日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

誰が民主主義を救うのか 18.4.10

 3月27日の佐川元理財局長の証人喚問が終わって2週間。佐川の度々の証言拒否によって、公文書改ざんという犯罪的行為が、いつ、誰によって、何のために行われたのか、何一つ明らかにならないうちに、今度は防衛省によるイラク、南スーダンの日報隠蔽問題が発生した。現在、野党もメディアも森友学園問題は忘れたかのように、連日この問題を取り上げているが、私などには小野寺防衛相が持ち出した、この問題の発覚そのものが何となく胡散臭く思えてならない。もちろん、これは自衛隊のシビリアンコントロールが危ういという大問題ではあるが、これで防衛省に批判が集まっても、誰かが罪に問われる問題ではない。

 稲田元防衛相も政府も他人事のように防衛省側を批判し、再発防止策をまとめる、などと言っているが、この日報問題に比べて、安倍昭恵と官邸が絡む土地払い下げ事件と、それを隠すための公文書改ざんは、刑事事件に発展する可能性がある問題であり、ことの重大さが違う。この問題から気を逸らすために、政府が自ら日報問題を持ち出したとすれば、“陽動作戦”的な見上げた戦術であり、(結果的には)「肉を切らせて骨を切る」ことになるかも知れない。野党もメディアも度重なる不祥事と言った報道で安倍政権を批判しているが、攻めどころを間違うと、全てうやむやになって政権の思うツボになりかねない。

◆官僚の誇りを捨て、佐川は何を守ったのか
 それにしても、佐川は核心部分を証言拒否で隠し、安倍夫妻の関与については明確に否定するという「政権への露骨な貸し」を作ることによって、何を守ったのだろうか。一つには、佐川と政権中枢の今井尚哉(首相秘書官で安倍昭恵問題担当)とは、公務員同期で親しい間柄だったというが、そうした仲間うちの関係の中で、今後も家族共々生きる道を選んだからか。あるいは、政権に恩を売ることで自分の刑事事件化への圧力など、暗黙の見返りを期待したのか。何しろ、今までは「首相官邸の守護神」と言われる黒川弘(法務省事務次官)が、大阪地検の学園問題捜査にブレーキをかけていたというからひどい話である(「選択」4月号)。

 いずれも、官僚としての最低限の良心も誇りも捨てて、自己保身に走った末の 哀れな“開き直り”だが、佐川が最後まで真実に口を閉ざして国会と国民を冒涜(ぼうとく)する姿は、立法、行政への信頼を失わせ、民主主義の足元を揺るがす事態を招いている。この状況を外人の目から見て「日本の民主主義というシステムが、“あらゆるレベルで”深刻な病に冒されている」と的確に指摘する記者がいる。仏紙「ル・モンド」東京特派員のフィリップ・メスメール氏だ(「週プレ外国人記者クラブ」)。

◆外人記者が見た日本の民主主義の深刻な病
 彼はインタビューで、この「あらゆるレベル」の意味について、政府も官僚も国会も司法もメディアも、そして国民もだと言う。まず、森友問題が政府と官僚組織のいびつな関係から発生していること。そして行政の信頼の根幹をなす公文書が改ざんされるという、民主主義国家においてあり得ないことが起きたこと。さらに国会も、自身が虚偽の文書によって欺(あざむ)かれたにも拘わらず、(与野党の駆け引きに終始して)満足な追求ができていないこと。司法も、一連の出来事に対して独立性を示せていないことである。

 籠池を起訴しないまま、9ヶ月も拘留する異常な事態を許す一方で、口裏合わせや証拠隠滅の恐れのある佐川たちを未だに野放しにしていること。さらに、(頑張っているメディアもあるが)メディアも国民も権力によって分断されており、危機意識が薄いこと、などである。これが韓国なら100万人が声を上げ、フランスでは内閣が吹き飛んでもおかしくない状況だというが、日本では民主主義を担う各要素が機能せず、危機的状況にあることを多くの国民は気づいていない。特に国民一人一人が主権者としての自覚を十分持てていないことが、今の危機を招いていると指摘する。外から見れば、病の深刻さがよりはっきりと見えるのだろう。

◆映画「ペンタゴン・ペーパーズ〜最高機密文書〜」
 一方、民主主義の構成要素(担い手)が機能して政府の陰謀や暴走を押しとどめた例もある。最近見た「ペンタゴン・ペーパーズ〜最高機密文書〜」は、民主主義がきわどいながら機能した時代の政府対メディア、そして司法の攻防を描いた映画である。監督はスティーブン・スピルバーグ。機密文書を掲載したワシントン・ポスト(WP)の女性社主(キャサリン・グラハム)にメリル・ストリープ。WPの編集主幹(ベン・ブラッドリー)にトム・ハンクスが扮している。時代は、ベトナム戦争が泥沼化していた1970年初期の話である。

 まず、ニューヨーク・タイムズ社が、ベトナム戦争について歴代の大統領(トルーマン、アイゼンハウアー、ケネディ、ジョンソン)が、いかに国民を騙してきたかが、明確に記されている膨大な記録を入手する。それは、マクナマラ国防長官が後世のために調査させた国家の最高機密文書だった。そこには、歴代政府が関わった、秘密の軍事行動、不正選挙、暗殺、議会に対する虚偽などが記されていた。そして、1965年にはマクナマラは、既にこの戦争には勝てないことを知りつつその情報を隠し、政府は面子のために戦争を継続し、多くの若者を戦場に送り続けていたことが分かる。

◆政府が隠したくなるような事実を報道する勇気
 ニューヨーク・タイムズによる最初の暴露は、国民に大きな衝撃と怒りを引き起こしたが、時のニクソン政権はそれが国家の安全保障を脅かすとして、次回記事の差し止め命令を連邦裁判所に要求する。一方、先を越されたWPも、機密文書を盗み出したエルズバーグに独自に接触して4000ページにのぼる文書のコピーを入手。政府とメディアの攻防が続く緊張の中、グラハム社主は迷いに迷う。その頃、WPは経営打開のために株式公開を目指す最中で、載せるべきだと主張する編集主幹に対し、経営陣は全力でこれを阻止しようとする。しかし、ついにグラハム社主は法廷闘争を覚悟で掲載に踏み切る。

 この映画は、女性社主の自立とか、編集主幹との友情とか、映画としてのドラマが詰まった感動的な作りになっているが、基本に描いているのは報道の自由を保障した「アメリカ合衆国憲法修正第1条」を巡る戦いだ。「暗闇の中では民主主義は死んでしまう」という社のスローガン、そして権力者が知られたくないような事実を追求する勇敢さを描いている。半月後、最高裁判所も記事差し止めの訴えを却下した。「ニューヨーク・タイムズ、WP、そしてその他の新聞社が行った勇気ある報道は決して有罪判決に値するものではなく、むしろ建国の父が掲げた目的に報いる行為として賞賛されるべきである(一部)」と言って。

◆民主主義の危機を救うのは誰か
 記事が世に出ると、多くのメディアがこれを伝え、政府を批判する大規模なデモが国会を取り巻く。これが、後にニクソン辞任の引き金になった「ウォーターゲート事件」やベトナムからの撤退につながって行くわけだが、この時のアメリカは、(民主主義の担い手である)メディアも司法も国民も、民主主義の何たるかをしっかりと理解していた。翻って、現在はどうだろうか。アメリカもロシアも中国も、権力の独裁的な集中によって民主主義の担い手たちが萎縮し、分断されて試練に立たされている。

 同じように日本でも、長期政権の腐敗によって健全な民主主義が病み始めているのに、その担い手の多くがその現実に気づかない振りをしている。そんな民主主義の危機を救うのは誰かと言えば、それは民主主義の理念の大切さ、ありがたさを良く理解する担い手たち以外にない。戦後日本の民主主義は空気のように当たり前に存在した。失われてみないと分からないのかも知れないが、ここでもう一度、その理念や大切さを深く心する必要が私たちにはあると思う。

原発と世界最強の利権集団 18.3.31

 2011年3月11日の東日本大震災から7年が経過した。震災を振り返る報道は沢山あったが、一方で、原発事故に関する報道は何故か例年より少なく感じた。森友学園報道の陰に隠れたせいか。あるいは、メディアに対する締め付けが強まっているためだろうか。7年前のあの時、巨大な津波にのみ込まれた東北沿岸の惨状には息を飲む思いがしたが、続いて福島第一原発の1号機から3号機が次々と爆発しメルトダウンした事故は、日本と世界を震撼させ、私を震え上がらせた。今でも3.11から2ヶ月分の新聞2紙を段ボールに残しているが、それを見るたび当時の生々しい記憶が蘇ってきて、なかなか捨てられないでいる。

 後に明らかにされた「事故の最悪のシナリオ」(内閣府の原子力委員長が2011年3月23日に作成)は、原発から250キロ以内に住む3000万人の避難が必要になるというものだった。それが辛うじて避けられたのは、2号機の破壊が奇跡的に免れるなど、今でも謎の「偶然の重なり」に過ぎない。そんな日本が滅亡の淵にあった悪夢のような記憶も7年が経過すると、普段の生活の中で薄れがちになる。しかし、そうした中でももちろん、しっかりと事故の教訓に向き合っている人々は大勢いる。その幾つかを取り上げてみたい。

◆事故の真実に向き合う番組
 まずは番組である。Nスペ「メルトダウン7 そして冷却水は絞られた〜原発事故迷走の2日間〜」(3月17日)は、最近回収された放射能の計測フィルターの正確な分析から、謎の汚染ピークが3月18日から20日にわたって3回あったことを発見し、その原因を追求した。原子炉建屋の水素爆発やベント放出による汚染以外にも、それを上回る放射能の大量放出があったのである。

 それは、18日から19日の2日間、事故対策チームが核燃料を冷やすために注入していた冷却水を絞るという人為的なミスを犯した結果だった。冷却水を注入し続けることによって、格納容器(サプレッション)の圧力が異常に上昇し破壊するのを恐れたためだというが、実際には消防車から注入した水は途中で漏れて一部しか炉内に届いていなかった。冷却水を絞った結果、燃料が空だきになって炉内の温度が急上昇、大量の放射能が水蒸気に混じって漏れ出し、これが広く東北・関東まで汚染したことを突き止めた。

 何故こうした判断ミスが起きたのか。原因の一つは政府、東電、福島と分かれた対策組織間の意見調整のために貴重な時間を費やしたこと。またそのために最優先すべきだった電力回復が遅れて、肝心の温度計のデータが取れなかったことである。番組では、そうした時間浪費を「調整コスト」と呼び、原発事故時の指揮命令系統の不備を指摘した。これは、今でも全国の原発に共通する欠陥だろう。さらに、この7年間に高い放射能で汚染された帰宅困難地域で動植物にどのような影響が出始めているのか、地道な調査を追ったNスペ「被曝の森2018 見えてきた“汚染循環”」(3月7日)。

 また、福島で次々と発見されている甲状腺ガンの被害を極めて科学的、多面的、中立的に追ったBS1スペシャル「原発事故7年目 揺れる甲状腺検査」(17年11月25日)。様々な考え方がぶつかり合うテーマだが、その全てに目配りした力作だった。あの福島原発事故は、(敗戦、原爆、沖縄などとともに)日本の運命を瀬戸際まで追い込んだ未曾有の体験の一つに数えられるものであり、日本の進路を考える原点になるべきものだが、こうした多角的で腰を据えた報道が続く限り、その教訓は生き続けることになる。その努力に敬意を表したい。

◆脱原発に生涯をかける弁護士の話を聞く
 3月22日には、原発問題の最前線で闘っている弁護士の話を聞いた。原発裁判には原発差し止めを訴える「本案訴訟」(最高裁まで20年の戦いが続くが、その間は仮に勝訴しても原発を止めることが出来ない)、一方、判決が出れば動いている原発をすぐに止めることが出来る「仮処分」。東電の責任を問う民事(株主代表訴訟)、東電の元トップ3人に対する刑事訴訟。さらには地元住民による「損害賠償訴訟」、メーカーの責任を問う訴訟など多岐にわたる。講演を行った河合弘之弁護士は、その全てに関わる「脱原発弁護団全国連絡会(170名)」の共同代表だ。

 彼は3.11以前から原発反対の訴訟に関わっていたが、相次ぐ敗訴で一時は気力を失いかけていたところに福島事故が発生、「神様から襟首をつかまれて引き戻された感じがした。残りの生涯を脱原発にかける決心をした」と言う。そして、福井地裁が大飯原発(福井県)の運転差し止めを決定した名判決(「原発・司法が責任を果たすとき」)、あるいは、火山噴火を理由に広島高裁が伊方原発3号機の運転差し止めを決定した裁判(「原発にどう引導を渡すのか」)などで勝訴してきた。各地の弁護団を結集し、地元の原告団をまとめて指揮するなど、全国を殆ど手弁当で飛び歩いている。

◆原子力ムラ「世界最強の利権集団」との白兵戦
 彼が講演で示した一つの図表がある。各地の裁判で彼が日々渡り合っている原子力ムラの相関図である。原子力ムラはよく、政治、官僚、財界のトライアングルとか、それに御用学者、メディアを加えたペンタゴン(5角形)などとも言われるが、これほど詳細に相関図を描いたものは初めて見た。政府や官僚機構はもちろん脱原発反対だが、この中では、河合氏が証言を依頼した研究者も圧力を恐れて証言を拒否する。そうした御用学者の中心に位置する東大原子力学科。あるいは、何が何でも原発が必要というデータを(金に飽かせて)山ほど揃える広告代理店や企業側弁護士たち。

 そして、大手広告代理店の顔色を伺う各種メディアや御用評論家。補助金や寄付を当てにする地元自治体。原子炉メーカーやゼネコン、燃料を商う商社。電力労組など。これら全てが、毎年数兆円という(原発関連で動く)巨額のカネでつながった「世界最強の利権集団」(河合弁護士)だ。原発差し止め裁判では、こうした“原発原理主義者たち”が束になって対抗してくる。河合弁護士は、裁判中は毎日がそうした圧力群と斬り結ぶ“白兵戦”になると言うが、こんな話を聞くと、彼ら原子力ムラは日本が滅びかけた福島事故をいったいどう受け止めているのかと、問いただしてみたい気になる。

◆“手を変え品を変え”報道し続ける
 河合弁護士はまた、小泉純一郎らが最近提案した「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を作成した人でもある。講演会の後、何人かで彼と一杯やった時の会話を2つほど書いておきたい。そこで私は、「差し止め裁判では、原発の安全性について技術論も含めて詳細に議論しているが、安全対策がどれだけ進んでも、それを扱う組織と人間が全く変わっていなければ事故はまた必ず起きる。それを裁判で指摘できないのか」と質問した。対する答えは「確かにそうなのだが、そうした要素は裁判では取り上げて貰えない」だった。
 原子力規制委員会の発足当初、田中前委員長は「電力会社の経営姿勢も適否の判断材料にする」などと言っていたが、それは今や(規制委員会もその一員である)「世界最強の利権集団」の中に埋もれてしまったのだろうか。

 もう一つは、河合弁護士が「小泉さんは、どこでも飽きずに原発の危険性を同じように丁寧に話す。さすが政治家は違う。メディアも飽きずに繰り返すことが大事ではないか」と言ったことに対する私の意見である。「メディアはそうはいかないんですよ。“手を変え品を変え”常に新しい切り口を探して客観的に報道して行くのがメディアなんです」。事故後7年経った今も、原発が国と民族を滅ぼしかねない危険なものであることに変りはない。その現実に愚直に向き合いつつ常に新しい切り口を探し、情報を出し続けることの難しさと大事さを、3.11の記憶は改めて教えてくれる。

過剰な忖度を生む組織風土 18.3.21
 参院予算委員会で、森友問題の集中審議が始まった。議論の焦点は土地取引の経緯に関する文書の改ざんを誰が、いつ、何のために行ったのか、そしてその責任を誰が取るのかということ。財務省も麻生も佐川前理財局長が中心になってやったと盛んに言うが、いつ、何のためにということについては、両者の意見が微妙に食い違っている。
 財務省側は「昭恵夫人の名前が頻繁に登場しているので、それを気にしたのだろう」というが、安倍は「それはない。(改ざん前の文書を見ても)妻が関与したり影響を与えたりしたことにはならないのだから」と否定する。しかし、森友学園への土地売却に関して安倍昭恵が直接・間接に関与したことを国民の方はとっくに知っている。

◆国民は知っているのに、政治家だけが認めない
 国有地払い下げが首相夫人案件だったこと。つまり昭恵夫人と親しい籠池が安倍と同じ右派団体「日本会議」の幹部であること、そして安倍昭恵と籠池が土地取引で話し合っていたこと。また、昭恵秘書の谷査恵子(写真)を通じて直接間接的に財務省に働きかけがあったことは、谷のファックスや籠池の証言、録音などから分かっている。こうした“特殊な状況”がなければ、行政が一学校法人に8億円も値引きし、しかも年賦の分割払いといった特例を認めるわけがない。これは誰にでも分かることなのだが、これまで官邸はのらりくらりと逃げ回り、関係者(谷査恵子)を海外に異動させたりしてきた。

 多くの国民がこの“特殊な状況”を知っているのに、政府は佐川前局長一人に文書改ざんの責任を押しつけようと躍起になっている。しかし、小泉進次郎が「自民党という組織、政党は、官僚のみなさんだけに責任を押しつけるような政党ではない。その姿を見せる必要があるんじゃないか」と言うように、佐川にだけ責任を押しつけて済む話ではなくなって来ている。ただし、政治家の誰が責任を取るべきかということになると、途端に話しが暗礁に乗り上げる。本来は、財務省の監督責任者である麻生なのだろうが、安倍は容易に麻生を切ることが出来ないからだ。

◆安倍は麻生を切れない。進むも地獄、退くも地獄の日々
 麻生を切れば次は安倍となって内閣が持たないという説もあるが、これはちょっと違う。というのも、この案件の大元は安倍昭恵と財務省、そしてそれを隠蔽しようとした官邸にあるわけで、去年の段階では、麻生はこの件で安倍が追及されている時に、脇でニヤニヤしていたくらいだ(写真)。その麻生を辞めさせようとすれば、「何でオレが安倍の代わりに責任を取らされるのか」と怒り出すに違いない。余程の“見返り”を与えなければ、麻生の怒りは安倍に向うはずで、そうなれば盟友間に亀裂が走って総裁選も危うくなる。従って、このままでは安倍は麻生と心中するしかない。

 この辺のところは、国民も分かっていて、最近の世論調査にもはっきりと現れている。安倍内閣の支持率は軒並み10%ほど低下し、30%台に落ちている。麻生や財務省の説明に納得していない国民が76%にのぼり、このまま国民の欲求不満が高まって行けば、支持率が30%を切るのも時間の問題だろう。ただし、面白いことに責任の取り方となると、麻生の辞任を求める声が54%に対し、安倍晋三に責任があると答えたのは68%になっている。やはり、国民は良く見ている。

 こうした国民の声が安倍退陣につながるのを避けるには、政権はポーズだけでも“真実”を解明する態度を見せる必要があるわけだが、27日証人喚問と決まった佐川前局長だけで済ませられるか。全容解明のためには、安倍昭恵や秘書の谷査恵子、あるいは取引当時の(安倍と近い)迫田英典元理財局長や、文書書き換えが行われた当時、麻生を飛び越えて財務官僚としきりに接触していた首相官邸の杉田和博(内閣官房副長官:危機管理担当)などの証言も必要なのだが、それは“やぶ蛇”になる。検察による容疑者逮捕の動きも予想される中で、官邸にとっては当面、「進むも地獄、退くも地獄」の難しい日々が続くことになる。

◆過剰な忖度を生む“文脈読み”の組織風土
 今回の事件は、国有地払い下げに疑問を持った豊中市市議の情報公開の要求と、それを報じた去年2月9日の朝日の記事が発端だった。これがなければ、安倍昭恵を名誉校長とする「瑞穂の國小学院」は何事もなく開校し、今頃は奇怪な右寄り教育を始めていたはずだった。
 図らずも露見したこの事件は氷山の一角で、様々な案件の裏で、こうした政治家の口利きや官僚の忖度が働くことは珍しくないのだと思う。しかし、法を犯してまでやるとなると話しは別で、このような危ない橋を(保身を身上とする)官僚たちが何故渡ってしまったのか。確かに、人事の締め付けで官邸に逆らえない状況もあっただろうが、官僚の方にも問題はなかったのか。

 話しは変わるが、(私が定年後の一時期通っていた)ある政府系研究機関も時々これが官僚組織というものかと思わされるような、官僚的な組織だった。ある時、そこに長年勤めていた派遣の人が、「最近入ってくる若い人(正社員)は、優秀で性格もいい人ばかりだけど、何をやりたいのか分からない」、「皆、組織の文脈を読むのが得意で、そればかり気にしている」と言うのを聞いた。組織の文脈とは、組織の人間関係や力関係のこと。つまり、若いときから組織の空気を読むのに気を遣い、その時々で誰の言うことを聞いたらいいのかを見定めながら行動する習性が身についているらしい。

 組織の文脈を読み、組織遊泳に優れた人物が出世するのは官僚機構にありがちな傾向には違いない。もちろん、能力が高くなければダメだが、組織文脈の読解力が低ければ出世できない。しかし、そうなると組織のふるいにかけられて、そうした能力の優れた人間だけが上層部に登って行く。これが官僚機構の特質の一つであり、この傾向が最大限に発揮されたのが、中央官庁の幹部たちかも知れない。佐川前理財局長の顔などを見ていると、どうもそんな感じがしてならないが、権力が何を望んでいるのか、誰に恩を売れば出世できるのか、そういう文脈読みの習性が、“過剰な忖度”を生んだ遠因と言えるかも知れない。

◆使命(ミッション)を明確にして、組織を立て直す
 それにしても、偏差値の高い若者が官庁に入ってすぐに、(出世を目指して)組織の文脈読みに精を出すようでは、日本の将来も心配になる。いつ頃からこうなったのか。先の政府系研究機関での見聞から私見を言えば、一つの要因はその組織が誰のために何をやるところなのか、組織ビジョンと使命(ミッション)が明確でなくなっていることにあると思う。官庁で言えば、自分たちの組織が誰(国民)のために何をするところだというミッションが十分明確になっているかである。昔の高級官僚は、それこそ天下国家のために必要な政策を行うという自負と使命感があったと思うのだが、それが見えなくなっているのではないか。

 一部の権力者の意向ばかりを気にして、本来奉仕すべき国民の顔が見えない。加えて、最近の政治家の劣化である。前川前文部次官の学校での講義に対して自民党議員の安倍チルドレンが介入し、それを文科省が現場に問い合わせる。(偉そうで恐縮だが)こうした知性のない政治家と誇りのない官僚が、“過剰な忖度行政”をはびこらせるのだと思う。森友学園の不祥事が刑事事件としてどこまで広がるか分からないが、一度権力を入れ替えて、このよどんだ空気を入れ換える必要があるだろう。かつては世界に冠たる組織と称された日本の官僚機構だが、今こそ自分たちが誰のために何をすべきか、徹底して考え直し、組織風土を作り替えないといけないのではないか。
政治腐敗と民主主義の試練 18.3.11

 友人に勧められて最近読んだ本「プラトンに学ぶ〜田中美知太郎対話集〜」(1994年発行)には、民主主義に関する幾つかの示唆に富む言葉が出てくる。哲学者の田中美知太郎(1902〜1985)は、特にギリシャのソクラテスやプラトンの研究をした博学の人だが、幾つかの政体(王制、貴族制、寡頭制)を経て到達したギリシャの民主制について、「その民主制というのは本来脆弱なものなのです。(日本には)その認識がない」と言っている。ギリシャは民主制になってから200年もの経験を積んだわけだが、そのギリシャでも民主制は(行きすぎた自由や快楽主義によって)自己崩壊し、その中から独裁制が発生していった。

 田中はまた、日本の戦後民主主義は、まだ十分経験を積んだとは言えないという。その基本原則と言えば、国民主権、基本的人権、法の支配、権力の分立などだが、最近、世間を騒がせている事件を見ていると、こうした民主主義の原則が知らぬ間に根元から崩されつつあるように思える。
 例えば、権力への過剰な忖度(そんたく)から公務員が服務すべき法を踏み外したと疑われている森友学園事件、あるいは首相のお友達への優遇が取り沙汰された加計学園問題、そして権力との癒着が噂されるスーパーコンピュータ詐欺事件など。こうした、いわゆる「モリ、カケ、スパゲッティ」と揶揄される政治腐敗の頻発によって今、日本の民主主義は試練にさらされている。何故そんなことになって来たのか、その背景について考えて見たい。

◆安倍昭恵案件としての森友学園の構図
 森友学園への国有地払い下げに関する決裁文書が書き換えられていたという朝日新聞のスクープ(3月2日)については、元理財局長の辞任や職員の自殺を受けて、ついに財務省も書き換えを認める方針を決めたのだそうだ(3月11日毎日)。このこと自体、国民を愚弄した話だが、書き換えられたかどうか以前に、この事件の構図は既にはっきりしている。安倍昭恵が名誉校長をしていることを振りかざして強引に値引きを迫る籠池理事長に対して、近畿財務局がゴミ撤去費として既に負担していた1億3千万円だけは回収すべく、売値を1億3千400万円と設定し、残りの8億円を値引きしてやったという構図である。

 その8億円値引きのつじつま合わせのために、地中ゴミの存在を大袈裟にでっち上げ、大阪航空局にいい加減な算定をやらせたというのが真相だろう。これは、文書のやりとりや録音から見えて来ている。それを、政治家や財務官僚が度重なる文書隠しと虚偽答弁、責任逃れの証言拒否を続けて、事件をないものにしようと図ってきたのが事件の構図である。現在、大阪地検特捜部が捜査に入っているが、そこで問われているのは、証拠隠滅、公用文書毀棄、そして本丸の背任罪などの容疑である。前2者には財務省(辞任した佐川宣寿前理財局長:写真など)、後者には近畿財務局(自殺した近畿財務局職員の上層部など)が関係してくる。

省エネスパコン詐欺事件の発端
 官僚にあるまじきこうした疑惑は、法治国家にあってはならないものだが、何故このような事件が起きてしまうのか。その根本原因を考える前に、もう一つ別の事件を見てみたい。去年12月、東京地検特捜部は省エネスーパーコンピュータの研究開発を行ってきた「ペジー(PEZY)コンピューティング」の斉藤元彰社長らを詐欺容疑で逮捕した。ベンチャー企業社長の斉藤は、スーパーコンピュータの計算エネルギー効率を競う国際ランキング「Green500」で、2015年に世界の1位から3位までを独占した実績を持つ(その話題を私は科学ニュースで紹介したことがある)。 

 スパコンは計算するときに膨大な電力使用と発熱を伴う。彼らの省エネスパコンは独自の演算システムと、不活性のフッ素溶液にコンピュータを浸して冷やす「液浸冷却システム」を用いて当時の世界トップのデータをたたき出した。それらは高エネルギー加速器研究機構(KEK)や理化学研究所との共同開発だったので、そのデータそのものに疑いはないと思われる。この快挙は科学技術の分野でアベノミクスのエンジンをふかしたい政府に格好の題材を提供したようで、斉藤は内閣府の諮問会議などに委員として参加するようにもなった。

◆多額の助成金獲得と詐欺事件
 斉藤社長はそこで、科学技術の未来について(レイ・カーツワイルのシンギュラリティー理論に触発された)大風呂敷を広げていたらしいが、同時に政府系研究機関から多額の助成金を受けている。NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)からトータルで40億円、JST(科学技術振興機構)から60億円などで、このうちの一部が不正に使われたというのが、今回の詐欺容疑である。JSTからこれだけ多額の融資が出るのは異例のことで、そこに様々な憶測が飛び交っている。特に斉藤は、政権(安倍や麻生)に近い山口敬之(元TBSの政治記者)と親しく、TBS退社後の山口を会社役員に就け、高級ホテル内の事務所費まで支払っていたらしい。

 山口敬之(写真)とは、ご存じのように伊藤詩織さんレイプ事件で告発された人物だ。彼は名ばかりの「日本シンギュラリティー財団」や「日本シンギュラリティー党」を立ち上げて代表を努めているが、斉藤はそれにも名を連ねている。麻生も国会答弁で、シンギュラリティーやPEZYコンピューティングに言及する密着振りで、こうした斉藤、山口、麻生(安倍)といったラインが、異例な融資に動いたのではないかと週刊誌で取り上げられたりした。直接的な口利きがあったかどうかは別として、時の権力に近い人脈が権力に弱い研究機関に「過剰な忖度」を強いたのは十分想像できるところだ。

◆政治の腐敗を生む背景とは?
 この事件は、東京地検特捜部(部長は大型案件で辣腕を振るって来た森本宏)が動いているので、今後の展開に注目が集まっているという。こういう胡散臭い案件に、政治家や彼らと親しい連中が常に顔を出すようになるのが、政治腐敗の典型的な例である。政治家の直接の口利きや、政治家と親しい取り巻きたちの暗躍、あるいは政治家と官僚の過度な密着。最近の、こうした政治腐敗の背景にあるものは何なのか。推測しうる幾つかの要因を挙げてみる。

 一つには長期権力による癒着と腐敗である。首相の盟友とされる麻生は第二次安倍内閣の発足と同時に財務大臣に就き、そのまま現在まで5年と3ヶ月も居座っている。安倍と一体になった権力の中枢にいて、巨大な利権の砦とも言える財務省にそれだけ長く君臨すれば、安倍や麻生に対する過剰な迎合や忖度に官僚たちが走りがちになるのは当然だろう。
 もう一つは、官僚の人事権を握った官邸による官僚支配の完成である。特に菅(官房長官)は、この5年間に官僚への人事介入によって官僚支配を徹底し、誰も政権に逆らえない状況を作って来た。その恐怖の浸透が、出世競争に走る幹部官僚たちに、日本特有の忖度行政を蔓延させたのだろう。結果的にそれが、とりわけ法に忠実であるべき官僚の間に「法の支配」を軽視させている状況は、日本の民主主義にとって由々しき事態である。

◆再びプラトンの警告
 民主主義は、今のアメリカでも様々な意味で試練にさらされているが、日本の民主主義も今や危ういところに差し掛かっている。その危機の要因の一つである忖度政治が、長期政権の弊害から来ているとすれば、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」(英国の歴史家ジョン・アクトン)の通りになる。一連の疑惑に関する捜査や政局の動きは確かに気になるが、それだけに目を奪われていると、その裏で進行する民主主義の衰退を見逃してしまう。民主制というのは脆弱なもので、油断していると自己崩壊して独裁を生んでしまう、と言ったプラトンの警告を改めて心に受け止めるべき時なのかも知れない。

国民を巻き込む討論番組を 18.3.1

 平昌(ピョンチャン)オリンピックが終わった。結果的には予想外にメダル獲得も多く、素直に感動する場面も沢山あったのだから、その盛り上がりに水を差す気はないが、こちらはテレビ局によるその余りの感動の押し売りに若干辟易させられた。どのチャンネルを回してもオリンピックばかり。ニュースも冒頭から半分以上がオリンピック報道で、特に国会で働き方改革に関する問題が明らかになったにも拘わらず、それらはオリンピック期間中、ニュースの後半に押しやられていた。背後で誰かが“ほくそ笑んでいる”気がしたが、安倍政権がいつまでも強気で押し通して、いたずらに時間を空費したのには、こうしたオリンピック一色のムードが影響したかも知れない。

◆オリンピック一色に染まる構図。その陰で
 オリンピック報道に関して言えば、始まる前からのメディアの異常な盛り上げ方には、あまり素直になれなかった。さして関心がない段階での洪水のような期待の押しつけと、解説者たちのはしゃぎ振りにはいつもながら違和感を覚える。いつからこうなったのだろうか。オリンピックに関してはNHKと民放連盟が共同で「ジャパン・コンソーシアム(JC)」を作って独占的に報道している(1984年から)。この前の2大会に関してはIOCに払うカネは夏と冬合わせて300億円台だったものが、平昌と東京では、これが660億円に跳ね上がった。

 また、IOCや開催国の大会組織委員会と企業の間でスポンサー契約が交わされるが、2020年に関しては、大手新聞社4社(朝日、毎日、読売、日経)が、オフィシャルパートナー(呼称やマークの使用、イベントの共催など)として多額の契約金(各社60億円)を日本の組織委員会に払っている。従って、メディアは何が何でも、オリンピックを成功させなければならない立場になるわけで、たとえ東京オリンピックの巨額すぎる運営資金や運営法を巡って様々な不祥事や問題があったとしても、その追及は鈍くならざるを得ない。オリンピック報道に関しては、大政翼賛的な「オールジャパン体制」が組まれているわけである(「国民のしつけ方」)。

 一方、テレビの方は、この巨額の協力金の元をとろうと視聴率アップ作戦に血道を挙げることになる。従ってこの期間中は、選手たちの頑張りとは別の次元で、これを利用する様々な組織、企業、メディアが狂奔していることに、少しは目配りしていないと、今社会で起きている問題から目を逸らされることになる。例えば前回も書いたが、再任された黒田日銀の5年間をどう総括するのか、継続で心配はないのか。(結局、引っ込めることになったが)裁量労働制の狙いは何だったのか。膨らむ一方の防衛費に妥当性はあるのか、などなど。国会論議だけでなくメディアの俎上にも乗せるべき案件は山ほどあるのに、オリンピック報道の陰に隠れてしまう。

◆国民を巻き込む徹底討論番組のススメ
 今、自民党で作成中の改憲案も含め、これからの国民生活、あるいは国の骨格に大きく関わる重要テーマに関しては、国会での議論をニュースとして断片的に伝えるだけでは不十分。何が問題の本質なのかも分からない。解説があったとしても、中立性を意識するあまり、どこか他人事のような乾いた解説になる。2月28日の「報道ステーション」では珍しく、裁量労働制に苦しむ労働者の実態を取り上げていたが、これはむしろ新鮮な驚きで、最近では民放のニュース番組もコメンテーターたちがすっかり骨抜きにされてNHKと同じようになっている。

 こと政治的なテーマに関する限り、最近のテレビ報道には総じて欲求不満が溜まりがちだが、こういう時に思い出すのは、かつての「国民を巻き込む徹底討論番組」の存在である。徹底討論とタイトルされたNスペは過去にも安全保障(2003年)、憲法9条(2005年)、小泉改革(2006年)など様々だが、専門家による徹底討論だけでなく国民を巻き込んだ大討論番組も多かった。例えば、3%消費税を導入するか廃止するかが問題になった1989年9月には、NHKスペ「いま政治を問う 連続討論“消費税”」が3夜連続で放送されている。

 これは、立場の異なる専門家の討論に加えて、多くの国民の参加、とりわけ電話による世論調査も挿入されて、両陣営の説得力が問われる仕掛けだった。そして、この電話世論調査の走りとなったのが、私も制作に参加した3時間の生番組、Nスペ「徹底討論 いま、原子力を問う」(橋本大二郎キャスター、1989年4月)である。このときは、電話世論調査のシステムがまだ開発されていない時で、別スタジオに300人の電話受付スタッフを入れてアンケート結果を集計、生番組で随時紹介しながら進行した。沢山の電話がかかる中での原発推進側と反対側の双方が展開した密度の濃い議論は、今でもYouTubeや本で見ることができるが、特に福島原発事故の後でみると様々なことを感じさせる。

◆「国民を巻き込む徹底討論番組」の覚悟と効用
 ただし、こうした討論番組が意味を持つためには、メディアに求められることが幾つかある。その一つが「議題設定(アジェンダセッティング)機能」と言われるもので、討論すべきテーマにおいて、国民が判断すべき争点・論点が何なのかを、明確に設定する役割である。論点が曖昧だったり、意図的に隠されたりするような討論番組では意味がない。そのために、メディアは覚悟を持って政権が嫌がる争点・論点もひるまずに取り上げ、それに関する多面的なデータ、日本や外国の実態、歴的流れなどをあらかじめ取材して提示する必要がある。この議題設定には、誰もが納得する客観性、批判や圧力に耐える覚悟、エネルギーがいる。

 こうした「国民を巻き込む形での徹底討論番組」には、幾つかの効用が考えられる。一つは、各論点についての両者の考えが明確になれば、たとえ番組がその時の社会を変えることができなくても、その発言は後々の「歴史の審判」を受けるということである。原子力の時に原発反対の論陣を張った人たち(高木仁三郎:写真、久米三四郎)は既に亡くなっているが、彼らの主張は福島でことごとく当たり、まさにそうだった。もう一つは、(福島では、いつの間にか忘れられたにせよ)そうした対立点が明示されることによって、当時の推進側にも一定の監視と緊張を生み出したことである。

◆時の権力が嫌がるテーマの徹底討論は可能か
 自分たちは歴史の審判に耐える政策を行っているのか。あるいは、反対者の言い分に全く理はないのか。徹底討論番組は、そうした自省と緊張を政策執行者に強いることになる。しかし例えば、今の日銀の金融緩和政策にこれを当てはめたらどうなるのだろうか。国民の立場で知りたい論点は、前回の「アベノミクスの時限爆弾」に書いたが、問題は賛成反対の論者を選ぶ難しさにもあるという。コラムをアップした後、ある先輩から次のようなメールを貰った。『ところで、「今大事なことは、国の英知を集めて徹底的にその本質を議論することだろう。」と書かれておられますが、どこに英知がいるのでしょうか!?』。

 私も安直に“英知”などと書いたことを反省し、「広く専門家を集めて」に直したが、その後、別の先輩の勉強会で知ったことは、(海外の学者*は別として)今の日本の経済学者の主流は殆どが日銀寄りという意外な事実だった。とすると、メディアがいくら疑問点や論点を提示しても、アベノミクスの討論番組は成り立たないのか?*)それは、経済には様々な政策を受け止める自動調節機能があるとするニューケインズ派に対して、過大な投機は均衡せずカオスになると警告するポストケインズ派だが、こうした経済のことを書くにはもっと勉強が必要みたい。
 それはともかく、問題はそうした困難も乗り越えて、政権が嫌がるテーマを取り上げ、逃げ隠れできない論点を設定して、国民を巻き込む形の大討論番組を組めるか、その覚悟が持てるかである。今は一頃以上にメディアに対する圧力や批判が日常茶飯事の難しい時代だ。だからこそ、かつてはそうした討論番組がメディアの得意分野の一つだったことを思い出すのも意味あることではないかと思って書いた。

アベノミクスの時限爆弾 18.2.18

 2月16日、日銀の次期トップ体制が発表された。総裁の黒田は再任、副総裁は内部(雨宮正佳)からと外部(若田部昌澄早大教授)からで、アベノミクスの代名詞とも言うべき「異次元の金融緩和」は、次期体制でも継続されることになった。特に、新任の若田部(写真)は金融緩和の推進論者で、国の財政出動も拡大すべき、財政再建も急ぐべきではないという、リフレ派の代表格だという。安倍政権は、市場に不安材料を与えないためにも、現在の金余り現象を継続する黒田総裁の継続しか選択肢はなかったようだが、そうなると今の異常な金融緩和からの出口はますます遠のくことになる。

 日銀は現在、国が発行する国債(およそ30兆円)を上回る巨額の国債を銀行から買い上げ、年に80兆円というペースで巨額なマネーを市中に吐き出して来た。この異次元の金融緩和で市中に金余りの状態を作って物価を上げ、投資を促し経済成長も見込む目論見だが、(後述するように)物価はもちろん経済成長も目論見通りには行っていない。しかも日銀には既に、この5年間で買い増した国債が450兆円も積み上がっており、このままのペースで国債を買い続けることができるかどうかも、危ぶまれている。

 一方の国は、日銀が多額の国債の引き受けてくれるのをいいことに、借金をさらに増やしていく。すでに国や地方の借金(総債務残高)はGDP(国内総生産)の240%、1300兆円近くまで増えている。そんな一時しのぎの政策を続けて行って、日本の将来は大丈夫なのかと素人なりに心配になるが、最近話題の「アベノミクスによろしく」(明石順平)を読むと、なぜ安倍政権は金融緩和をやめないのか、やめられないのかがデータではっきりと見えてくる。アベノミクスそのものが日本経済の実態から目をそらす「壮大な現実逃避」だというのである。

◆成果の見えないアベノミクス
 ご存じのように、大規模金融緩和を始めるに当たって5年前、黒田は「2年で物価上昇2%、経済成長2%を目指す」と明言したが、目標は6度にわたって延期され、物価は今も0%台をうろうろしている。それでも政府は、アベノミクスの成果として円安による輸出企業の業績アップ、株価の上昇、失業率の低下などをあげる。しかし、失業率の低下はそもそも高齢者のリタイアで人手不足が起きている結果であり、企業業績のアップも一部の輸出企業に限定されている。しかも、儲けは内部留保に回されるばかりで、労働者には還元されない。実質賃金は安倍政権になってから低下する一方で、GDPの60%を占める国内消費(個人消費)は伸びようがない。

 14日に内閣府が発表したGDPの速報値について、メディアは成長率が8四半期連続でプラスなどと大々的に報道するが、よく読めばそれもマイナスではないと言う程度。年換算で僅かに1%台と低迷していて、中国の6.9%には遠く及ばない。これでは、3%成長を目指して財政再建(プライマリーバランス)に目途をつけるとしていた政府の計画も絵に描いた餅になりつつある。しかも、「アベノミクスによろしく」を読むと、このGDPでさえも根拠となるデータが怪しい上に、株価上昇についても危ういカラクリが指摘されている。

◆アベノミクスのまやかし
 2016年12月、内閣府はそれまでのGDPの算出方法を国際基準に合わせて変更し、実質GDPの基準年を平成23年にして、1994年までさかのぼって計算し直している。それはいいとして、問題はその時に国際基準にない「その他」を計算に滑り込ませたこと。それによってアベノミクス開始以来のGDP値のかさ上げ額が急に増えていることである。詳しくは本文を読んで頂きたいが、その額はアベノミクス以前が殆どマイナスかゼロだったものが、以後は7.5兆円も増えてる。この「その他」は内訳も公表されておらず、データからはどうも、消費の落ち込みを意図的に隠すために取り入れられた気配がうかがわれる。

 経済指標の基礎であるGDPのデータが、アベノミクスに都合のいいように操作されているとすれば由々しきことだが、胡散臭さは他にもある。例えば一見、好調と言われる株価も、要因の一つは金融緩和による円安で(市場全体の6〜7割を占める)外国資本が日本株を買いやすくなったことにある。従って株価上昇による儲けは大部分が海外投資家の手に渡っている。さらには、ご存じのように株価を維持する機能として巨額の年金積立金(GPIF)が投入されていること。もう一つがETFと呼ばれる「上場投資信託」。この購入を日銀はアベノミクス以降どんどん増やしていて、その総額は5兆円にもなる。

 こうした巨額なカネが株式市場に流れて株価を維持しているわけだが、株が上がって儲けが出てもこうした資金は現金に換えにくいという。売ればたちまち株が下がり市場が大混乱するからだ。下がれば国民の資産が巨額な損失を被り、上がっても売れない。そんな大事なカネをつぎ込んで株価を維持しようとしているアベノミクスとは何なのだろうか。このほかにも政府がアベノミクスの成果として強調する様々なデータには怪しげなカラクリがあるということを、この本は各種のデータ解析から教えてくれる。

◆アベノミクスをやめられない
 異次元の金融緩和で物価を上げて、景気も良くするというリフレ派の理論だが、実際には物価は上がらず、景気も見込みほど良くなっていない。彼らの理屈は景気の現実の前に既に破綻しているというのが、大方の認識だ。しかし、黒田日銀と安倍政権は、物価2%上昇の達成まで緩和策をやめないと言い張る。いや、むしろやめられないのが実態だという。というのも、やめたらたちまち株価は暴落し、国債も価値が下がって金利が上昇。予算が組めずに財政破綻が迫ってくるからだ。そうなったら、政権維持も危うくなり改憲どころではなくなる。その意味では、いつまでも物価上昇2%が実現しない方がありがたいという歪んだ心理が働くことになる。

 しかし、2%未達成を口実にいつまでも金余りの居心地のいいぬるま湯に浸かっていて大丈夫か。金融緩和のおかげで、幾ら国債を発行しても日銀が買い取ってくれので、国の借金問題から目をそらせることできているが、それは「壮大な現実逃避」というのが本の指摘だ。財政破綻を防ぐための財政健全化(プライマリーバランス)については、国もいろいろ見通しを作っては来たが、いずれも3%成長などと言う非現実なデータに基づいたもので、その達成は次々と先送りにされている。防衛費も含めて国家予算は膨らむ一方で、財政破綻の時限爆弾は刻々と時を刻んでいる。

◆時を刻む時限爆弾。野党もメディアも勉強して追及を
 その時限爆弾はいつどのようように弾けるのか、爆発したらどうなるかなどについては、正直なところ、本文を読んでも素人の私にはよく分からない。しかし、アベノミクス(異次元の金融緩和)がこのまま続けば、やがては先の敗戦直後のような苦しみを国民全体に課すことになりかねないという。しかも、先の敗戦の時に国民はまだ若かったが、これからの超高齢化社会では国家破綻で何もかも失った時に、日本は既に立ち上がる力を失っているという問題もある。

 こう見てくると、耳障りのいい幻想を振りまいているリフレ派の学者や安倍政権に腹も立ってくるが、野党もメディアもイマイチ追及が厳しくない。アメリカだって出口を探って苦労しているのに、国の借金も緩和の程度もより深刻な日本は他人事のように眺めているだけだ。アベノミクスが始まって5年が経過した。今大事なことは、広く専門家を集めて徹底的にその本質を議論することだろう。それも目の前の株や為替相場の一々の変動に目を奪われることなく、しっかりと長期的、構造的に分析して、この異常な金融緩和のリスクを見極める。野党もメディアも有能なブレーンを組織してもっと勉強し、厳しくアベノミクスの危険性を問いただして貰いたい。

核大国を蝕む野心と猜疑心 18.2.8

 雑誌「選択」2月号に「米中露“核軍拡競争”の新時代」という特集記事がある。そこに去年11月にロシアで進水した「世界一怖い原潜」が紹介されている。それは射程が世界最長の9300キロ、一基で広島型原爆の数千倍から数万倍の威力を持つ弾道ミサイル(SLBM)を最大20基も搭載可能な原潜だ。水深400メートルを航行するので探知がきわめて難しい。プーチンは、この原潜をさらに7隻建造する計画だ。ロシアはまた、世界中の海を殆ど探知されずに航行する大型の無人潜水艦(海中ドローン)も開発中で、これは核兵器を積んで敵海域に深く潜入して核攻撃ができるという。

 ここへ来て、プーチンがかくも核軍拡にのめり込む理由は何なのだろうか。大著「プーチンの世界」には、かつてはソビエトの同盟国だった東欧諸国を次々と西側のNATOに引き込み、ロシアのための兵器産業の中心地だったウクライナに親NATO政権を作ろうと画策するアメリカのネオコンたちに対するプーチンの不信と怒りが描かれている。ドイツのメルケル以外に話せる相手がいない彼は西側に対する不信感を募らせ、アメリカを「暴力に頼る国、“味方以外はみんな敵”というスローガンを掲げて同盟国を集める国」と思い込むようになったという。

 一方、核戦力でアメリカに大きく出遅れている習近平の中国も、アメリカに近づこうと、核兵器の改良に余念がない。潜水艦搭載のSLBM(核ミサイル巨浪2号)や、核を搭載する戦略爆撃機の性能向上である。習近平は、中国の近海まで偵察と示威にやって来るアメリカ軍を警戒して、核を使った「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」の戦術を練っている。彼らの核軍拡は、一方で偉大なる国家の復活を夢見る野望も混ざっているかも知れないが、主にはアメリカに対する抜きがたい不信と猜疑心がもとになっている。

◆核を使いやすくするアメリカの「核態勢見直し」
 2月2日に発表されたトランプ政権の「核態勢見直し(NPR)」は、北朝鮮の核・ミサイル開発もさることながら、主として核軍拡に向かうロシアや中国を念頭に核戦力の見直しを図ったものである。主な見直し点は2つ。一つは、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)用に爆発力を抑えた小型核弾頭を開発すること。見方は様々だが、広島型(15キロトン)の数分の一の威力の小型核爆弾を開発するとしている。もう一つは、海上の戦艦から発射する核巡航ミサイルの開発である。いずれも核を小型化して使いやすくする狙いだ。

 小型の核開発そのものは、以前のコラム「先制核攻撃の誘惑と“核の傘”」(16.11.17)にも書いたが、オバマ時代からのもので、トランプはそれを継続し、核の運搬手段であるICBM(大陸間弾道ミサイル)、SLBM(戦略原潜)、戦略爆撃機の強化・更新も盛り込んだ。さらにトランプは、核攻撃を含まない攻撃の報復にもこうした小型戦術核を使用することがあり得るとした。いわゆる核の先制使用である。これらの政策は「(いつの時代も)米国は世界最強でなければならない」というトランプの強い意向を踏まえたものである。

◆核の恐怖が支配する時代に日本は?
 かくして世界は今や、かつての冷戦時代のように「核の恐怖が支配する時代」に入りつつある。核大国を率いる指導者たちの野心と疑心暗鬼(猜疑心)が複雑に絡み合い、僅かな行き違いが人類の運命を左右しかねない危険な時代である。どの指導者も相手に先に核攻撃をされたくないと思って力を誇示し、場合によっては先に攻撃すると脅し、核の超大国を目指してしのぎを削る。この先、同盟国もそうでない国々も、不安な眼でこの核軍拡競争を眺めるしかないのだろうか。

 トランプは、そうした同盟国を安心させるためか、今回の「核態勢見直し」に際し、「アジア太平洋地域の同盟国に対する、(核兵器を含めた)米国の深い関与は揺るがない」とのメッセージもつけ加えている。これを受けて日本の河野太郎外相は、何の躊躇も見せずに「高く評価する」との談話(3日)を発表したが、果たしてそれでいいのか。彼は、北朝鮮の核ミサイル開発の進展に触れ、「安全保障環境が急速に悪化している」などと言っているが、今回の「核態勢見直し」の主なターゲットがロシアと中国であることを十分認識しているのか。

◆こんなにある「使いやすい小型核」を配備する危険性
 核の小型化によって核を使いやすくするという、今回のアメリカの「核態勢見直し」には、世界の識者、専門家から重大な懸念や問題点が指摘されている。それを以下に整理しておく。
限定的な核攻撃であっても、全面的な核戦争に発展する可能性がある
 核の小型化は先制使用の誘惑を引き起こすが、仮に敵の中枢を小型核爆弾で殲滅しても、敵の全面的な核報復を招く危険がある。ロシアは必ず核で報復し、大規模な核戦争になるだろう(露シンクタンク)。
核の先制使用を言うことは、相手国にもそうさせる理由を作り、国際的な緊張をさらに高める。緊張の高まりは、北朝鮮のような小国にも核開発の格好の口実を与える。

核巡航ミサイルの開発は、通常の巡航ミサイルを核攻撃と誤解させる
 小型核を巡航ミサイルに搭載可能にした段階で、通常の巡航ミサイル発射もアメリカによる核の先制攻撃と見なされ、直ちに敵の核報復を招く。これがオバマが開発を中止した理由だが、トランプはそれをやろうとしている。
米中の衝突で核が使われれば、中国の核報復は日本に向かう
 米中間で緊張が高まる東シナ海、南シナ海、台湾を巡って、仮に核が使われるようなことになれば、中国の核ミサイルはまず、在日米軍基地に向かう(米ランド研究所のシミュレーション)。
核を巡る米中露の対立は、北朝鮮問題に対処する足並みを乱し、かえって北朝鮮を利する結果になる。

 これだけ多くの問題点を抱えているのに、日本が脳天気に「高く評価する」などと言うのは、単なる思考停止のアメリカ追随としか思えない。せめてドイツの外相(ガブリエル)のように「核軍拡競争が進めば、欧州は危うくなる。だからこそ新たな軍備管理・軍縮に動かなければならない」と言えないのか。脱原発に賛成の河野については、もう少しましな政治家だと思っていたが、(毎日に牧太郎が書いているように)外相になって舞い上がっているのだろうか。

◆日本はどうすればいいのか?
 アメリカの新核政策に対して、早速にロシアも中国も強烈な反対を表明している。このまま行けば、ロシアも中国も使いやすい小型核などの対抗措置をとり始めるだろう。互いに疑心暗鬼に駆られながら、核大国の指導者たちが核軍拡に向かう世界に救いはない。少し冷静に考えれば、その先にあるのは「恐怖の均衡」などではなく、「人類の滅亡」だと分かる。それが分かっているのに、私たち庶民は、ただ手をこまねいて彼らに自分たちの命を委ねるしかないのだろうか。 

 去年は奇しくも、国連で核兵器禁止条約(コラム)が採択され、それを動かした「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受けた年だった。世界の知性が核軍縮・核廃絶に向かって歩み始めていた時に、核大国の指導者たちは、時計の針を戻そうとしている。しかし、そんな時にこそ日本は出番を探るべきではないか。野心と猜疑心に蝕まれる指導者たちに、外交力を駆使して、核の危険性と悲惨を説き、3者の意思疎通の橋渡しをする。(幻想に過ぎない)アメリカの「核の傘」に囚われることなく、中立的に大国指導者の不信感を解く努力をする。それがいかに困難でも、世界を核戦争の淵から救うためにまず動くべきは、被爆国で非戦国家である日本をおいてない筈だ

非戦国家であり続ける意志 18.127

 1月22日からの通常国会が始まり、改憲論議が活発になる気配である。国会に先立つ自民党の両議員総会で、首相は「(改憲を)いよいよ実現する時を迎えている」と意欲を見せ、国会でも去年5月以来の持論である「憲法9条に自衛隊を明記すること」を繰り返した。また、明記する場合でも「自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない」と、できるだけ改憲のハードルを低く見せようとしている。具体案を提示する前から「自衛隊の存在を明記するだけで、実質は何も変わらないのですよ」という巧妙な言い方で、国民の抵抗感を薄めようとしている。

 これが効いたのかどうか、あるいは統計の取り方のカラクリ(*)なのか、最近の世論調査(毎日)では、自衛隊の明記について、「1項と2項をそのままにして、自衛隊を明記」に賛成が31%、「2項を削除して自衛隊を戦力として位置づける」が12%で、計43%が改憲賛成。反対は21%で、今や9条に手をつける改憲賛成派が2倍になっている。首相周辺は、今国会中にも案を作って国会発議を行い、早ければ年内にも国民投票に持ち込むとしており、一気に進めたい気持ちが露わだが、改憲の問題点は十分議論し尽くされるのだろうか。時間的に言って拙速に過ぎないだろうか。「世に倦む日々、三択方式に仕様変更された9条世論調査の怪」(1/24)

◆自衛隊明記の狙いは何か?
 それにしても、今の自衛隊は既に国民の8割以上から容認されているのに、なぜ安倍は国論を二分するような、自衛隊明記案をわざわざ持ち出すのか。自衛隊の違憲性を唱える少数意見を封じるためと言うが、仮に改憲案への賛成が半数を超えたとしても、新たに定義される自衛隊への抵抗感が今より大きくなれば、自衛隊の容認派は現在よりも減ることになる。従って、安倍が言う理由は理由にならない。実に怪しげな理屈なのである。単に改憲をして見たいだけなのか。あるいは自衛隊の明記を行うことによって、別なことを狙っているのか。 

 そもそも、「(戦争放棄の)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という9条2項をそのままにして、3項に自衛隊を明記するのは、けっこうな難問でもある。わざわざ自衛隊を明記するには、組織の性格や位置づけ、役割の定義なども明示する必要がある。そこで彼らが狙っているのは、以前のコラム「安倍改憲案の危険な仕掛け」に書いたことに尽きると思う。すなわち、まずは最低限、今は違憲との見方が多い集団的自衛権を明文化して合憲にすることである。

 それは、今の自衛隊を(殺傷行為が可能な)「限りなく軍隊に近い実力組織」にすることでもある。さらには、安倍のブレーンであり、右翼団体「日本会議」の幹部でもある伊藤哲夫が明言しているように、自衛隊明記によって9条2項を死文化して(国と国の交戦権を確保し)、いざというときに戦争できるようにすること。そして次には、このお試し改憲を足がかりにして「国防軍の創設」を目指すことである。彼らにとって「国防軍の創設」が悲願であることは、自民党の改憲草案を見ても明らかだが、これは戦後の日本が目指してきた非戦国家としての骨格を変える大変革になる(コラム「自衛隊が日本軍になる日」15.9.10)。

◆自衛隊と軍隊は何が違うか
 ご存じのように、今の自衛隊は軍隊ではない。もちろん軍法会議もなく、その行為は刑法や民法に縛られており、完全に憲法の下にある。統帥権の設定も必要なく、戦前の軍隊のように独断専行も許されない。憲法9条が自衛隊の軍事的越権行為や暴走の歯止めになってきた訳である。もし、自衛隊を国防軍にすれば、軍が軍の利益のために行う裁判である軍法会議も必要になるし、(昔は天皇が持っていた)軍の統帥権を誰が握るのかという問題も出てくる。仮に軍の最高司令官を内閣総理大臣に兼任させたとしても、専門知識もないから、結局は軍部が実権を握ることになりかねない。

 従って、国防軍を作ったとたんに政治は軍のシビリアンコントロール(文民統制)の様々な難問に直面する。例えば、戦前は軍が統帥権の独立と称して政治の上に立ち暴走した。あるいは、軍部の横暴によって政治が有名無実化し、国民生活も軍に支配されるようになった。そうして招いた戦死者310万人(アジアで2000万人)の血であがなった歴史の反省が、戦争(軍隊)の放棄であり、最小限の武力装置を憲法の下に置くという選択だった。
 この日本国憲法について、「あれはGHQ(占領軍)の押しつけ憲法だから、自分たちの手で作り変えなければならない」などと言って国防軍の創設を狙う安倍たちの意見は、こうした反省を踏みにじるものであり、また歴史的事実としても間違っている。

◆戦争放棄の憲法9条は日本人が提案した
 確かに、今の憲法の草案はGHQが出してきたものだが、その中の戦争放棄の条文(9条のもと)の発案そのものは、最新の研究で日本人から提案されたものだったことが分かっている。その人とは当時の外相だった幣原喜重郎。「憲法を百年いかす」(半藤一利、保坂正康)によれば、幣原がマッカーサーに会って直接進言し、マッカーサーがそれを取り入れたという。それはマッカーサー自身が後で証言している。また、この戦争放棄の考え自体は幣原の独創ではなく、第1次世界大戦の反省から世界的に広まったもので、「パリ不戦条約」として主要国15ヶ国が締結した経緯がある(「不戦条約」ウィキペディア)。

 ただし、これは抜け穴が沢山あって機能しなかったために、第2次世界大戦が起きてしまったわけだが、幣原はこの理念に基づいて日本一国でも戦争放棄を目指すべきと考えたのだろう。そして、GHQから憲法草案を受けた日本政府は、公表されてから8ヶ月を掛けて念入りに討議し、様々な修正を加えて行ったコラム「憲法を考える」7.5.20)。その間の憲法担当大臣の国会答弁は実に1365回に上ったという。つまり、9条の理念は「日本人の発案」だったし、安倍たちの言う「憲法押しつけ論」は実体と違う。それだけ、当時の日本人は戦争の悲惨を二度と繰り返さないという思いが強かったのである。

◆非戦国家の伝統を持続して「平和の報酬」を享受する
 さらに言えば、戦争を避けて非戦国家を目指すという考えは、むしろ日本人の文化や価値観に沿ったものだという意見が、このところの歴史家や思想家から提起されていることも注目に値する。保坂正康は、現在の非戦国家の意思は、江戸時代に培われた不戦の姿勢が(明治維新後の軍国主義から敗戦に至る反省によって)現代に蘇ったものだとする。江戸の270年間、日本はタダの一度も対外戦争を戦っていない。むしろ戦いのエネルギーを学問、武芸、さらには武士道などの倫理徳目に変え、極めて抑制の効いた文明観を持続した。それが、憲法9条の非戦主義に顕在化したに過ぎないとみる(17.11.11毎日、昭和史のかたち)。

 思想家の柄谷行人も、この「徳川の平和」とも呼ばれる非戦主義は、9条の精神を先取りしたものであり、それが明治維新後に日本がやって来たことの悔恨から再び浮上したとする。従って、日本人の非戦主義は、いわば無意識の悔恨であり、容易に覆るものではないとする(「憲法の無意識」)。そして、日本人が敗戦の悲劇を経て蘇らせた、この「戦争放棄」の理念は、国際社会に向けられた「贈与」と見なすべきものであり、これを持ち続けて世界に広めることこそ現代日本の努めだと説く。
 世界史的に見ても奇跡のような高度に洗練された江戸文化を見るまでもなく、豊かな「平和の報酬」を手にするためには、非戦が絶対条件である。いろいろ国際的な難しい情勢変化はあるにしても、それに振り回されずに、非戦国家への強固な意志を持ち続ける価値を、私たちは今こそ噛みしめるべきだと思う。

原発にどう引導を渡すのか 18.1.18

 年明けの1月10日、小泉純一郎、細川護煕元首相が顧問を務める「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(民間団体)が国会内で記者会見し、「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」の骨子を発表した。「原発即時停止、核燃料サイクルからの撤退、原発輸出の中止、自然エネルギーを2030年までに50%以上、50年までに100%に引き上げる」など、至極まっとうな案である。同団体は、立憲民主や希望の党など野党とも順次意見交換をしていくと言うが、同じく「原発ゼロ」を検討している立憲民主党は歓迎の意向だという。

 立憲民主の方は、「原発再稼働は非常時以外には認めない、2030年までに事故前の電力使用量の3割を省エネなどで削減し、再生可能エネルギーを40%までに引き上げる、核燃料サイクルを禁止、廃炉にする原発の国有化も選択肢として考慮する」などとし、この基本方針を推進するために、首相を本部長とする「原発に依存しない社会を実現するための改革本部(仮称)」を設置するとしている。民間団体案との違いは、非常時の再稼働を認めるかどうか、という点だけで、両者の足並みが揃うかどうかは、これからの調整になる。

◆誰がどのように原発に引導を渡すのか
 こうした国民運動が野党を巻き込んで盛り上がり、自民党、経産省、経団連などの政官財のトライアングル(原子力ムラ)の厚い壁を打ち破って、国の原発政策を変えさせることを期待したいが、それは、今の安倍政権を倒さない限りは無理と言うことになる。しかし、そう言っているといつまで経っても日本は、破滅的に危険で、経済的にも高くつく原発をやめられない。また、原発にしがみつく勢力の悪あがきによって、世界的な潮流になっている自然エネルギー開発競争からも立ち後れていく。この状況をどう打開するか、できるかである。

 既に国民は原発の危険性については骨身にしみている。そして過半数は、再稼働に反対なのだから、これから必要なのは、単に「原発反対」のスローガンだけではない“具体的で説得力のある方策”になる。脱原発のスケジュール(工程表)と原発に代わるエネルギーの未来像、責任主体の明確化など、脱原発のシナリオ(*)が必要になってくる。つまり、誰がどのように原発に引導を渡すのか、ということだが、最近の動きはこれに答えるきっかけになり得るか。そうしたことを占うために、久しぶりにこのところの原発事情を整理してみると、今の原発が置かれている八方塞がりの状況と、原子力ムラの悪あがきが際立ってくる。*例えば「原発ゼロへのシナリオ@、A」(2012.9.13) 

◆廃炉の瀬戸際に立たされ先が見通せない原発
 去年の暮れ、関西電力は来年に運転開始40年を迎える大飯原発1,2号炉の廃炉を国に報告した。ともに117.5万キロワットという大型炉だ。これをさらに20年延長させるには、1基あたり2千億とも言われる安全対策費が必要になるが、関電は、この炉以外の7基の原発を存続させるために8300億円の追加安全対策費をつぎ込もうとしており、これ以上の負担は無理と判断したという。このように事故後、既存の原発が廃炉に追い込まれるケースが続いている。国内では既に14基の廃炉が決まっており、35年を超過している玄海2号炉(佐賀県)、伊方2号炉(愛媛県)、福島第2(1〜4号炉)なども廃炉にするかどうかの判断を迫られている。

 原発が廃炉に追い込まれる要因は安全対策費の高騰、活断層の指摘、あるいは火山噴火など多岐にわたっている。日本の原発の草分けである「日本原電」の東海第2(110万キロワット)は今年40年を迎えるに当たって延長を申請したが、安全対策費1800億円(+1000億のテロ対策費)の目途が全く立っていない。融資の引き受け手が見えないからだ。また同社が所有する敦賀2号炉(福井県)でも、敷地内に活断層の存在が指摘されて廃炉の瀬戸際に立たされており、会社そのものの存続にも危険信号が灯っている。同じように、東通原発(青森県)も敷地内に活断層の可能性が指摘されて、存続が危ぶまれている。 

◆八方塞がりの原発。有名無実の「重要なベースロード電源」
 安全対策費は(テロ対策拠点の整備などもあって)年々高騰し、電力会社11社の見積もり合計は2017年で3.8兆円に上っている。電力会社は既存の原発を再稼働させることで、対策費を回収したいとするが、安全審査が思うように進んでいない。40基ある原発のうち再稼働が決まったのは、まだ川内1,2号炉(鹿児島県)、高浜3,4号炉(福井県)、伊方3号炉(愛媛県)の5基に過ぎない。去年の電力に占める原発の割合は僅か2%で、政府の原発を「重要なベースロード電源(20〜22%)」とする計画はまさに“絵に描いた餅”になっている。

 原発を取り巻く先行きの不透明さはそれだけではない。去年12月13日、広島高裁は(地裁の判決を覆して)再稼働が許可された伊方原発3号炉の運転差し止めの判決を下した。この裁判を求めたのは広島市と松山市の住民だが、この判決によって、伊方原発は少なくとも9月までは運転できなくなった。しかも、その理由というのが、従来のような地震に関する規制基準ではなく、火山の巨大噴火に対する規制委員会の判断が不十分という理由である。これは、日本の他の原発にも波及する重大な指摘だった。

 伊方原発から130キロ離れた阿蘇山には、9万年前の巨大噴火で火砕流が160キロにまで達したという歴史がある。判決は規制委が作成した「火山影響評価ガイド」に基づいて、そうした噴火の際にも敷地に火砕流が到達する可能性は小さいと示さなければ、原発は建てられないとした。今の科学では(破局的)巨大噴火の予知は困難とされるが、過去に巨大噴火を起した火山の近くにある原発は、川内原発など他にも多い。仮に規制委によって再稼働が認められたとしても、全国で次々に起こされる裁判で今回のようにストップがかかる状況が続けば、原子力エネルギーの安定性はますます揺らぐことになる。

◆悪あがきのトライアングルを崩すには
 日本の原発を取り巻くこうした八方塞がりの状況にも拘わらず、相変わらず原発の維持に執念を燃やしているのが、政官財の原発トライアングル(原子力ムラ)だ。小泉元首相らの提案を無視する自民党や経産省は、(原発寄りの)有識者委員会を設けて現行の「エネルギー基本計画」(2014年)の改定作業に入っている。そこでは、原発を「国の重要なベースロード(基幹)エネルギー」と位置づけて、発電比率を20〜22%にするとした当初計画を維持するために、原発の新増設や建て替えまで検討されているという。現実直視が出来ない懲りない面々である。

 無理筋の原発にどこまでも固執する政府のせいで、浪費されるのは発電できない原発を維持するための膨大な費用や安全対策費、そして補助金などの税金だ。国の原発へのこだわりが、一方では自然エネルギーの拡大を阻む要因にもなっていくわけで、そのツケは結局の所国民の負担に回される。また最近、政府は原発輸出にも力を入れようと、日立製作所が英国で進める原発建設費1.5兆円の融資に、政府が債務保証をすることが明らかになった。これこそ、世界的に見て原発の建設コストがますます高騰し、事故時の責任などのリスクも心配される中、「儲けは一部企業、リスクは国民」という不公平きわまりない構図(*)である。*「国策としての原発輸出はなぜダメか」(12.1.30)

 こうした無理筋の政策に引導を渡すには、(安倍中枢と原子力ムラとの)腰を据えた闘いしかない。考えて見れば、事故後7年が経とうとしているのに、政治は労働組合(連合)などに気兼ねして、脱原発のシナリオを作れないで来た。(立憲民主などの)野党はこれまでの怠慢を反省して状況を冷徹に分析し、勝てる“政治戦術”を練るべき。決戦の時を迎えた今、本気で脱原発を目指すなら、政治の方も説得力のある工程表を掲げて、広範囲な国民運動を盛り上げる。そして、脱原発・新エネルギー計画を政治選択の重要な柱に据えて、国民に選択を問う構図を作っていくべきだろう。 

10年後の世界と日本と私 18.1.7

 2018年、今年最初のコラムを書くに当たって、私事から始めるのをお許し願いたい。今年の5月で満73歳になる。良くここまで生きたとは思うが、まだこの年齢が自分の人生の中でどういう位置にあるのかはよく分かっていない。平均余命からすると、少なく見積もっても、あと10年くらいの余裕はあるわけで、その全体を生きてみないと分からないのだろう。(うまく最後まで生きたとして)これからの10年間に自分にどのような変化が起こるかは、それなりに楽しみなところもあるが、基本的には人生の下り坂を下っていくことになる。あまり心弾むものではないだろう。それに比べて楽しみなのは、孫たちの成長する姿を見ることである。

◆6人の孫たちの10年後
 私には6人の孫がいる。14歳と12歳と7歳の女の子。それに9歳と2歳と1歳の男の子である。14歳は獣医さんになりたいと言っているし、12歳は菓子作りになりたいそうだ。9歳の男の子は、「風の日めくりにも書いたように、NYでジャズダンスとバレエを習っている。娘の所の1歳の男の子は日々膨大な情報を、その柔らかい脳に吸収している。この1ヶ月くらいで、立ち上がって歩き始め、片言の言葉も話せるようになった。表情も驚くほど豊かになり、母親が言うには、こちらの話しかけも殆ど分かるようになってきたらしい。人間というは、すごい生き物である。

 この子供たちが10年後、どのように成長しているか。上はもう社会人になっているだろうし、残りもそれぞれいっぱしの成人女性や女子高生、そして青年や少年になっているに違いない。彼らがそうした年齢に成長するのを想像するだけで、何か心躍る気がする。10年後の私は83歳、その時まで自分が生きているかどうかも定かでないから、余計に見届けることが貴重に感じられるのだろう。同時に、彼らの未来が平和で穏やかなものであって欲しいと願う。これからの10年、日本と世界はどうなっているのか。果たして、平穏無事でいられるだろうか。そう考えると、未来への視界も霞がかかったように曇りがちになる。

◆山積する課題。豊かな「社会的共通資本」を維持出来るか
 今の日本を形作っている、教育や医療の制度、あるいは国や地方の行政機構、そして鉄道や道路、エネルギーなどのインフラ、それに農林水産業の基礎になる田畑や山林、沿岸の自然環境。これらのいわゆる「社会的共通資本」(宇沢弘文)は、私たちの先人が営々として築いて来たものであり、宇沢によればそれは利潤追求の対象とされてはならず、市場原理に犯されないところ(主に税金)で充実されてきた。私などはその恩恵を受けながら育ってきたわけだが、それは今や、市場原理的な競争と効率化の前に揺らいでいる(*)。この豊かな遺産を、これからも孫たち世代は十分享受しながら成長していけるだろうか。*「国の土台を壊すな」(2017.1.25)

 その点から言っても、日本が抱える課題は山積している。例えば少子高齢化による衝撃が目の前に迫っている。人口が1億を切り、高齢者が40%を超える未来には、よほど戦略的に手を打っていかないと、こうした「社会的共通資本」を維持することは不可能になる。人工知能(AI)を取り込みながら、行政レベルを維持したり、産業を活性化したり、教育を無償にして若い世代を社会全体で育てる大胆な政策が必要だが、肝心の国家財政は大丈夫なのか。この先、黒田日銀の異次元の金融緩和の持続によって心配されている、副作用(国債の暴落による財政破綻など)の時限爆弾は破裂しないのか。

 あるいは、発生確率が年々上がっていく巨大地震がある。これは、地震国である日本の宿命でもあるが、過去の日本は、そのたびにゼロから再出発してきた。しかし、これに原発事故が絡むと、日本は絶望的なマイナス状態に陥り、ゼロに戻すことさえも難しくなる。民族の破滅にもつながりかねなない。既に、エネルギー的にはなくても何の問題もない原発を、(電力会社など)原子力ムラの利益のためにだけ再稼働する愚を、一刻も早く止めることである。既に世界は太陽光などの新エネ開発に向かって驀進しているのに、日本のガラパゴス化は悲惨でさえある(Nスペ「激変する世界ビジネス、脱炭素革命の衝撃」17.12.17)。 

◆押し寄せるグローバルな問題
 さらに言えば、今はグローバル化の時代である。世界を席巻する市場原理と、国家と民族、宗教の軋轢(あつれき)が国境を越えて押し寄せて来る。身近なところで言えば北朝鮮を始めとする極東アジアの不安定化である。あるいは、台頭する中国と超大国アメリカとのせめぎ合いである。北朝鮮の核とミサイル問題は目の前の危機だが、中国とアメリカとの関係は、これから南シナ海、台湾、東シナ海など中国の「核心的利益」を巡って、長期にわたる緊張になって行くだろう。特に、中国は独自の社会主義体制を維持するために、数十年先を視野に「中華民族の偉大なる復興」をめざすという遠大な国家目標を立てて進んでいる(「強硬外交を反省する中国」)。

 その米中の二国間には、従来の覇権国家と新興の国家の間に(往々にして)戦争が避けられないとする、いわゆる「ツキジデスの罠(わな)」も待ち受けている。仮に二国間の戦争がなくても、これからの世界は、(“自国第一主義”を掲げて)自からが作って来た世界ルールから次々と退場するアメリカによって、確実に多極化していく。アメリカ、中国、EU(独仏)、ロシア、インド、イランといった国々が、それぞれの思惑と利害によって複雑にぶつかり合う群雄割拠の時代になる。その中で日本はどう平和を維持し、いかに戦争に巻き込まれずにやって行くのか。

 さらに上げれば、人類共通の難題である地球温暖化問題がある。少なくともこれからの10年間、人類はパリ協定で見いだした道筋をしっかり歩んでいかなければ大変なことになる。さもなければ、地球の気温は今世紀半ば過ぎに4度も高くなり、地球の気候は暴走し始めて後戻りできなくなる(コラム「人類の英知が試される」16.1.12)。この破局が防げるかどうかの瀬戸際に、トランプ大統領は自国の利益を理由にパリ協定からの離脱を表明した。世界は全員、地球という星の運命共同体であることを忘れてはならないのに。2018年も世界は、この愚かな人間に振り回されるに違いない(コラム「温暖化・トランプの愚かな選択」17.4.9)。 

◆13年目を迎える「メディアの風」
 このような不確実さが増す世界では、数年先の日本さえ見通すのが容易ではないが、無邪気な孫たちの顔を見ていると、これからの日本(と世界)が平和で平穏であることを願わずにはいられない。しかし、今の政治は、朝日の社説(1/1)に「目先の利益にかまける政治、時間軸の短い政治の弊害」と指摘されるように、長期的な視野を決定的に欠いている。

 日々、モリ・カケ問題と改憲の騒動(*)ばかりで、(内容の善し悪しは別として中国のような)この先10年、あるいは50年後に向かって、どのような国作りをしていくのかという遠大な構想が抜け落ちているのが寂しい。日本も長期的な視野を持って人口減の衝撃に備え、巨大災害は別として、少なくとも悲惨な戦争と原発事故、そして国家の財政破綻だけは英知を集めて防いで欲しい。それが、現役世代の大いなる責任だろう。*「劣化と停滞を招いた改憲政治」17.7.17

 「メディアの風」は今年13年目を迎える。「私たちは今、どういう時代に生きているか」、「時代はどこに向かっているのか」、「この時代をより良く生きるには、どうしたらいいか」という個人的な問題意識で始めたものだが、今年も「戦争と平和」、「政治や経済」、「格差と貧困」、「メディア」、「地球温暖化」、「国際問題」、「科学技術の進化」などなど、様々なテーマを取り上げて行くことになると思う。書くことで世の中を変えようとは思わないが、出来れば(読んで下さる人々と)何らかの問題意識を共有して行ければと願っている。今年もよろしくお願いします。