない夢を押しつけるのも困ったものだが、イギリスやフランスのように、政治家が国民に夢を示せず国家の混迷に拍車を掛けている状況は不幸でしかない。それは、かつては経済的にも豊かで歴史的遺産に恵まれ、文化的にも世界の憧れだった国が自分たちの良さを見失っている姿でもある。強欲な金融資本に牛耳られて国内に分断と格差が広がる中で、彼らが見失っているものとは何なのだろうか。

 それは多分、国民を緩やかにまとめていく共通の価値観や精神性、あるいは国民誰もが思い描く国家の望ましい姿のイメージではないだろうか。憲法のように言葉で規定されるものではなく、国民の最大公約数的な思い。それがあることによって、社会が穏やかで平和になり、互いに助け合って生きることができる。そのようなものなのではないだろうか。具体な言葉で指し示すことが出来ないにしても、(今の英仏のように)それを見失った時の不幸を感じることは出来る。その意味で、お隣の今の韓国も、そうした不幸を示していると言えないだろうか。

◆一頃の夢を忘れた韓国の不幸
 (通貨危機をIMFの資金援助で脱した後の)一頃の韓国は、韓国ドラマでアジアを席巻し、サムソンやヒュンダイで新興工業国としての存在感を示し、国民も元気に夢を抱いた感があった。しかし、続くリーマンショック(2008年)以後は、若者の失業率や自殺率の高さに悩んでいる。今の文在寅(ムン・ジェイン)大統領になってからも国内の格差は激しく、若者たちの行き場のない怒りが溢れている。そういう時に、上から下まで、その怒りを日本にぶつけているのが現状ではないか。目の前の対象に怒りをぶつけても、それは決して韓国の将来を切り開く夢や誇りにはつながらないのにと思う。

 従軍慰安婦の少女像を立てる運動をしたり、徴用工問題で日本企業に抗議したりするのも自由だが、それだけが自分たちのアイデンティティになってしまっているのは不幸だと思う。余計なお世話かも知れないが、もっと大事な民族精神の支柱を探すべきなのに、韓国はそれを忘れているように見える。もちろん、同じ民族が南北に分かれているという深刻な悲劇はあるが、それを超えて国民大多数が共感する夢や誇りを大事にすべきではないだろうか。それを韓国は持っているはずなのに、いつまでも日本を敵視し続けることが明日の共感につながるのとは思えないのである。 

◆天皇会見に見る、国民統合の象徴とは
 では、日本はどうなのかと言われそうである。答えのヒントの一つは先日、天皇誕生日を前にして行われた「天皇会見」の中に見つけることが出来るのではないかというのが、私がここで言いたいことである。天皇は即位以来、日本国憲法(第一条)に定められた「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」を真剣に模索し考え抜いて来たのだから、当然と言えば当然。これまで書いてきたような、国民大多数が共感できる国民統合の精神について語るのに、天皇ほどふさわしい人はいない筈だ。あの時、天皇は何を語ったのか。

 16分にわたる会見の言葉の中から、日本という国の望ましい姿について触れているポイントだけを取り上げると、3つほどに集約できる。その一つは、戦争のない国としての平和と繁栄である。つまりは「平和国家と豊かさ」。先の大戦を見て来た天皇にとって、戦争は国家を焼け野原にし、貴重な人材を無にする最大の罪と捉えているのだろう。第2には、過去幾多の不幸に耐えてきた沖縄への思い、あるいは災害の被災者に対する同情に見るように、「弱者へのいたわりと寄り添い」である。弱者への慰問を続けて来た天皇ならではの言葉である。

 3つめは、天皇が外国人労働者問題に触れたときに述べた、過去の「日本の移民を受け入れてくれた国々への感謝」と、その恩返しとしての「外国人を温かく迎えること」に見られる、「各国との親善友好関係、国際協調」である。ここに上げた3つの価値観、「平和と繁栄、弱者への寄り添い、国際協調」は、戦後日本が目指してきた国民共通の価値観といえる。それを国民統合の象徴である天皇が、いみじくも指摘してくれている。国民融和の精神を考えるとき、今の日本にとってこれほど適した言葉は見いだせない。日本はこれを見失ってはいけないと思う。 

◆それに対して安倍政権は?
 一方、現政権がやって来たことは、天皇の言葉とかなりずれている。むしろ反対の方向に進んでいると言ってもいい。平和の基礎となっている現憲法を否定し重武装を目指す。弱者である沖縄の声に耳を貸さずに、埋め立てを強行する。移民を移民と言わずにモノとして扱う。あるいは、一部の政治家の声に押されて捕鯨の国際機関から脱退する。今の安倍政権が目指す国家像は、何度も書くように明治期の時代錯誤的なものだから当然とは言え、このまま行けば日本の価値観は分断され、各国のような混迷に陥らないとも限らない。この際、少しは立ち止まって天皇の言葉の重さを考えたらどうかと思う。

安倍政権を走らす2頭の馬 18.12.16

 12月10日、48日間にわたる秋の臨時国会が閉会した。この間、国会は外国人労働者を受け入れる「改正入管法」の是非を巡って紛糾を続けたが、8日未明には与党が強行採決。また、これも様々な議論がある水道の民営化をしやすくする「改正水道法」も6日に強行採決された。さらに、水産業の「成長産業化」を目指すという触れ込みで、70年振りに漁業法も今国会で改正されている。国の将来に大きな影響を及ぼす、これらの重要法案が疑問にまともに答えないはぐらかし答弁や、ただ時間を消費するための無意味な与党質問といった国会軽視の末に強行採決されたわけである。

◆安倍政権を暴走させる2つの黒幕とは?
 数の力で強行採決を連発する安倍政権に対しては、野党の対抗措置も全く無力で、大臣の不信任案や首相の不信任案も時間稼ぎのパフォーマンスにしか映らない。この繰り返しを見ている国民の方にも、いまや「今の政治には何を言っても無駄だ」というしらけた気分が漂っている。それがまた政権側の思うつぼで、今は何をやっても、どうせ来年の参院選挙までには忘れるだろうと高をくくっているに違いない。国会が空洞化して国民の間に政治不信が広がり、無力感や諦め、政治に対する無関心が蔓延する現状は、日本の民主主義にとって由々しき事態と言える。

 それにしても安倍政権は、何故このような重要法案を息せき切って次々と強行採決するのだろうか。その背景には何があるのか。私の見るところ、今の安倍政権は自分の支持母体である2頭立ての馬車に乗って暴走しているようなものだが、その2頭の馬たちは必ずしも同じ方向を向いて走るとは思えない。その矛盾は端的に「改正入管法」の外国人労働者受け入れを、あくまで「移民ではない」と言い張る自己撞着にも現れているが、手綱を持つ安倍は、果たして股裂きならずにこの2頭の馬をうまく制御することが出来るのか。安倍政権を走らす黒幕的存在を“2頭の馬”に見立てて、その実体について書いてみたい。

◆その@、「日本会議」に代表される右翼保守層
 12月10日、首相は国会閉幕後の会見で、2020年に新憲法を施行するという目標について「今もその気持ちは変わらない」と述べたが、この言葉は2頭のうちの1頭に向けた宣言である。それは、安倍の思想的母体である「日本会議」に代表される右翼(極右)保守層だ。彼らは、戦後の占領政策(戦後レジーム)の否定と、戦前的価値への回帰を目指す勢力で、具体的には太平洋戦争の肯定と平和憲法の否定(改憲)、連合国による東京裁判の否定、靖国神社参拝の奨励、万世一系の天皇を中心とした国柄を強調する。(「日本会議の研究を読む」16.6.25)

 安倍は首相就任以来、「強い日本を取り戻す」と言いながら、(右翼保守層が求める)特定秘密法案、安保法制、共謀罪など、一連の国家主義的法案を人馬一体となって強行採決する一方で、年々防衛費も拡大してきた。その仕上げが改憲になる。安倍は政権の座にいる限り、権力維持のためにも常に改憲を言い続けなければならない。改憲の旗を下ろしたりすれば、彼らはたちまち安倍を見放すからだ。同様に、北方領土返還で「2島返還+α」に方向転換するような時には、交渉の内容を秘密にしながらの極めて慎重な手綱さばきを強いられる。この右翼保守層の馬がいつ暴れ出すとも限らないからである。

◆そのA、新自由主義的な強欲な資本主義
 もう1頭の馬とは何か。それは、政府の規制改革推進会議に代表される(アメリカ生まれの)新自由主義的な経済である。例えば、今国会で成立した「水道民営化」。これは、人口減少などで経営悪化が心配される水道事業で、自治体が水道施設の所有権は保有しながら、運営の権利を長期間、民間業者に売却するもの(コンセッション方式)である。広域化を図って経営基盤を強化するためとされるが、同様の方法で民営化を進めた海外の例では、水道料金の値上げや、コストカットによる水質の低下、幹部の高給化をたくらむ強欲な運営など、幾つもの問題点が指摘されている。

 それでも議論を封じて強行採決した背景には、いわゆるカジノ法案(IR法)を始めとして、何でも民営化して成長戦略に取り込もうとする政府の強い意図がある。規制を取り払って民間企業を参入させるコンセッション方式は、上水道に限らず下水道、空港、道路の運営にも適用されていて、既に下水道では浜松市で「水メジャー」と呼ばれる海外企業(仏ヴェオリア社の日本法人)が参入している。今回の水道民営化でも、陰で法案を推進する内閣府の部署にヴェオリア社の関係者が関わっていたというが、これが儲け話につながるからこそで、何だか怪しい話である。海外の大手資本が虎視眈々と日本を狙っているのだろう。
 また、70年振りの「改正漁業法」にしても、ねらいは水産業の“成長産業化”とされる。これも大手企業の参入によって従来の漁業権の持ち主(地元の漁業組合など)が、閉め出される可能性が指摘されている。

 こうした民営化の動きは、多くは「規制改革推進会議」が提唱元になっているが、その考えのベースには市場原理主義、あるいは新自由主義経済と言われるものがある。この強欲な資本主義とも呼ばれる新自由主義経済は、しばしば従来の制度が疲弊し行き詰まった弱い状態(ショック状態)につけ込んで侵入するが、人口減少や農漁村の疲弊を狙ってそれを金儲けの対象とする一連の動きは、「日本型ショックドクトリン」と言えるかもしれない(「規制改革という名の破壊」18.5.14)。

◆貧困層を固定化して少子化問題を先送りする「改正入管法」
 外国人労働者を受け入れる「改正入管法」についても同様のことが言える。この法案は人手不足に悩む産業界、農林水産業界の要望にこたえるものだが、内容はご都合主義的で抱えている問題は深刻。これまで低賃金、失踪など、何かと問題が多かった「技能実習生」制度の延長として、あるいは直接に試験を経て入国、滞在できる制度として、「特定技能資格」を設ける。資格の1号は最長5年まで、2号になると長期滞在可能で家族の帯同も可能になる。この法案もある面では、強欲な資本主義の馬が走らせた政策である。

 例えば、外国人労働者を受け入れる企業には、日本人と同等以上の報酬を払わせることになっているが、それは日本人の給料自体を下げる圧力として働く心配がある。企業にとっては、外国人労働者の低賃金をベースにして日本人の賃金を低く抑えるカードになり得るからだ。今の日本には、平均年収186万で暮らす1千万人の貧困層がいるが、「改正入管法」はこの状態を固定化するもので、人手不足の真の原因である少子化対策になるものではない。この法案の強行採決も、いわば貧富の格差を黙認して利益に走る「強欲な資本主義」の性格を持つ、もう1頭の馬のためだろう。

◆移民なのに移民と言えない理由は?
 「改正入管法」のさらなる問題は、5年、10年と滞在すればどうしても家族が出来たりするが、これを認めない「人間を人間として扱わない」政策にある。あるいは資格2号は、実質的に「移民」なのに移民ではないと言い張って、必要な社会保障制度を無視していることにある。政府は、なぜ「移民」と言えないのか。そこにもう1頭の馬である右翼保守層の意向が働いている。彼らが移民に反対するのは、移民によって万世一系の天皇を中心とする国柄が根底から揺らぐからである。国粋主義的な単一文化を信奉する彼らに、多文化主義は受け入れがたいのである。 

 安倍政権は今、本来走る方向が必ずしも一致しない2頭の馬の鼻息を伺いながら、将来に禍根を残しかねない矛盾に満ちた「移民政策」に舵を切ろうとしている。曖昧なご都合主義を抱えながら、政権の維持のために必死に2つの支持層のご機嫌を取って、双方の喜ぶような何でもありの政策を続けている。その中では国民の大多数が無視される政治が続き、国民の間に分断と格差、そして政治不信が広がって行く。暴走を続ける2頭立ての馬車が、いつ転覆するのか、しないのか。このまま暴走していった時に、日本はどうなるのか。2頭立ての馬車には国民も否応なく引きずられていることを忘れてはいけないと思う。  

メガシフトBゲノム編集 18.12.3

 中国の研究者が人間の受精卵にゲノム編集技術を適用して、双子の女児を誕生させたというニュースが、世界を震撼させている。研究者の賀建奎(南方科学技術大学副教授)が出席した「ヒトゲノム編集に関する国際会議」(香港、11/27)では、各国の研究者から批判と疑義が集中したが、肝心の研究内容がよく分からない。彼は生まれる子どもが父親のエイズウイルスに感染しないように、ゲノム編集技術を使って、感染に関わる遺伝子を除去したと主張するが、それは必要不可欠な方法だったのか。関係する大学も病院も事実を把握していない上に、研究者は生まれた女児についてもプライバシーを盾に公表を阻んでいる。

 どうも、これまでもしばしばあったような、功名心にかられた研究者の虚偽的スタンドプレーのような気がしないでもないが、仮に事実としても、倫理的な手続きを踏まない極めて違法性の高い「勇み足」的な実験だ。中国科学技術省は、「学術界が守るべき道徳倫理の一線を踏み越え、法規や条例に公然と違反した」とし、彼の研究活動を停止するとともに事実関係を調査した後に、処分すると言う。日本では、日本ゲノム編集学会、医師会、日本医学会が批判声明を出すなど、世界中から非難が巻き起こっている。

◆ゲノム編集。人がヒトを加工することは許されるか
 一方の彼は、YouTubeの動画などで、「研究が議論を呼ぶことは理解しているが、この技術を必要としている家族のためなら、進んで批判を受け入れる。この成功を誇りに思っている」と確信犯的に主張している。しかも現在、2例目が初期妊娠中だとも言う。彼が人間の受精卵に施したゲノム編集技術については後で書くが、この技術は従来の遺伝子組み換えと違って極めて正確に遺伝子を破壊したり、ほかの遺伝子を組み込んだりできる最新の技術で、人がヒトを加工するという全く新しい扉を開くものと言える。

 ゲノム編集は、既に動植物には応用され始めているが、仮に人類がこの技術を欲望のままにヒトの受精卵に応用すれば、突然変異人間(ミュータント)や、望むように外見を作り替える「デザインべービー」、あるいは運動や知能などの「超人」を生み出すことも可能になり、まるでSF映画のような世界になりかねない。従って今はまさにパンドラの箱が空いた状態、100年に一度の「メガシフト」の時代なのだが、人類は果たしてこの技術をコントロール出来るのか。過去に制作した番組の経験などを踏まえて、2つほど問題点を提起してみたい。 

◆「誕生革命の衝撃〜いま赤ちゃんに何が?」その後
 私たちが、ヒトの誕生の現場で起きている様々な試みを番組で扱ったのは、34年前の1984年。NHK特集「いま生命は」シリーズの1回目「誕生革命の衝撃〜いま赤ちゃんに何が?」だった。その中で私は、体外受精した人間の受精卵を女性の胎内に戻すための様々な操作を顕微鏡下で撮影した。場所は、フィラデルフィアのペンシルバニア大学。検査技師が、培養された人間の受精卵をシャーレの中でごく細いスポイト状のガラス管で吸い込んだり、吐き出したりさせて、受精卵の周囲にゴミのように着いている保護膜を取り除いていく。

 直径10分の1ミリの小さな受精卵は、すでに細胞分裂を始めていて、顕微鏡で拡大すると、何となく胎児の姿を想像させる。私は、人間が人間の命でもある受精卵を、シャーレの中でまるで物体のように扱うその作業に衝撃を受けたものである。女性の胎内で行われていた受精という神秘の過程を、試験管やシャーレの中で行い、培養して胎内に戻す。この体外受精の技術が確立すると、次に人間が考えたのは、その受精卵を他の女性の胎内に戻して赤ちゃんを産んで貰う代理出産(借り腹)だった。当時はまだ構想段階でタブー視されていた借り腹だが、これが今では常態化している。

 2年ほど前に見たドキュメンタリーでは、中国出身の実業家が中国から(子宮に難があって妊娠できない女性などの)富裕層の希望者を募って、アメリカで代理出産させるビジネスを展開していた。私たちの番組後に出版した本(右)のあとがきで、プロデューサーの須江誠さんは「今の科学技術は極めて高度化し、直接の専門家でないと理解しにくく、密室化しやすい。しかも、元来、専門家は“技術”をいったん手にすると、さらにそれを進めて応用したい、実用化の道を広げていきたいという衝動を抑えるのがむずかしい傾向を持っている」と書いているが、その通りの展開になっていることが分かる。

◆神の領域に手を染めるゲノム編集
 そして、その延長線上にあるのが30年後のゲノム編集である。それは体外受精の技術の上に成り立ってはいるが、さらに受精卵内部のDNAにまで手を加える点で全く違っている。私が編集長として関わった「サイエンスニュース」(科学技術振興機構、2017年)では、2回にわたってこの最新技術の可能性と課題を取り上げたが、複雑な技術をいかに分かりやすく伝えるかに苦労した。2005年以降に発見開発されたゲノム編集技術には幾つかの方法があるが、今回中国で使用されたのは最も簡便な方法とされる「クリスパー・キャス9」と言われるものである。

 ハサミとして機能する人工酵素の鎖が、エイズ感染に関わるCCRSという遺伝子に正確に取り付いてそれを破壊する。これをノックアウトというが、ゲノム編集は、いわばハサミと糊の役割をする酵素を使って、正確に狙った遺伝子を破壊したり、そこへ別の遺伝子を組み込んだり(ノックイン)出来る。従来の「遺伝子組み換え」が、どこに遺伝子を組み込めるか偶然任せだったのに比べ、正確かつ簡便な技術なのである。既にヒトの全遺伝子の読み取りは終わっているので、不都合な遺伝子を除去したり、別な遺伝子を組み込んだりすれば、遺伝病の治療はもちろん、肌の色、目の色なども自在に変えられることになる。

 動植物に対しては、この技術を利用して色が黒くならないマッシュルームやアレルギー源のない卵を産む鶏などが作られているが、これを人間に応用するとなると、まだまだ未解明の部分が多い。正確にターゲット遺伝子が除去できるのか、また、その遺伝子を除去したとして、影響がまわりの遺伝子に及ばないのか。あるいは、特に細胞分裂が進んだ段階での応用は、その効果が全細胞に行き渡らず、まだらになる(これをモザイク化という)心配もある。人間の場合、影響は何代にもわたって続くだけに、各国は受精卵の研究そのものは認めても、それを母体に戻すことを禁じて来た。 

◆必要な「倫理と哲学」と「情報の共有」
 しかし、エイズ感染の予防のために行った今回の例のように、様々な遺伝疾患の治療を口実に、その突破口が開けられる恐れは十分にある。技術応用の衝動にかられがちな研究者に、どこまで歯止めがかけられるのかが、この先も大きな課題として人類にのしかかって来る。それを少なくとも可能にする一つの方法は、各国が一致して厳しい基準を設けることだが、そこで問われるのは、単に技術のリスク評価だけではない筈だ。ドイツが原発を「非倫理的エネルギー」と認めて脱原発を決めたように、目先の有用性や経済論理を超える「高い倫理性と哲学」が必要になってくるだろう。

 さらに言えば、これらの情報を研究者の密室に閉じ込めるのではなく、国民全体で共有して行くことである。そのためには、メディアも含めて情報共有の様々なチャンネルを充実する必要がある。この点で言えば、私がかかわった「サイエンスニュース」も、残念ながら公的予算が打ち切られて2年近く中断されたままになっている。これからの科学技術はますます難解になるが、それだけに、その扱いを一部の研究者(あるいは団体、学会)にだけ任せるのではなく、メリットもデメリットも含めてわかりやすく国民すべてに伝えて行く努力を怠ってはならないと思う。

どうなる?米中対立と日本 18.11.25

 「メガシフトA・巨大国家中国」(18.11.15)で紹介した、ペンス副大統領の中国批判は、半分は当を得ていると思うが、中国からすると半分は「アメリカも同様なこととやって来たではないか」言うようなものだ。例えば、戦後のアメリカは情報機関CIAを使って敵対的な国の政治に深く関与し、時にはクーデタを仕掛けたり、暗殺などにも手を貸したりしてきた。援助による支配もプロパガンダもお手の物である。軍事的にもアメリカは、中国を目と鼻の先で取り囲む韓国、日本に基地を置き、台湾、フィリピンを手なづけて、蓋をするように中国を押さえ込んでいる。仮にこれが逆ならアメリカも黙ってはいない筈。それが覇者の覇者たる所以なのである。

 従って、ペンス演説に対しては中国の方も黙ってはいない。アメリカの中間選挙に干渉していると言う批判に対しては、中国外務省の華春瑩(か・しゅんえい)報道官が「まったく雲をつかむような、ありもしない捏造(ねつぞう)だ」と反発。中国が経済支援を行う相手国を債務漬けにしているとの批判に対しても、「中国の援助は開発や生活の向上に集中し、条件付きでもないため、多くの国から広く歓迎されている」としたうえで、「中国の支援のために債務の罠に陥っている国はない」と反論した(王小竜国際経済局長)。

 こうした米中の激しい対立は、11月の東南アジア諸国連合(ASEAN)やアジア太平洋会議(APEC)にも波及し、18日閉幕のAPECでは初めて首脳宣言を断念する騒ぎに。この事態が、台頭する中国の挑戦によって引き起こされる「世界の覇権を巡る米中の暗闘」だとすると、この対立はこれから何十年にもわたって続くことになる。両国の間にあって日本を始めとする世界各国が翻弄されるわけだが、この暗闘はどういう結末を迎えるのか。中国は世界一になれるのか。日本はどのようになって行くのか。前回にも少し触れた、ジャック・アタリの「新世界秩序」から参考になる部分を取り上げてみたい。

◆思想家ジャック・アタリの「新世界秩序」
 1943年生まれのフランスの経済学者で思想家のジャック・アタリ(右)は、「ヨーロッパを代表する知性」として常に発言が注目されてきた。1992年のEU成立の影の立役者であり、現在のフランス大統領マクロンの生みの親とも言われる。あの「サブプライムローン問題」や「世界金融危機」を予言した人でもある。彼の新著「新世界秩序」は、その副題が「21世紀の“帝国の攻防”と“世界統治”」とあるように、前半は過去の帝国による覇権の歴史(武力と宗教による統治から資本主義による世界秩序へ)を扱い、さらに近代のイギリスからアメリカへの覇権の移行と、21世紀のアメリカの緩やかな衰退を予測している。

 後半では、絶対的権力者のアメリカが衰退し、無政府化しカオス化する21世紀の世界を扱う。そこは、新たな金融危機、人口爆発、難民・移民問題、地球規模の環境破壊、地域紛争の多発、排他的な原理主義などの様々なリスクに満ちている。これらは往々にして、一挙に地球規模にまで拡大する「グローバル・システミック・リスク」と言われるものだが、今の世界では誰もこれを抑止する能力がないと警告する。
 こうした世界的な破局を避けるためにも、人類が知恵を出し合い、これまであった様々な世界システムを統廃合しながら、世界を統治する新たな「世界秩序」(世界政府)を作ることを提唱し、その統治の姿まで提示する。さすが世界の知性による壮大な物語だが、アタリはその過程で米中など大国の未来を予測する。

◆緩やかに衰退していくアメリカ
 21世紀、現在の覇者であるアメリカ、そして中国やロシア、インドなどの大国はどうなるのか。アタリはまず、帝国の条件として「その時代で最も重要な(軍事的、商業的)コミュニケーション・ネットワークを支配する手段を備えていること」を上げ、この点でアメリカは、これからも世界一の大国ではあり続けると言う。世界最大の軍事力を保持し続け、自国が発行するドルが世界の主たる通貨であり続ける。また世界中の最も才能ある人々を引きつけ、今後も技術革新、研究開発、メディア、デジタル・ネットワークの中心であり続けるからだ。

 ただし、長期的視野に立った場合、こうしたことはアメリカの衰退を防ぐのに役立つとは言えない。何故なら、相対的に見ると他国の経済成長がアメリカを上回るからだ。人口でもGDPでも世界に占めるアメリカの比率は低下していき、防衛費の対GDP比も下がらざるを得ない。さらに、失業や不平等の増大、インフラの老朽化、社会福祉の機能不全によって、世界はもはやアメリカを理想のひな形と考えなくなる。アメリカは西ローマ帝国が滅びた後も千年生きながらえた東ローマ帝国などのように、大国ではあるが、緩やかに衰退していくだろう。 

◆巨大国家・中国の限界
 一方の中国はどうか。中国の軍事力は今後、飛躍的に増大するだろう。またGDPにおいてもアメリカと肩を並べるくらいまでにはなる。但し、一人当たりの所得はアメリカ人の半分にしかならない。もし、中国国民全員が今のアメリカ人が消費しているのと同じだけの石油を消費する日が来るとすれば、中国は現在の世界生産量の130%を手に入れる必要がある。食料について言えば、世界の穀物生産量の3分の2、食肉生産量の5分の4を独占する必要がある。これは膨大な量で、果たして可能だろうか。しかも、中国が抱えるひずみもまた巨大である。

 一つは高齢化。2020年には高齢者が2億5千万人にも達し、2050年には3分の1が60歳以上になる。そのために財政を社会福祉や年金などに振り向けなければならなくなる。また国内が民主主義に変化していくにつれ、社会的対立や動揺が起きて成長を鈍らせるだろう。その結果、中国は世界一にはなれず、今後も暫くは地域的な大国に止まるだろう。何より、中国はいまだかつて(世界のシステムを構築するような)普遍主義的な資質を発揮したことがないからだ

 もしいつの日か、中国が世界第一の大国になる日が来ると仮定しても、この地球を統治するだけの手段を持つのには、ほど遠いだろう。中国自身が抱える問題が既にかなりの規模であるのに、そこにさらに地球が抱える膨大な問題が加わるのだから、到底、手に負えるものではないからである。誰もが絶対権力を握れない21世紀の世界は、ますます無政府化し、カオス化し、「グローバル・システミック・リスク」にさらされていく。だから世界は力を合わせて、世界統治機構(世界政府)を作るべきだとアタリは言う。

◆日本は大国であり続けるが
 一方で、日本についてのアタリの予測はそっけない。現在の日本は、将来的な技術の最重要部分を握っていて、科学と経済の分野では非常に大きな強国であり続けてはいるが、巨大地震を経験し、膨大な債務が重い負担としてのしかかり、隣の中国に圧倒され、極めて低い出生率によって弱体化している。今は、世界統治において、ほとんど何の役割も果たすことが出来ないでいると手厳しい。そう指摘したうえで、(かつて世界2位だった)将来の日本は、アメリカ、中国、インド、EUに続く大国としてあり続けるだろうと言う。

 人口減少、高齢化、財政赤字、そして(原発事故を含む)巨大災害などの弱点を抱える日本への評価は厳しくて当然だが、問題は今の政権がこうした次世代に関わる重要課題を直視しないことである。別のところで、アタリは「(こうした事態に対して)政権政党がとるべき態度は、次世代に奉仕することに尽きる。それが私たちの自身の幸福にもなる」と意味深いことを書いているが、翻って(改憲や目の前のことにかまけて)次世代に多大なツケを回すような日本の今の政治のありようは、情けないの一語に尽きる。