3月27日の佐川元理財局長の証人喚問が終わって2週間。佐川の度々の証言拒否によって、公文書改ざんという犯罪的行為が、いつ、誰によって、何のために行われたのか、何一つ明らかにならないうちに、今度は防衛省によるイラク、南スーダンの日報隠蔽問題が発生した。現在、野党もメディアも森友学園問題は忘れたかのように、連日この問題を取り上げているが、私などには小野寺防衛相が持ち出した、この問題の発覚そのものが何となく胡散臭く思えてならない。もちろん、これは自衛隊のシビリアンコントロールが危ういという大問題ではあるが、これで防衛省に批判が集まっても、政治家の誰かが罪に問われる問題ではない。
稲田元防衛相も政府も他人事のように防衛省側を批判し、再発防止策をまとめる、などと言っているが、この日報問題に比べて、安倍昭恵と官邸が絡む土地払い下げ事件と、それを隠すための公文書改ざんは、刑事事件に発展する可能性がある問題であり、ことの重大さが違う。この問題から気を逸らすために、政府が自ら日報問題を持ち出したとすれば、“陽動作戦”的な見上げた戦術であり、(結果的には)「肉を切らせて骨を切る」ことになるかも知れない。野党もメディアも度重なる不祥事と言った報道で安倍政権を批判しているが、攻めどころを間違うと、全てうやむやになって政権の思うツボになりかねない。
◆官僚の誇りを捨て、佐川は何を守ったのか
それにしても、佐川は核心部分を証言拒否で隠し、安倍夫妻の関与については明確に否定するという「政権への露骨な貸し」を作ることによって、何を守ったのだろうか。一つには、佐川と政権中枢の今井尚哉(首相秘書官で安倍昭恵問題担当)とは、公務員同期で親しい間柄だったというが、そうした仲間うちの関係の中で、今後も家族共々生きる道を選んだからか。あるいは、政権に恩を売ることで自分の刑事事件化への圧力など、暗黙の見返りを期待したのか。何しろ、今までは「首相官邸の守護神」と言われる黒川弘(法務省事務次官)が、大阪地検の学園問題捜査にブレーキをかけていたというからひどい話である(「選択」4月号)。
いずれも、官僚としての最低限の良心も誇りも捨てて、自己保身に走った末の 哀れな“開き直り”だが、佐川が最後まで真実に口を閉ざして国会と国民を冒涜(ぼうとく)する姿は、立法、行政への信頼を失わせ、民主主義の足元を揺るがす事態を招いている。この状況を外国人の目から見て「日本の民主主義というシステムが、“あらゆるレベルで”深刻な病に冒されている」と的確に指摘する記者がいる。仏紙「ル・モンド」東京特派員のフィリップ・メスメール氏だ(「週プレ外国人記者クラブ」)。
◆外国人記者が見た日本の民主主義の深刻な病
彼はインタビューで、この「あらゆるレベル」の意味について、政府も官僚も国会も司法もメディアも、そして国民もだと言う。まず、森友問題が政府と官僚組織のいびつな関係から発生していること。そして行政の信頼の根幹をなす公文書が改ざんされるという、民主主義国家においてあり得ないことが起きたこと。さらに国会も、自身が虚偽の文書によって欺(あざむ)かれたにも拘わらず、(与野党の駆け引きに終始して)満足な追求ができていないこと。司法も、一連の出来事に対して独立性を示せていないことである。
籠池を起訴しないまま、9ヶ月も拘留する異常な事態を許す一方で、口裏合わせや証拠隠滅の恐れのある佐川たちを未だに野放しにしていること。さらに、(頑張っているメディアもあるが)メディアも国民も権力によって分断されており、危機意識が薄いこと、などである。これが韓国なら100万人が声を上げ、フランスでは内閣が吹き飛んでもおかしくない状況だというが、日本では民主主義を担う各要素が機能せず、危機的状況にあることを多くの国民は気づいていない。特に国民一人一人が主権者としての自覚を十分持てていないことが、今の危機を招いていると指摘する。外から見れば、病の深刻さがよりはっきりと見えるのだろう。
◆映画「ペンタゴン・ペーパーズ〜最高機密文書〜」
一方、民主主義の構成要素(担い手)が機能して政府の陰謀や暴走を押しとどめた例もある。最近見た「ペンタゴン・ペーパーズ〜最高機密文書〜」は、民主主義がきわどいながら機能した時代の政府対メディア、そして司法の攻防を描いた映画である。監督はスティーブン・スピルバーグ。機密文書を掲載したワシントン・ポスト(WP)の女性社主(キャサリン・グラハム)にメリル・ストリープ。WPの編集主幹(ベン・ブラッドリー)にトム・ハンクスが扮している。時代は、ベトナム戦争が泥沼化していた1970年初期の話である。
まず、ニューヨーク・タイムズ社が、ベトナム戦争について歴代の大統領(トルーマン、アイゼンハウアー、ケネディ、ジョンソン)が、いかに国民を騙してきたかが、明確に記されている膨大な記録を入手する。それは、マクナマラ国防長官が後世のために調査させた国家の最高機密文書だった。そこには、歴代政府が関わった、秘密の軍事行動、不正選挙、暗殺、議会に対する虚偽などが記されていた。そして、1965年にはマクナマラは、既にこの戦争には勝てないことを知りつつその情報を隠し、政府は面子のために戦争を継続し、多くの若者を戦場に送り続けていたことが分かる。
◆政府が隠したくなるような事実を報道する勇気
ニューヨーク・タイムズによる最初の暴露は、国民に大きな衝撃と怒りを引き起こしたが、時のニクソン政権はそれが国家の安全保障を脅かすとして、次回記事の差し止め命令を連邦裁判所に要求する。一方、先を越されたWPも、機密文書を盗み出したエルズバーグに独自に接触して4000ページにのぼる文書のコピーを入手。政府とメディアの攻防が続く緊張の中、グラハム社主は迷いに迷う。その頃、WPは経営打開のために株式公開を目指す最中で、載せるべきだと主張する編集主幹に対し、経営陣は全力でこれを阻止しようとする。しかし、ついにグラハム社主は法廷闘争を覚悟で掲載に踏み切る。
この映画は、女性社主の自立とか、編集主幹との友情とか、映画としてのドラマが詰まった感動的な作りになっているが、基本に描いているのは報道の自由を保障した「アメリカ合衆国憲法修正第1条」を巡る戦いだ。「暗闇の中では民主主義は死んでしまう」という社のスローガン、そして権力者が知られたくないような事実を追求する勇敢さを描いている。半月後、最高裁判所も記事差し止めの訴えを却下した。「ニューヨーク・タイムズ、WP、そしてその他の新聞社が行った勇気ある報道は決して有罪判決に値するものではなく、むしろ建国の父が掲げた目的に報いる行為として賞賛されるべきである(一部)」と言って。
◆民主主義の危機を救うのは誰か
記事が世に出ると、多くのメディアがこれを伝え、政府を批判する大規模なデモが国会を取り巻く。これが、後にニクソン辞任の引き金になった「ウォーターゲート事件」やベトナムからの撤退につながって行くわけだが、この時のアメリカは、(民主主義の担い手である)メディアも司法も国民も、民主主義の何たるかをしっかりと理解していた。翻って、現在はどうだろうか。アメリカもロシアも中国も、権力の独裁的な集中によって民主主義の担い手たちが萎縮し、分断されて試練に立たされている。
同じように日本でも、長期政権の腐敗によって健全な民主主義が病み始めているのに、その担い手の多くがその現実に気づかない振りをしている。そんな民主主義の危機を救うのは誰かと言えば、それは民主主義の理念の大切さ、ありがたさを良く理解する担い手たち以外にない。戦後日本の民主主義は空気のように当たり前に存在した。失われてみないと分からないのかも知れないが、ここでもう一度、その理念や大切さを深く心する必要が私たちにはあると思う。
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