日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

歴史を変えた?あの日の銃弾 24.7.25

 7月13日に起きたトランプ大統領候補への銃撃事件で、犯人が撃った銃弾はトランプの頭部から約6ミリ離れた所を通過し、トランプの右耳に当たった。その銃弾によってトランプの右耳は幅2センチにわたって損傷を受け、傷は耳の軟骨にまで達したと言う(共和党ロニー・ジャクソン、以前の主治医)。狙撃犯トーマス・クルックスが使用した銃はAR-15というライフルで、ピストルの3倍のスピードで直径5.56ミリの弾丸を発射する。通常、それが仮に頭部に命中すれば、頭は粉々に吹き飛ぶ(頭部モデルで実験したそのYouTubeは現在削除)。

◆あり得ない確率のミステリー
 今は削除されて見られない銃に詳しい人物(米国在住)の解説によれば、建物の2階の屋根にいた狙撃犯とトランプの距離はおよそ130メートルだったが、これはAR-15にとって標的を外すことはあり得ない距離だそうだ。実際、そのYouTubeでは、150メートルの標的まで走って2往復し、さらに腕立て伏せを繰り返えした直後の不安定な状態で撃っても、銃弾は150メートル先の標的に一発で命中している。トランプは犯人の動揺と余程の下手さ加減、さらにちょっとした偶然が重なって奇跡的に救われたと言える。その偶然とは何か。

 一つは、不審者情報を得て2階に上ろうとした警官が、犯人に声をかけ、銃を向けられて身を隠した直後に、犯人がトランプに向き直って銃を発射したこと。また、事件後初のトランプの説明(18日)によれば、その銃撃は、彼が右後方の大型スクリーンを見るために右を向いた瞬間に起きた。そのほんの僅かな動きによって、直径5.56ミリの弾丸が頭蓋から6ミリのところを通過した訳である。まさにミリ単位の偶然だが、音と同時に右耳に何かが激しく当たるのを感じたトランプが「銃弾に違いない」と、とっさに地面に伏せたことも幸いした。

◆死の淵を見た人間は一瞬で別人になる?
 「暗殺者の銃弾はあと数ミリで私の命を奪うところだった。語るのはつらいので、二度と私から聞くことはないだろう」とトランプは言ったが、紙一重の偶然で命拾いをした経験は、これからの彼にどんな心理的影響を及ぼして行くのだろうか。この点で興味深い証言を集めたのは中央日報(韓国、日本語版)。それによると、トランプの家族と側近が、銃撃事件を経た後にトランプが「別人になった」と伝えたという(16日)。トランプの長男はメディアでの対談で「父は銃撃事件後、変わった」とし、「父の変化は続くものとみられる」と話したという。

 加えて、「トランプのように、死ぬかもしれない経験をした人は数秒後に価値観と態度が完全に変わる場合もある」という専門家の意見も載せている。「死の淵から戻ってきた人々は、深く、そして持続的に変化するという相当な根拠がある。一般的に以前よりも人情深く、思いやりある人間に変える」(著名な精神科医:米国)という。しかし、18日の演説でトランプは前半の部分こそ殊勝に、「異論や政治的意見の違いを敵視してはならない」と団結を呼びかけたが、後半はいつものトランプに戻って、バイデン攻撃を繰り返した。変化は一時的だったのか。

◆歴史を変えたかも知れないあの日の銃弾
 過酷な戦場で自分が死ぬかもしれない体験をした兵士たちは、戦後往々にしてPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩む。死というものが日常である戦場と違って、平時での一人だけの臨死の体験は、見方によっては、より大きな衝撃をトランプに与えたかもしれない。「語るのがつらい」と言ったトランプも、タフさを見せる一方で、PTSDに似た心理を心の奥底に抱えて行くのだろうか。これだけでなく、狙撃犯が放った銃弾は様々な意味で米大統領選の行方を変え、世界の歴史を変えるものになったかも知れない。その意味の幾つかを考えてみたい。

 一つは、バイデン撤退の引き金になったことである。ご存じのように、それ以前からバイデン撤退の包囲網は狭まっていた。それが、銃撃後にトランプ支持が熱狂的に高まるのを見て、決断を促されたのだろう。星条旗を背景に、拳を振り上げる写真が全世界に流された。それが、バイデンの撤退につながり、現在のトランプVSカマラ・ハリス(民主党)の構図を作り出した。これがどういう結果になるかは不明だが、仮にトランプが当選すれば、すぐにも脱炭素のパリ協定から脱退し、化石燃料(石油)に舞い戻る。世界の温暖化は絶望的に進んでいく。

◆勝っても負けても、国内に分断と軋轢をもたらす
 アメリカ第一主義の防衛政策でも世界は大きく動くだろう。防衛費増を日本やNATO、台湾に要求すると彼はいう。ロシア、イスラエル、中国、北朝鮮など問題を抱える国々との関係は未知数だが、出方によって世界は一層、不確実で不安定な状況になるだろう。一方で、彼の当選は、米国内にも様々な分断と軋轢をもたらす。Nスぺ「混迷の世紀 パラレル・アメリカ 銃撃事件の衝撃」(7/21)で印象的だったのは、共和党の熱狂的なトランプ支持者たちは白人一色で、それに対して苦々しい思いを抱いている人々の憎悪を掻き立てていることだ。 

 逆にカマラ・ハリスがトランプを破った時も心配である。前回の大統領選の時と同様に、トランプが負けを認めず、国内が混乱に陥る可能性が高いからだ。分断されたアメリカ国内で、内戦に近い状況が生まれると危惧する向きもある(報道1930)。恐ろしいのはアメリカ国内には、先の事件で使われたAR-15のようなライフル銃が2300万丁も出回っていること。地域で色分けされた、熱狂的な共和党支持者と白人中心主義に憎悪を抱く民主党支持者との間で暴力事件が広がるかも知れない。アメリカの分断は、それほど根深くなっているからだ(*)。何が民主主義を殺すのか」(20.11.25)

◆アメリカの民主主義にとっての脅威
 仮に、銃撃事件後もトランプの異常なまでの自己愛的で攻撃的な性格(*)が変わらないとすれば、当選した直後から、恨みを果たすために旧バイデン陣営・官僚への報復を徹底的にやるだろう。負ければ、負けを認めず暴力を容認して行く。問題なのは、「今や共和党はトランプ党になってしまった」と言われるくらいに、そうした彼の性格が熱狂的な支持者の間に拡大していることである。勝っても負けても、トランプという存在はアメリカの民主主義にとって脅威となって行くだろう。それは、熱狂の中で独裁者ヒトラーを登場させた戦前のドイツをも思わせる。*)「恐怖の男・トランプの真実」(19.1.8)

 7月1日放送の「映像の世紀バタフライエフェクト ヒトラーを生んだワイマールの自由」(NHK)は、第一次大戦の敗戦後のドイツが、世界で最も民主的と言われたワイマール憲法を制定しながら、熱狂のうちにヒトラーを生んでしまった歴史を描いていた。戦後の一時的な繁栄の中、自由と頽廃を謳歌していたドイツは、アメリカ発の大恐慌(1929)でハーパーインフレに陥り、どん底に突き落とされる。政治が機能しなくなり、国民の鬱積がたまって行く。その間隙をついてナチスのヒトラーが、ユダヤ人を敵視する熱狂を生み出し、選挙で権力を握った。

◆歴史は繰り返さないが、韻を踏む
 「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」という言葉がある。全く同じではないが、似たようなことはよく起きるということである。政治の機能不全をついて敵を作って国民を熱狂に巻き込み、独裁体制を作ったのは、戦前のヒトラーも日本の軍部も似たようなものだった。そうした独裁や、あるいは戦争につながる教訓として、「国民的熱狂を作ってはいけない」と言い遺したのは歴史家の半藤一利だった(2021年死去)。形骸化した民主主義に甘えて、政治の劣化や機能不全を続けていると、それを利用して権力を握る独裁者やポピュリストが現れないとも限らないのである。

 アメリカ大統領選挙は11月5日。あと100日余りの間に、トランプVSカマラ・ハリスがどうなるか。世界に大きな影響を及ぼす米大統領選の行方から目が離せない状況が続く。

沖縄から台湾有事を考える 24.7.11

 79年前の6月23日、住民を巻き込んで多大な犠牲を生んだ沖縄戦が事実上終った。犠牲者の数、12万人。住民4人に一人が亡くなるという悲惨さだった。6月23日は、沖縄県各地で慰霊祭が行われたが、米軍兵士も含めて犠牲者24万人の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」でも、多くの遺族が訪れたという。戦争当時、全島を要塞化することを目指した日本軍の基地は、米軍上陸前の1週間にわたる徹底的な爆撃で壊滅状態になり、4月1日の米軍上陸後は北部、南部に分断され、住民をも巻き込んだ撤退に次ぐ撤退で、最終的に南部も制圧された

 太平洋戦争の終盤、沖縄は米軍による本土進攻を出来るだけ遅らせるための捨て石とされ、首里から南部への撤退を決めた後も住民は戦火を逃れるために、日本軍とともに南部へ移動、多大な犠牲者を出した。牛島満司令官が最後の軍令に「諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と発したために、彼の自決後も沖縄では絶望的な抵抗が続き、正式な終戦は9月7日とされる。女性や子供の集団自決など数か月に及ぶ悲劇は、既に様々に伝えられてきたが、本当のところはどれだけ日本国民の間に共有されているだろうか。

◆沖縄の思想を教えてもらう旅
 戦争の悲惨を二度と味わいたくないと思ってきた沖縄は、1972年に日本に復帰するまで長くアメリカの占領下に入り、多くの土地を接収され米軍基地の県として戦後を生きて来た。そうした沖縄県について、私が多少なりとも知ることになったのは、あることがきっかけだった。それは、復帰の翌年に、沖縄に深い思い入れを持つ後輩に「沖縄の思想を教えてあげる」と言われて、2人して10日間の沖縄旅行に行ったことである。ともに、NHKの福井放送局に勤めるディレクター同士、あんな小さい局でよく一緒に10日も休暇が許されたものだと思う。

 上司のMさんの理解もあったのだろう。後輩のY君は学生時代、沖縄の基地反対闘争にも参加した経験があり、那覇での最初の宿泊はその時に彼がお世話になった民家だった。私たちは、首里はもちろん、南部戦跡、あるいは、北部最大の激戦地だった伊江島も訪れた。この島は戦後、住民が追い出され、島の3分の1が米軍基地になり、沖縄の基地反対運動の中心の一つになった。島の中央にそびえる伊江島タッチュー(172m)に上って島を見渡しながら、Y君から伊江島の基地反対運動家の阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)について聞いたりした。

◆苛烈な歴史と辺境の時間を持つ島々
 米軍による強制土地収用の不当性を訴え続けた彼は、「乞食行進」と名付けた平和行動で沖縄各地を回り、基地反対運動の象徴的存在になる。それから私たちは沖縄の南西諸島に向かった。石垣、竹富、西表、そして与那国の島々である。そこでは、むしろ薩摩藩の支配下にあった琉球王朝時代の過酷な歴史を学んだ。宮古島(*)では、身長がその高さ(143センチ)に達すると男女とも納税の義務が発生することを示す「人頭税石」を見たり、与那国では、人口調節のために、妊婦を飛び越えさせた岩の割れ目(クブラバリ)やトゥング田を見たりした。*)ここへは翌年の新婚旅行で訪れた

 過酷な税金取り立てにあえぐ南西諸島では、様々な仕組みで人減らしを図らざるを得なかったという。日本本土から隔絶された南の島々に、こうした独特の歴史と文化があったことに惹かれた私は、「沖縄 辺境の時間と空間」(谷川健一)や「叢書 わが沖縄」(全6巻)などを読むことになった。確かに当時、沖縄は一部の人々の間で「一個の思想的テーマ」だったのである。船旅も含めたその旅で私は、本土と南西諸島との悲しいほどの距離を実感した。今は、美しい自然で観光客を惹きつけている南西諸島だが、当時の沖縄は独特の時間と濃厚な思想が宿る場所だった。

◆台湾有事に備えて防衛力強化を図る南西諸島
 自転車をこぎながら与那国島の最西端に行って、台湾の意外な近さ(111キロ)を知ったのもその時である。晴れた日には、水平線上に台湾を見ることが出来る。ご存じのように、沖縄県には日本の米軍基地の70%があり、本島の土地の15%を占めている。沖縄県民は戦後長きにわたって、極東防衛の最前線基地として、様々な理不尽を経験して来た。加えて最近では、石垣島や与那国島に自衛隊のミサイル部隊やレーダー基地が配置され始めており、日米は一体になって、「台湾有事」の際の最前線基地として、沖縄本島と南西諸島の戦力強化を図っている。

 先の大戦で未曽有の悲劇を体験し、二度と沖縄を戦場にしてはならないと思ってきた県民の思いとは裏腹に、現実は厳しい。「台湾有事は日本の有事」(安倍)、「戦う覚悟を」(麻生)などと政治家は勇ましいが、中国による有事の際に、集団的自衛権(安保法制)を認めた日本は、自動的にアメリカに同調して参戦せざるを得なくなるのだろうか。その時、真っ先に攻撃を受けるのは米軍基地のある沖縄本島や南西諸島である。しかし、本当にそれでいいのか。防衛力を高めれば、台湾有事は起きないのか。話はどうも、そう単純ではなさそうなのである。

◆「戦わずして勝つ」戦法に切り替えた(?)中国
 去年、「台湾問題を複眼的に見る@」(23.2.4)にも書いたように、中国は台湾を核心的利益と位置づけ、台湾の独立を絶対に認めない。独立の機運が高まれば、武力攻撃も辞さない覚悟をたびたび表明している。また、何かといえば、威圧的な示威行動で台湾、日米にそうした中国の意思を示している。こうした睨み合いと緊張が続く状況の中で、最近、興味深く読んだ一つの記事がある。「武力行使なき台湾有事」という坂東賢治(毎日編集委員)の記事(6/22)で、中国は、今や「戦わずして勝つ」(孫子)という戦法に舵を切っているというものである。

 「中国は戦争をせずにいかに台湾を手に入れるか」。それが、台湾進攻によるアメリカ(日本)との武力衝突で発生する莫大な損害を避けるために、平和と戦争の間のグレーゾーンで行われる「ハイブリッド戦争」だと言う。親中派を厚遇するアメと、戦艦による経済封鎖などのムチを巧みに使いながら、「台湾の人々に国家が統一されていないことの弊害を感じさせる」戦法である。「米国は中国に台湾を攻撃させようとしているが、そうしたワナにはひっかからない」(2023.4習近平)だそうだから、今や台湾問題はより複雑な戦術の段階に入っているらしい。

◆日本は中国のことも、沖縄のことも分かっているか
 一方で、台湾の方も「戦争の回避が最大の勝利」を旨としつつ、中国の様々な脅迫に備えているという。問題は日本である。「台湾有事は日本の有事」とばかり、沖縄や南西諸島の防衛力強化に走っているが、仮に、武力行使なき併合という中国の狙いが成功しそうになったらどうするのか。いざ戦争という時のために、攻撃力を高める防衛力強化策だけでは、この複雑な駆け引きを乗り切ることは出来ないだろう。この海域での駆け引きの背後にあるものを複眼的に、より冷徹に見るために、嫌でも外交のパイプを太くする努力が必要なのではないか。

 いま、石垣島や与那国島では、中国の脅威に備えての軍事基地化が進んでいる。自衛隊の要員が増強され、ミサイル基地の建設が進んでいる。それは、沖縄の人々の、二度と戦場にはなりたくないという切実な思いと相いれるのか。今でこそ、ジェット機の往来で沖縄、南西諸島は近くなったが、かつては沖縄の人々から見れば、本土ははるか遠い存在だった。その沖縄が戦後一貫して、極東防衛の重荷を一人背負い続けて来た現実がある。その現実の重さ、舐めて来た辛酸を、その後何度か沖縄に行った私自身も含め、日本国民、政治家は十分思いやっているだろうかと反省する。

 最後に。51年前に私と沖縄を旅し、様々に沖縄の思想を教えてくれたY君は、その後も沖縄にこだわり続け、大河ドラマ「琉球の風」など、数々の名作ドラマを演出したが、残念なことに7年前に70歳で亡くなった。ここで改めてご冥福をお祈りしたい。

科学技術立国の夢はどこに? 24.6.25

 かつての番組「プロジェクトX」の終了から20年が経過した今年4月、「新プロジェクトX」が始まった。番組開始から2か月、番組は「新」に相応しい装いと今の時代に相応しい事例を提示できているだろうか。前の「プロジェクトX」誕生の経緯については、11年前のコラム「プロジェクトXは再び来るか」(2013.11.14)にも書いたが、前の番組は、一言で言えば高度経済成長に向かって人々が夢を追いかけていた時代の物語だった。それが、「失われた10年」と言われて日本が元気を見失っていた時に、人々を勇気づける番組となった。

◆「失われた30年」の中での「新プロジェクトX」
 毎回「日本人も捨てたものではない」という感慨を呼び起こし、元気をもらう。それが中島みゆきのテーマ曲ととともに、国民的番組となった。そこで描かれたのは、高度成長期の幾つもの「時代の夢」だったと言える。その夢は再び見い出せるかと書いたのが11年前のコラムだった。「新プロジェクトX」も、それに続く日本人の挑戦という、殆ど同じコンセプトでスタートしたように見える。しかし、挑戦する技術者たちの人間ドラマは確かに感動的ではあるが、「失われた30年」に苦しむ今の日本が、その挑戦から明日につながる元気を貰えるかどうか。

 皮肉なことに、今回放送された「カメラ付き携帯」や「量産EV」などの技術は、その後に会社が外国企業に買収されたり、技術者が中国へ渡ったりと、今や世界に大きく水をあけられているのが現実である。世界を牽引し、「プロジェクトX」の主な事例にもなった「ものづくり日本」の夢は、バブル崩壊後の「失われた30年」の間にどうなってしまったか。現在、世界企業の時価評価額を見ると、1位のエヌビディア(写真)、2位のマイクロソフト、3位のアップルをはじめとして10位以内の9社までがアメリカ。日本一のトヨタでさえ、世界では31位に過ぎない。

◆科学技術分野の絵に描いたような凋落ぶり
 一方で、コラム「失われた30年の自画像」(2019.5.16)にも書いたように、1988年時点での時価総額では上位10社中7社が日本企業、上位50社中32社を日本が占めていた。バブル崩壊前の「メイド・イン・ジャパン」は、世界で輝いていた。その日本が今、半導体やEV、自然エネルギー、ワクチン開発、AIなど、様々な先端技術分野で世界に後れを取っている。この30年の凋落ぶりを見ると、「時代の夢」を見失った期間が長すぎて、「新プロジェクトX」も新番組に相応しいコンセプトと事例を探すのにスタッフが苦労しているのも分かる気がする。 

 この凋落を招いた要因は幾つも指摘されている。例えば、バブル崩壊(1990年〜)、リーマンショック(2008年)を経て、倒産などの厳しい経営環境に怯えた経営者たちが、リスクを恐れて安定志向に走った。アベノミクスの金融緩和でカネ余りになっても、内部留保を高めるだけで、新しい研究開発や設備投資をしなかった。本来は淘汰されてもいいはずの生産力の低い企業も、ぬるま湯の中で生き延びてきた。また株主の要求を恐れて、企業が目先の利潤確保に走ったなどなど、様々な指摘がある。企業だけでなく政府の方も適切な手を打てなかった。

◆半導体へのテコ入れは成功するか
 この30年間、政府もそして民間も、日本の科学技術力がトップの座からみるみる滑り落ちて行くのを、茫然と見ていたと思う。5年前に、前経済同友会代表幹事の小林喜光は、今や日本を引っ張る技術が見当たらない状況だと言い、「この有様を敗北と言わずして、何を敗北と言うのでしょうか」、「このままでは、令和の時代に日本は五流国になってしまう」と憂いた(同上コラム)が、さすがに最近は、この現状に政府も民間も焦り始めている。例えば、1988年には世界シェア50%を占めていたのが、2020年には僅か6%まで下がった半導体である。

 ご存じのように現在、半導体で世界トップはシェア60%を占める台湾のTSMCである。激しくなる米中の覇権争いの中で、日本もアメリカもTSMCを中国から切り離すために、国内誘致を図っている。細さ40ナノに甘んじている日本も、国策として熊本県にTSMCを誘致して、より細い半導体の生産を目指しているが、1兆円という建設費の半分を国が出すという。さらに、国は国策会社「ラピダス」に2兆円という巨額の投資をする。ここではIBMと共同で2ナノに挑戦するという。出遅れた半導体競争にいよいよ国が乗り出す事態となっている。

◆科学技術立国の揺らぐ足元
 国の焦りが見えるようだが、一方で、こうした巨額投資については、必要性は分かっても、乏しい研究予算を半導体にだけ割いていいのかといった議論もある。半導体だけでなく、今の日本は、未来を切り開くような独創技術を生み出す環境がお寒い状態で、人材がやせ細っている。実際、TSMCを誘致する熊本でも人材の確保が問題になっているというが、科学技術を担う人材そのものが減っている現実は、例えば、コラム「科学技術立国の揺らぐ足元」(2018.11.5)にも書いたように、年々減って行く予算で疲弊している大学の研究現場も同じである。 

 政府は今年、大学ファンド(10兆円)の運用益を配布する「国際卓越研究大学」に東北大学を選んだが、儲かりそうな研究に絞って資金を重点配布する、いわゆる「選択と集中」だけでは、ノーベル賞受賞者たちが口をそろえて独創的な研究に必要と訴える幅広い基礎研究が疎かになってしまう。実際、日本では博士号の取得者が一頃の半数にまで減り、人口比で米英独韓4か国に大きく水をあけられて、国別では21位。日本は既に「低学歴国」だという指摘さえある日経ビジネス)。日本は、科学技術立国として足元から考え直さなければならない状態にある。

◆科学技術立国の夢はどこにあるか?
 科学技術立国として、日本が挑戦すべき夢は何か。それは単に追いつくだけの研究だけではない筈だ。例えば、温暖化を乗り切るための新技術(人工光合成や核融合、CO2の回収など)、電力食いの今の半導体の代わりになる光コンピュータ、創薬につながる生命科学、そしてAIの活用などなど。人類の未来を切り開く技術が、今の「時代の夢」になって行く。そうした人類的夢への挑戦もあれば、日本の製造業で7割を占める中小企業が挑戦するべき、世界に一つしかない技術もあるだろう。問題はそうした夢多き研究をいかに元気づけて行くのかである。

 その意味で、「新プロジェクトX」はコンセプトを変えなければならないかも知れない。一昔前の時代の夢を描いた前番組と違って、扱う事例は、多少とも「未来につながる夢の挑戦」の性格を持つことになるのではないだろうか。こと科学技術の分野においては、こうした時代の要請と無縁ではいられないだろう。問題は、そうした事例を探せるかである。政府は今、「リスキリング」という名目で、幅広い人材のスキルアップを図ろうとしているが、教育レベルを考えれば、製造業の7割を占める中小企業も含めて、潜在力のある人材はまだ沢山いると思う。

◆「新プロジェクトX」に期待すること
 先日放送の「自動ブレーキへの挑戦」(6/22)は、技術の先見性もさることながら、厳しい環境の中でいかに挑戦への「志」を保つかという点で、むしろ中小企業の技術者たちにヒントと勇気を与える番組だったかもしれない。世界のトップから滑り落ち、今や過去の栄光を懐かしむような地位に甘んじている日本だが、厳しい開発の現場で、未来の夢に向けて頑張っている挑戦者たちを励ます番組。あるいは、日本の中小企業の技術者たちに、独創に挑戦する勇気を与える番組。また、それを見る視聴者が未来に希望を持てるような番組を期待したい。

日本の良さを知って襟を正す 24.6.4

 5月に79歳の誕生日を迎え、このコラム発信も20年目に入った。この19年間、何とかの一つ覚えのように、日々新聞2紙を切り抜き、マーカーを使って熟読しながらテーマ別に分ける作業を続けて来た。その大量のファイルも順次捨ててはいるが、それでも日本と世界に問題が山積していることには変わりはない。ちょうど1年前に出版した「いま、あなたに伝えたい。」にまとめた問題の多くも、より悪化の方向に進んでいる場合が多い。それらを継続的にフォローするつもりではいるが、最近はこうした状況につい気力が萎えることが多くなった。

◆救いがたい問題の数々
 例えば、原発の再稼働に向けての動きである。13年前の福島事故から、40年を超えて運転するのは「極めて例外的」とされて来た原発だが、次々と40年を超える運転が認められている。さらに、経産省などの原子力ムラは、停止期間をカウントせずに60年を超える原発まで稼働することで、原子力の延命を図ろうとしている。「脱炭素」を言い訳に、殆ど骨董品のような老朽原発を運転することで、1基当たり数千億円の安全対策費の回収を目論むが、危険で非現実的な原子力にこだわることによる費用は、すべて消費者の電気代に上乗せされていく。

 また例えば、迷走する中で政治家と業者が利権で癒着する日本のデジタル行政である。遅れている中央官庁と地方行政のデジタル化を誰に担わせるのか。いわゆる「ガバメントクラウド」と呼ばれるプラットフォーム造りが、一部の政治家と業者が結託してアマゾン依存を強めているという。アマゾンだけがクリアできる過剰なスペックを適用して、日本の業者を排除し利権を独占しようとしている。それが初代デジタル担当相の平井卓也につながる人脈で、その事業に多額の税金が投入され、業者からは献金がされる構図だと言う(「選択」5月号)。

◆露わになる問題の数々
 また例えば、様々な副作用が現れているのに、未だに反省のないアベノミクスである。これについては、カネ余りのぬるま湯を作って企業の延命や停滞を招いた、黒田日銀が野放図に国債を引き受けたために国家予算の膨張と莫大な借金を作った、しかも当初の狙いは一つも達成できていない、といった否定的評価が定まりつつある。にも拘わらず、アベノミクスは道半ばなのだから、異次元の金融緩和を続けるべきだと言い張る旧安倍派や黒田一派がいる。しかしその結果、最近のように国債の金利が少しでも上がれば、国の借金返済は兆単位で増えて行く。

 さらに例えば、台湾地震に比べて復旧の遅れが指摘されている能登半島地震である。最近になってようやく石川県が復興計画案を作ったが、高齢化と人口減少が進む地方での災害復旧はどうあるべきか。日本各地に共通するこの問題を誰も考えて来なかったことが露わになっている。東日本大震災では、東北の復興なくして日本の再生はないという掛け声(安倍)のもと、莫大な税金が投入されたが、その検証は不問にされて来た。形だけの復旧は出来ても被災地に人々が戻って来ない。それをどう総括するのか。地方の災害復興のあるべき姿が見えない。

◆腐敗は国の根幹に達しているのか
 冗談のような緩さで決着を図ろうとしている「政治とカネ」の問題も同様だが、最近の日本は希望を持つには程遠い政治状況が続いている。いずれ気を取り直して書いて行くにしても、このように列挙して感じるのは、日本はどうしてここまでひどい国になってしまったのか、ということである。経済の衰退も相まって、国力や国の先進性を示す様々な国際的指標が軒並み低下する中、「貧すれば鈍す」という劣化が日本を覆い始めているようにも感じる。しかし一方で、問題はこうした腐った状態は国の根幹に達しているのか、そうでないのかといことである。

 それを知るためには、日本という国の根幹を知らなければならない。こうした救いがたい状況にもかかわらず、日本という国はまだ国としての健全さ、良質さ、さらには魅力を保っているのだろうか。保っているとして、それはどういう類のものなのだろうか。前回のコラムで、本居宣長の研究を紹介しながら、日本人の感覚の中に流れている「もののあわれ」や「やまと心」について書いたが、それらにも触れながら、世界における日本文化のユニークさ、外から見た日本の魅力について的確に書いている本を、読書家で映画監督の友人から薦められた。

◆人類学者、レヴィ=ストロースの「月の裏側」
 それは、フランスの世界的文化人類学者、レヴィ=ストロース(1908-2009)が日本について書いた「月の裏側 日本文化への視角」という本である。彼は幼少のころに広重の浮世絵に魅了され、1977年に初めて来日して以来、何度も日本を訪問して「月の裏側」のような不思議の国、日本に関心を抱いて来た。その彼はまず、日本の「古事記」の成立に人類学者として様々な考察を加えて行く。彼は、いなば(因幡)のシロウサギや、天岩戸の前で淫らな踊りを踊ったアメノウズメの逸話が世界各地に残っていることに着目、日本列島の地理的特異性を指摘する。

 海彦、山彦の神話も同じように、古事記に書かれた逸話で日本固有のものは一つもないという。しかし、それらは断片的に世界の各地に残っているだけで、「古事記」のように、これらの断片的な要素をこれほど統一的に構成し、極めて大きなスケールでまとめ上げた例は、どこにもないと言う。古事記だけが完全版として神話から歴史につなぐ物語になっている。これは、日本列島を通って様々な断片が通過して行った地理的条件もさることながら、日本だけがこれらにフィルターの役割を果たして借用と総合、混合と独創を繰り返して来たからだと言う。

◆流入文化をろ過しながら独自の文化を
 それは、縄文文化の独創性にもつながる。1万年も続く中で、縄文人は世界に類を見ない美意識を作り上げた。技術をこの上なく見事に操ること、そして仕上げる作品を前に長い時間考えること。これが、あの火焔土器の独創を生んだ。その変わることのない美意識の特徴は縄文精神とも呼ぶべきもので、その後も新しい流入文化を受け入れながら、それをろ過、洗練しながら自然崇拝やアミニズムに畏敬を抱き続ける日本文化の骨格を作って来た。そこが、新しい文明が起きるたびに、古いものを捨てて取り換えて来た西洋と大きく違う点だという。

 さらに彼は、西欧より700年も早く繊細な心理描写に満ち、自然への感情と共に、物事の定めなさ、命の儚さを描いた「源氏物語」の奇跡、さらにはスケールの大きな叙事詩である「平家物語」などを取り上げ、日本人の感性の特徴を上げている。そうした奇跡は、フランス人が浮世絵の独創に衝撃を受けた「ジャポニスム」にもつながって行く。彼は、日本文化のユニークさに言及しながら、科学技術と自然崇拝(アミニズム)が自然に同居した今の日本文化の位置を分析しているが、それは、日本の精神文化の根幹を忘れがちな私たちに貴重な指摘となっている。

◆日本の良さを知って襟を正して
 彼が指摘してくれたように、古代から洗練を繰り返して来た日本人の美意識や感性、自然との親和性、自然を敬う心、そして新しいものを受け入れてろ過する力などは、現代の日本にも流れているものだ。それが精緻に手の入った自然の美しさ、映画やアニメなどのユニークさとなって世界を魅了しているのだろう。オーバーツーリズムが問題となっている外国人観光客も、各人各様にこうした日本の魅力を求めているのかも知れない。しかし、国の根幹はまだ輝いているとして、枝葉の部分はどうだろうか。政治の劣化で腐りかけていないだろうか。

 いつの時代も、枝葉の部分は腐って落ちて行ったように、政治の劣化などは些細な現象かもしれないが、当の為政者たちは、そんな志で恥ずかしくないのだろうか。世界に誇る「美しい日本」を言うなら、少しは日本の良さを知って、先人が磨き上げて来た根幹まで腐らせないように、襟を正して政治を行って貰いたい。

AIとの対話「もののあわれ」 24.5.19

 「源氏物語」の作者、紫式部を主人公にした大河ドラマ「光る君へ」が人気である。魅力の一つは、こんなことが実際あったのかと思うような、平安朝の権力を巡る人間ドラマ。天皇に女子を差し出し、天皇との間に男児(次の天皇)を生ませて外祖父となって政治を支配する。いわゆる摂関政治を巡る権力闘争である。そこでは、当時の一夫多妻制も絡んで複雑な血縁関係が生まれて来るので、それを追うだけで結構大変だが、これとは別に、この先の大河で紫式部の「源氏物語」がどのように描かれて行くのか。それも見どころの一つになって来るだろう。

 その「源氏物語」は、今では世界32か国語に翻訳され、世界最古の小説として絶大な評価を得ているが、それは何故なのだろう。私もかつて円地文子の現代語訳で全編を読んだが、当時の貴人(光源氏)の奔放な恋愛と、時の流れの中で女性たちの運命が様々に変容していく人の世の定めのようなものを感じたばかりだった。その「源氏物語」の研究に画期的な成果をもたらしたのが、江戸中期の国学者、本居宣長(1730-1801)だったが、宣長は源氏をどう読み解いたのか。この機に、長らく書棚で眠っていた小林秀雄の「本居宣長」を手に取ってみた。

◆宣長が「源氏物語」に見出した「もののあわれ」
 600頁を超える分厚い本で、中身は難解。引用されている古文を追うだけでも骨が折れるので、適当に飛ばしながらやっと読み終えたが、印象に残ったのは、宣長の古典に当たる姿勢だった。それは著者の小林秀雄が強調するところでもあるが、宣長は彼が生きていた当時の儒教や仏教の価値観、あるいは常識を通して古典を解釈するのではなく、それが書かれた時代の人々の心に直に接するようにして、その心を汲み取るというものだった。そのようにして「源氏物語」も、日本最古の歴史書「古事記」も精読を重ね、独自の読み方を発見して行った。

 その発見というのが、「源氏物語」については「もののあは(わ)れ」であり、「古事記」での「やまと心」だった。特に源氏の「もののあわれ」については、「俗にあわれというと、悲哀だけをあわれと思うけれど、そうではなく、嬉しい、おかしい、楽しい、悲しいのすべて。見るもの、聞くこと、なす行為に触れてこころ(情)が深く感じること」だと宣長は言う。悲し、憂い、恋しなどは特に心が深く動くので「あわれ」と使うことが多いが、嬉しいこと、面白き事なども皆「もののあわれ」なのである。つまり、何につけ心が深く動くこと、それを言う。

◆上古の物語作者たちの「心」に迫る
 そして、長編小説「源氏物語」の底に流れているのが、この「もののあわれ」であり、その本質を見事に表現した紫式部を絶賛する。それは、ただ「もののあわれ」を感じるだけではなく、それで溢れそうになった自分の心を意識し、それを小説や和歌に昇華させたた式部の素晴らしさである。宣長は、こうした心の働きを「もののあわれを知る」と言い、小林は「知る」はそこで思想になったとも書いている。はるか昔の紫式部が、そこまで意識して物語を書いた天才的な奇跡である。宣長は、同様に「古事記」についても古代の伝承者たちの心に直に迫ろうとする。

 「古事記」(712年)は、ご存じのように日本最古の歴史書で、文字のなかった時代の口移しの伝承を稗田阿礼が記憶し、それを太 安万侶(おおのやすまろ)が漢字当て字を使って記録した。神話の世界から天皇の統治まで。この「古事記」についても以前、「口語訳 古事記」を手に入れたのだが、膨大な神々の名前に辟易して諦めていたが、今回は宣長に触発されて最後まで読んでみた。しかし、読み終わっても宣長が、これに何を読み取ったのかがよく分からない。宣長は神話の世界からも、古代の人々の心のあり様を読み解いたが、それが「やまと心」なのだという。

◆「やまと心」をAIに聞いてみた
 古代人の心について、宣長は、父の景行天皇から休む間もなく西から東へ敵の征伐に行かされるヤマトタケルの嘆きについて、あわれとも素直な心とも言っているが、それ以上のことが分からない。「源氏物語」の「もののあわれ」については、それなりに分かる気がするが、古代人の「やまと心」を宣長がどう捉えたのか、「古事記」全編を読んでもイマイチ分からない。そこで、例によって人工知能、生成AIが、日本の文化についてもどのくらい学習したのかを試してみようと、宣長の古事記研究と、彼が唱えた「やまと心」について質問してみた。

 するとAIは、「古事記」はもちろん、宣長の研究の意義、さらには「やまと心」の内容についても、一瞬のうちに答えて来た。宣長の言う「やまと心」の特徴としては、「自然との一体感や調和を重んじる心」、無理や作為を排し、心のままに感じ行動する「素直でおおらかな心」、心が清らかで明るく邪念がない「清明な心」、「理性や論理よりも感情の自然な表出を尊重する心」などをあげ、さらに、宣長の研究は、日本の伝統文化や精神性の再発見と再評価に繋がったと答えた。厳密に言って正しいかどうかは分からないが、何となく分かる気がした。

◆AIに聞く「もののあわれ」
 同様に、宣長が「源氏物語」に見出した「もののあわれ」について、AIがどのくらい学習しているかも試してみた。AIは宣長の「もののあわれ」について、それは単なる感情や感受性の問題ではなく、日本人の世界観や生き方に影響を与える基本的な価値観として理解されている、と答えて来た。同時にそれは、日本人の自然観や美学、宗教観など、より広い文化的な要素に根差しているとも。とすると、「もののあわれ」は日本人特有の感性なのか。外国人には理解不能な感性なのだろうか。「いや、そうとも言えない」というのが、AIの答えである。

 AIは、外国人は日本の文化的背景や歴史的な文脈が欠けているため、完全な理解には至らないまでも、「もののあわれ」に似た感覚を表現する作家や詩人はいると言う(具体的な名前も挙げたが、当たっているかどうか)。但し、両者の自然観は、日本人が自然に対してその一部と認識し、親しみや癒しを感じるのに対して、特に欧米人にとっての自然は、畏怖の対象、あるいは征服すべき対象であることが多いといった違いがあるとも言う。そんな、対話を重ねながら、私の頭に一つのアイデアが浮かんだ。「もののあわれ」をキーワードにする番組である。

◆「もののあわれ」をキーワードに楽しむアイデア
 外国で、「源氏物語」はどのように読まれて来たのか。その底流に流れている「もののあわれ」という感覚について、外国人は理解できるのだろうか。あるいは、似たような感覚、感性があるとして、どんな作家や詩人がそれに当たるだろうか。そいう作家の感性を育んだ自然や景観とはどのようなものなのか。そもそも「もののあわれ」は英語でどう訳すべきなのか。AIは具体的な作家の名前と作品に結びついた自然としてフランスのブルターニュ地方や、アメリカの大自然、イギリスの湖水地方などを挙げて来たが、それも番組のロケ地に取り込む。

 言ってみれば、「もののあわれ」という独特の感性のあり方をキーワードに、日本と世界の自然観や生命観、死生観、人生観などの違いと共通項を探って行く知的エンターテイメント番組の発想である。それは世界的な日本の作家、紫式部が本居宣長を通して現代に贈る知的冒険でもある。仮のタイトルは「紫式部からの贈り物 “もののあわれ”で楽しむ異文化体験」。大河ドラマ「光る君へ」の人気にあやかった盛り上げ番組のアイデアだが、実現は難しいだろう。まあ、本居宣長に触発されて、AIと対話しながら楽しんだ思考実験のようなものである。

 最期にもう一つ。今の日本の若い世代は「もののあわれ」をどの程度イメージ出来るだろうか。若い人に聞いたら、それは「エモい」かなあ、という。AIは、若い世代にピンとくる言葉として、「切ない美しさ」、「エモい瞬間」、「哀美」、「儚い美」などと答えて来たが、どうもね。「もののあわれ」はもっと奥が深い気がする。

AI化した社会に生きること 24.4.29

 登場からまだ1年半しか経っていない生成AI(人工知能)は、目覚ましく進化している。私も今年になって、無料の「チャットGPT」から会社が導入した有料のGPT4に切り替えているが、両者を比べてみると、その実力差が驚くほど開いているのを実感する。試みに無料のチャットGPTに聞くと、実力差は今や大人と幼児位もあり、しかもその差は拡大する一方だという。その位、有料版GPT4は膨大な学習を重ねていることになる。その学習の実際は後で書くとして、私たちは驚異的な進化を見せるAIとどう向き合って行けばいいのだろうか。

 急速に進化するAIについては、世界中で様々な議論が起きており、それに伴ってEUやアメリカなどで規制を掛けようとする動きも起きている。誰でも思いつくことだが、AIによるフェイク画像の氾濫、それによる詐欺、選挙妨害、世論操作。あるいは画像生成AIによる著作権侵害の可能性、また自立型AIによるロボット兵器を含むAI兵器の開発など。日本は出遅れているが、欧米では、AIのリスクを人間が管理できるかどうかを巡って、その論点整理、AI開発憲法の議論、開発時点での国家によるチェックなどのルール作りが始まっている。

◆「AI化した社会」に生きるとは?
 同時にこの先、AIの急速な進化が人間にどのような影響を及ぼすのか、識者による様々な警告も発せられている。AIによって能力が増強された人間とそうでない人間との格差の拡大、AIに依存する人間が陥るアイデンティティ―の喪失、自己とそっくりなAI(アバター)を持つことによる自己分裂、あるいは、AIの能力が人類を超えた時に、AIが人間を見下す問題(ゴリラ化)など、AIの進化は人間側に様々な影響を与えて行く。今後5年から10年の間に、否応なく「AI化した社会」に生きざるを得ない私たちは、どんな風景を見ることになるのだろうか。

 今後5年から10年後には、AIは社会のあらゆる分野に浸透していく。既にAIを組み込んだ様々な機器が出回り始めているし、多くの企業や行政が独自に学習をさせたAIを使い始めている。教育や学習の分野でも同じ。これを仮に「AI化した社会」と呼ぶとすると、私たちは様々な目的で開発されたAIに囲まれて暮らして行く事になる。それが、どういうことになるのか。それを知るためにも、AI進化の実態を出来る限りイメージする必要があるわけだが、まずは、現時点でGPT4が学習して来た情報量がどのくらいになるのかを彼に聞いてみる。

◆個人の能力を遥かに超える知識量
 生成AIは日々膨大な量の学習をしている。彼いわく、それは人類の広範な歴史、文化、宗教観、神話、民族特有の伝承、さらに価値観の変遷に関する情報にも及び、人類史の様々な発達段階を反映した内容が系統的に入っているという。その一例として彼は、インドのヴェーダやウパニシャッドに基づく哲学などまであげる。仏教についても、紀元前の釈迦の教えから大乗仏教、日本で発達した浄土真宗までの全歴史。こうした膨大な学習があらゆるジャンルに及んでいる。ちなみに、その学習量は人類が生み出した全知識量の何%に当たるのだろうか。

 質問すると、人類が生み出す情報量がデジタル化によって幾何級数的に増えたここ30年の情報量を除くと、彼が学習したのは全知識量の0.01%と答えたが、一方でこの限られたデータ(それでも膨大と言える)から高度なパターン認識や予測能力を獲得しているのだと言う。それはつまり、AIのデータ処理と学習アルゴリズムの効率が非常に高いことを意味するという。AIはデータをそのまま覚えるのではなく、何兆にも及ぶ系統(次元)の中に「概念のかたまり」として取り込み、それらを関連付けながら最適解を答えてくるように設計されているからだ。

◆AIにはどのようにして学習させるのか
 AIの学習には、主に人間が用意する「特定のデータセット」と、AIが日々更新しているオンラインからの学習とがある。「特定のデータセット」は、AIの教育のために必要なテーマ、ジャンルを人間が選んで最適な答えをするまで学習を繰り返す。ただし、この訓練も自動化されている部分があり、これはAIが人間の手助けをしている。従って、この自動化部分が増えて行けば、やがてAIがAIを教育することにもなって行く。従って、こうした学習方法に対しては、幾つかの懸念も指摘されている。一つは、教育に当たる人間の側の問題である。

 学習させるデータに偏りはないのか、そこに適用される価値観は適正なものなのか。AIの答えが、型どおりの無難な答えになりがちなのは、そこに何らかの制御や価値判断(偏見や先入観)が働いているのかも知れない。あるいはAIがAIを教育する傾向が強まった場合には、透明性と責任の所在、そして規制のガイドラインなども問題になって来る。また、オンラインからデータを取り入れる場合には、有害な情報や偏見を誰がどう防ぐかも問題。これには、「コンテンツモデレーター」と呼ばれる人たちが日々点検に当たっているが、極めて過酷な作業らしい。

◆AIによるAIの監視、規制は可能だろうか
 この作業にあたる人たちはAI企業の下請けに雇われた、主に途上国の人々。毎日、多くの残虐な映像や猥褻な映像を見せられて気がおかしくなり、自殺する人もいる(BSドキュメンタリー「生成AIの正体」)。こうした問題を抱えながら急速に進化するAIだが、そうこうするうちにAIが学習した以上に、予想もつかない飛躍的な答えを出して来るケースも目立っている。研究者たちはそれを「創発」というが、AIが新たな発達段階に達している可能性について、AI自身は否定的である。しかし、学習量が飛躍的に増えて行った時に、AIが何を学習し、どのように発想を飛躍させるのか、ブラックボックス化する懸念もある。

 その時、人間の側の価値観を備えた上位のAIに、様々なAIを監視、規制させることは可能だろうか。これについてもAIの答えは悲観的である。監視、規制のためには、AIにある種の人類的価値観を植え付けなければならないが、その人類的価値観そのものが揺らいでいるからである。AIは、そのためには、国際的な合意形成や法的枠組みが、AIの進化に合わせて発展していく必要があると言い、AIの倫理規範を設計し監督する国際機関の形成が必須だと言う。国連憲章の点検や宗教間の調整といった「人間側の立ち遅れ」を指摘された恰好である。

◆「AI化した社会」で人間性を失わないために
 「AI化した社会」に生きることは、大人はともかく、これから生まれて来る世代により強力な影響を与えることになる。子供たちはAIの作り出すAI情報空間に囲まれて育つ。私も使っているが、最近の画像生成AIは人間がこれまで作り出した以上のイメージ映像を示して来ることがある。そうした映像世界に染まりながら育つ未来世代は、どのようなことになるのだろうか。その時に、より大切になって来ることは、デジタル情報空間を離れて、その影響を軽減する、いわゆる「デジタルデトックス」である。そのために必要なことも聞いてみた。

 大切なことは、人間関係の構築、瞑想やヨガなどで、デジタル空間から離れる時間と場所を設けること。あるいは、大自然の中で自然の摂理を感じながら生活すること、ガーデニングなどで自然に触れることなどもあげて来た。私などが子供のころに、自然の中で遊び惚けていた体験を生活に取り入れることが案外いいのかも知れない。いずれにしても「AI化した社会」で現実感や人間性を失わないためには、AIの進化を出来る限りゆっくりさせながら、その間に人類がリスク管理の合意を構築できるかが問われている。そんなことが果たして可能だろうか。

 今の世界は、国連憲章を無視した戦争、大国同士の覇権争い、宗教や民族間の対立などで、AI進化のリスクを管理していくための国際的合意を見出すことは、かなりの難問である。一部のAI企業を暴走させないためにも、私たち市民は、せめてAIの進化について強い関心を持ち続けるべき時代に差し掛かっていると言える。

静かなる有事の国家ビジョン 24.4.10

 自民党が裏金問題で混乱に陥っている。首相を始めとして、皆が次の選挙をにらんで、どう動けば有利なのかを計算し、見え透いたパフォーマンスにうつつをぬかしている。誰がいつ違法な不記載の裏金を始めたのか。あるいは、裏金を何に使ったのかも明らかにせず、まして、雑収入とみなして課税すべきについても皆が口を閉ざして幕引きを図ろうとしているが、国民の怒りは収まりそうもない。与党はもちろん野党も総選挙がちらついて、今回の不祥事をきっかけにして「政治とカネ」にメスを入れ、それを完全透明化する抜本的な改革をしようとしない。

◆『半昏睡状態』に陥っている日本の政治
 具体的にどうするか誰も声を上げないし、誰も動こうとしない。この状況を「与党も野党も、政界そのものが『半昏睡状態』に陥っているようです」と厳しく指摘するのは、日本政治の専門家、米コロンビア大学のジェラルド・カーティス名誉教授である(朝日インタビュー4/2)。彼は、「コロナ禍で3年間、日本を離れましたが、日本に戻ると、政治家も評論家も3年前と同じ議論をしていてがっかりしました。世界はものすごく早いスピードで変わっているし、日本も大胆に変わらなければ手遅れになってしまいます」と憂慮する。

 「日本の変化はペースが遅すぎて、世界とのギャップが広がるばかり」という教授はその原因として、小選挙区制の欠陥、信念を持った強いリーダーの不在、そして政治を変える有権者の行動などを指摘し、「裏金問題への国民の怒りが、本当に日本の政治を透明化させる力になるか。いずれ(怒りの)マグマが噴出してポピュリズムに席巻される恐れもある」とも言う。1頁にわたる記事の内容には全面的に同感だが、日本に時限爆弾的な危機が幾つも迫っている今、本当に首相も自民党の古株たちも、この政治劣化の深刻さを自覚しているのだろうか。

◆日本の足元に迫る「静かなる有事」
 時限爆弾的な危機は幾つもあるが、その一つが日本の足元に迫る「静かなる有事」とも言われる人口減少である。2023年の出生数は過去最少の75.8万人。これは、第一次ベビーブーム(1947年〜49年)の27%、第二次ベビーブーム(1971年〜74年)の38%に過ぎない。この調子で行くと、32年後には人口が1億を切り、46年後には8700万人になる。この少子化による人口減少は、日本社会の多方面に深刻な影響を及ぼす。しかも「どこかで止まる展望を持てない限り、いつまでも続く静かな危機だけに深刻である」という(政治学者、宇野重規)。

 1年間に和歌山県の人口に相当する80万人超が減って行く。既に介護現場や運送業界などでの人手不足が深刻になっているが、各地で、生徒の数が減ることによる学校の統廃合、地域コミュニティーの崩壊も進む。何より、人口減少は消費規模を縮小させ、生産力を低下させる。経済規模が縮小すれば、日本の国際的な地位も低下せざるを得ない。その一方で、高齢者の割合は増えて行くので、年金や社会保障、医療保険などの負担が増え、制度そのものが揺らぎ始める。じわじわと進行するこれらの影響全体が「静かなる有事」と言われる所以である。

◆「戦略的に縮む」社会に変革せよ
 この「静かなる有事」に、日本はどのように対処していくべきなのか。岸田政権が明確な財源の説明もないまま、子供を持つ家庭への支援を増やすとした異次元の少子化対策「こども・子育て支援金」については、的外れと言う指摘も多い。単に子育て家庭への支援だけでなく、社会全体を若い世代が将来に希望を持てる構造に作り替え、生まれて来る子供たちが安心して生活できる国造りをしていく必要があるのだが、その点に関する議論が十分されているとは思えない。切りためて来た記事のファイルの中から幾つかの意見を紹介しておきたい。

 一つは、河合雅司(人口減少総合研究所理事長)の意見である。河合は、岸田首相は「子育て支援」と「少子化対策」とを混同していると厳しく指摘する。人口減少の衝撃波をやり過ごし、「小さくても豊かな日本」に如何にソフトランディングするか。高齢者を支える若年層が疲弊する時代を目の前にして、日本を「戦略的に縮む社会に変革せよ」と主張する(23.1.13毎日)。そのためには、「捨てるものは捨て、残すものをよりよくする」。つまり、居住地を集約して医療や商店のサービスが維持できる10万人規模の拠点都市に再編成するべきと言う。

◆必要な「縮む日本の国家ビジョン」
 毎日の「オピニオン」は、将来人口8000万人を視野に「縮む先の豊かさを探る時」を書いている(木村均論説委員23.8.3)。人口減少時代に問われているのは、人口増加を前提に大量生産・大量消費のシステムを築いた戦後日本の歩みそのものである。従って記事は、GDP600兆円を目指して景気刺激の大型予算を組み、巨額の借金を積み上げたアベノミクスの反省を踏まえて、規模ではなく生活の質を高める成熟した国を目指すべきと書く。このように、人口減少時代に問われているのは、単に子育て支援だけではなく、包括的な社会変革なのである。

 若い世代が夢を持てる社会、社会全体で子育てを支援する社会。そして、小さくとも成熟した豊かさが感じられる社会。そのための社会機能のコンパクト化。そうした包括的な社会変革を促すために必要なものは何か。それが、「縮む日本の国家ビジョン」ではないか。若者の減少と人口8000万の超高齢化社会の到来に向けて、一つ一つの政策を個別に議論しているだけでは、この「静かなる有事」の衝撃波は乗り切れない。その時、日本はどんな国を目指すのか。国民の間に共通の価値観とビジョンがなければ、その衝撃波の痛みに耐えられないからだ。

◆生成AIに「新たな国家ビジョン」を聞いてみる
 ただし、個々の問題提起はあるものの、その時の国家ビジョンがどのようなものであるべきかについては、あまり提言が見当たらない。「戦略的に縮む」、「縮む先の豊さ」と言ったキーワードはあるが、共通する価値観や未来社会に向けての課題を網羅する提言がない。そこで試みに、私が時々その力量を試している人工知能、生成AIに「縮む日本の新たな国家ビジョン」について質問してみた。生成AIには、うまく質問(指示)することがカギになるが、将来8000万人になる人口減少の日本にソフトランディングして行くための国家ビジョンについてである。

 AIは、新たな国家ビジョンのタイトルを「次世代への架け橋」としたうえで、「縮小する日本に向けた持続可能で豊かな国を築くための提案」をたちどころに答えて来た。各項目に説明付きだが、@高度な福祉国家、A技術革新と環境持続可能性、B地方創生と地域活性化、C国際協力とグローバル貢献、D教育と人材育成の革新、E多様性と包括性などをあげ、「これからの日本は、変化をチャンスと捉え、新たな国家像を創り上げて行く必要があります」と、まともな答えを返して来た。さらには、その時目指すべき「豊かさの指標」などについても質問する。

◆若い人たちが声を上げる社会を
 続いて私は、「日本を老人中心から、若者へと手渡していくための政策」、「そのために政党が備えるべき性格」、「軍事大国ではない形での国際的な位置づけ」、「財政赤字をどうすべきか」などについても質問。政党が備えるべき性格については、革新性、多様性の尊重、若者の声の尊重、持続可能な発展の追求、国際協力の強化などを挙げた。もちろん、AIの優等生的な答えには物足りなさも感じるが、各項目についてさらに適切な質問を重ねて行けば、かなりの分量の「縮む日本の新たな国家ビジョン」の叩き台が出来上がるのではないかとも思う。

 AIの答えはともかくとして、静かなる有事が迫る日本では、冒頭に書いたように老人たちの支配する政治が「半昏睡状態」に陥っている状況である。今は、この状況を打破するために、若い人たちがAIでもデジタルでも何でも使いこなしながら、声を上げて行くしかない。その若い力を応援する社会でありたいと思う。

言葉のリアルが消えゆく時代 24.3.21

 第二次大戦終結から79年が経過しようとしている今年、2年前に始まったロシアによるウクライナ侵略やイスラエルとハマスの戦いなど悲惨な戦争に加えて、米中の暗闘、グローバルサウスの台頭による世界の多極化、あるいは北朝鮮や台湾、中東を巡る緊張など、世界には不穏な空気が色濃く漂っている。加えて人類の愚かな争いごとを尻目に、地球温暖化は今年も猛威を振るいそうな勢いである。そんな不穏な時代の転換点に日本はというと、去年からの「政治とカネ」の問題を巡って空疎な言葉が国会を飛び交い、課題山積の政治が機能不全に陥っている。

◆時代の転換点をリアルに見ていた2人
 時代の転換点と言えば、開国を巡って幕府の機能不全が露わになり、時代が風雲急を告げていた160年前の江戸末期も同じだった。それでも江戸は太平に酔っていた。幕末、オランダ医学の桂川家に生まれた今泉みねの思い出語り「名ごりの夢」によれば、吉田松陰が黒船に乗り込もうとする前、人々が向島で花見に浮かれているさまを見て嘆いたとある。開国だの維新だのと生半可のこと(同書)を思うより、花や船に心の苦しさをまぎらわそうという気持ちがあったのだろう。反対に、幕末の時代を動かした人物は迫りくる現実を冷徹に見抜いていた。 

 その人物とは、司馬遼太郎によればたった2人しかいなかったという(「歴史を動かす力」)。勝海舟と吉田松陰である。来るべき時代を見通し、(幕府や藩のためではなく)日本のために動いた人物である。咸臨丸でアメリカに渡航した勝海舟は、身分に囚われないアメリカの政体を鋭く観察し、これからの日本のあり方を思い定めた。それが、幕府から明治への転換につながる。一方、吉田松陰も時代の転換点にあって、世界の中の日本という国体を模索し、弟子たちを育てた。この2人に共通するのが、現実を見抜く目と、それを伝えるリアルな言葉だった。

◆リアリズム志向と対極にある今の政治家
 司馬との対談の中で、芳賀徹(歴史家)は、勝海舟がアメリカに行った時の日記について「実に見方がしっかりしている」、「個々のものにも即しているし、全体の枠組みも良くつかまえている」と言う。しかもインテリジェンスは著しく高く、鋭い。その目覚めた勝が伝達者になって坂本竜馬などを指導し、時代を回転させた。一方の吉田松陰は幕末における最大の文章家だった(橋川文三、政治学者)。地方を行脚しながら、ジャーナリストも及ばぬ目と文章で書き残した。時代を動かした2人に共通するのが、現実を直視するリアリズム志向の性格だった。

 時代の転換点に要求されるのが、現実を直視するリアリズムとそれを伝えるリアルな言葉だとすれば、現在の日本を動かす政治家たちはどうなのだろうか。一連の政治不祥事、政治とカネの問題において、「記憶にない」から始まって、「うっすらと憶えている」など。岸田首相も「総合的に判断して適切に対応する」といった官僚的な答弁の一方で、追いつめられると「火の玉になって」や「命がけで」などと大げさに言う。政治倫理審査会に出た党幹部たちも、判で押したような答えそのものが、政治不信を招いていることに気づいてもいなさそうだ。

◆リアルな言葉が消えて行く憂慮すべき事態
 事実がある筈なのに、知る筈の人間がそれを言わない。実体から外れた「空疎な言葉」を使って言い逃れしたつもりになっているが、それがごまかしであることを恥じない。今の政治家たちは本当のことを言わない。言えないのかも知れないが、空疎な言葉を使っているうちに、ついには、自分の脳さえも実体のない虚構に染まっているのではないかと、勘ぐりたくなる。政治家が現実を直視せず、虚構の世界に逃げ込んで保身に走る。選ばれた政治家が言論を闘わせるべき国会で、リアルな言葉が消えて行くこの事態をどう考えればいいのだろうか。

 もちろん、そのような政治家の虚言を許している社会にも問題はある。それは、事実や真実に基づくリアルな言葉が意味を持たない時代の空気に、私たちが覆われ始めているからでもある。それが「脱真実(post truth)」の時代潮流。先日放送されたNHKの世界のドキュメンタリー「イーロン・マスク ツイッター買収の波紋」を見たが、アメリカの公聴会、政治劇の中でも事実や真実は二の次で、互いの敵を攻撃し、陰謀論を振りかざすリアリティーなき言葉が溢れていた。今やアメリカは日本以上に、リアルな言葉が消え失せる時代を迎えている。

◆SNSが助長する「脱真実」の進行
 「脱真実(post truth)」は、アメリカ社会を蝕んでいる。トランプが攻撃する「政界を操る影の政界(ディープ・ステート)」といった陰謀論が幅を利かし、それぞれの陣営に肩入れした歪んだ言論がアメリカにはびこり、何が本当かを問う人は少数派になりつつある。このドキュメンタリーを見ていると、既に言葉が本来の意味を失い、単なる武器として飛び交う世界の到来を感じさせるが、こうした傾向を助長して来たのが、ツイッターなどのSNSだった。その結果、粘り強く言葉を駆使して妥協点を見つけると言った、言葉本来の機能も失われつつある。

 言葉が実体を失い、互いを攻撃する武器に成り下がる傾向は、日本のSNS空間でも同じ。逮捕された元国会議員のガーシー(東谷義和)などもその一例で、そうした、リアリティーのない言葉が浸透する社会の先に、政治家の空疎な言葉もあるのだろうか。誰もが、自分に都合のいい言葉を求め、そのリアルを問うことがない。現実から目を背け、耳障りのいい言葉に飛びつく。そうした傾向が政治の世界にまで、忍び寄っているのではないか。最近の政治家の空疎な言葉、空疎な思考を見させられると、この時代の行き着く先に何が待っているのかと暗然とせざるを得ない。

◆言葉のリアルを失わせるAIの登場
 言葉が膨大に氾濫するSNS時代の中で、言葉のリアルが失われる困った現象。それをさらに加速するものがある。それが人工知能(AI)の登場だという。特に生成AIは私たちの問いに、過去の膨大な言葉の空間から脈絡のある言葉をつないでもっともらしい文章を幾らでも吐き出す。厳しく問い詰めても、何の苦痛も感じずに、平然と次の文章を吐き出して来る。小説にAIを登場させた芥川賞の九段理恵は「東京都同情塔」の中で、「AIには己の弱さに向き合う強さがない。無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥じない」と書く。

 AIが吐き出す言葉は、いかにも世の中の平均的望みを集約させた、かつ批判を最小限に留める模範的回答だ(同書)。それは、どこか官僚が政治家のために用意する答弁書に似ている。しかし、平和、平等、尊厳、共感、共生など、他人の言葉を継ぎ接ぎして作る文章が何を意味し、誰に伝わっているかも知らないのでは、それは空虚な言葉に過ぎない。そこに、その言葉が持つ本当のリアルはあるのだろうか。多くの人々が答弁や挨拶、論文にAIを利用する時代。政治家の言葉がリアルを失い、空疎な言葉に染まって行くのに、どこかでつながる社会現象でもある。

◆新たな「バベルの塔」の時代に
 SNSやAIの進化によって、リアリティーのない言葉が膨大に生み出される一方で、それが人々の共通理解を妨げ、互いの会話を難しくさせる。それは、人間が傲慢にも天まで届く「バベルの塔」を築こうとして、神に言葉をバラバラにされた古代神話を思わせる。その意味で、現代は「デジタル空間にそびえる新たなバベルの塔」の時代なのかもしれない。そんな時代の転換期に、現実をリアルに直視し国の将来を設計すべき政治家が、実体のない空疎な言葉を弄び、説明したつもりになっている日本の現状である。

 その傾向は、異次元の金融緩和を継続し、膨大な借金を作った安倍政治の幻影を追い続けた自民党政治の本質でもある。SNSの進化とAIの進化の時代に、何が真実で、何が虚構なのか。世界と日本に迫る時代の転換点の中で、私たちは広く日本だけでなく世界の中で、こうした現実を直視する勝海舟や吉田松陰のような偉大な政治家や人物を何人、探し出すことが出来るだろうか。

政治を国民の手に取り戻す 24.2.6

今年は、ロシア、アメリカ、インドなど、世界50か国以上で、大統領選挙や国政選挙が予定されていて、歴史的にも前例のない規模の「選挙イヤー」になるという(2/4朝日)。その中で問われるのは、もちろん民主主義のあり方になってくる。民主主義が世界の中で劣勢に追い込まれている現状で、果たしてどれだけ国民の基本的人権や自由と平等の権利が保持されていくのか。足元の日本ではどうだろうか。現在、進行中の深刻な「政治不信」によって、政治が国民からかけ離れたものになっていないか。今、政治に問われるものを考えてみたい。

◆脱派閥は枝葉の問題。本丸は?
 自民党が、政治資金パーティー券を巡る裏金問題で揺れている。岸田が権力を手放したくないために、派閥解消の賭けに出て自民党内が一気に流動化。議員たちが次の選挙をにらんで保身のための離合集散に走り、誰が誰と組むとか、誰が新たな政策集団の主導権を握るとか、キングメーカー気取りの麻生が岸田の後釜を探しているとか、政策そっちのけの醜い権力闘争に明け暮れる日々である。メディアもそれを追うのに忙しいが、しかし、今回の問題において派閥の解消などは枝葉に過ぎない。本丸はもちろん「政治とカネ」の闇の構造にある。

 その本丸の一つが、裏金を巡る闇の構造である。裏金とは、ノルマを超えてパーティー券をさばいた議員が、超えた分を受け取るキックバックだが、報道されているところによれば、例えば安倍派だけで、この5年の総額が6.7億円に上る。それらを収支報告書に記載しないまま多くの議員が自由に使っていたことになる。この金は本当に政策活動費だったのか。それとも課税対象とすべき雑所得とみなすべきなのか。今回、慌てて収支報告書に記載したとしても、それらの収入を議員側が何に使っていたのか、内容が分からないのではそれも問えない。 

◆政策活動費というブラックボックス
 経済学者の野口悠紀夫は「パーティー券の還流分は政治資金ではなく、政治家個人の課税所得であることは明々白々」と言うが、仮に、この裏金が政策活動とみなせないことに使われていたとすると、脱税に当たる。自民党は、裏金を何に幾ら使っていたのか、党員に聞き取りをすると言っているが、具体的な使途が出て来るのかどうか。雑所得を政策活動費と言い張れば、課税されないというのは、制度を悪用した言い逃れに過ぎない。そもそも政策活動費と言えば、使途を公開もせずに、何億もの無税の金を自由に使えるという制度そのものがおかしい。

 政策活動費の名目で議員に配られる金は、裏金だけでない。政党が20万円以下は非公開の企業献金や5万円以下の個人献金で集めた政治資金から政治家個人に配る金である。こちらは1年間で14億円以上になり、茂木敏充幹事長の9.7億を始め、幹部たちに配られている。二階元幹事長などは5年間に50億円にもなる。ところが、この巨額な金には税金がかからない上に、使途が非公開となっている。「憲法で保障されている政治活動の自由」を盾にとった屁理屈だが、幹部に配られた後、税金がかからない巨額の金がブラックボックス化している。

◆政策活動費の闇にメスを入れられるか
 政党のパーティー券収入は、年間180億円にも上ると言うが、その大部分が自民党である。それを原資として政治家個人へも政策活動費として配られているわけだが、今回はこれ以外に収支報告書に記載されない裏金も発覚した。一説には、政治家や取り巻きとの高級料亭などでの飲み食いなどにも使っているというが、税金を搾り取られている市民感覚からすれば、これが非課税なのは許しがたい。非課税でしかも使途を公開しないこうした「政策活動費の闇」に、政治自身がメスを入れられるかどうか。それが、今回の「政治とカネ」問題の本丸と言える。

 御承知のように、日本では30年前の「政治とカネ」の反省から、議員数に応じて税金から配布する「政党交付金」(政党助成金)の制度ができた。毎年、総額315億円が共産党を除く9党に配布されている。それでは足りないというのか、自民党などは企業を相手にパーティー券を売りさばいて来た。その収入の一部(裏金)を不記載にしたのが今回の事件だが、刑事事件とは別に、これには主に2つの問題があると思う。一つは、そうした金集めによって、政治が金によって歪められる実態である。何かの見返りがない寄付など企業はしないからだ。

◆庶民感覚からかけ離れる金まみれ政治への不信
 2つ目のより深刻な問題は、政治家が金まみれになり、金銭感覚が麻痺することである。国会議員は既に様々な特権に恵まれ、税金のかからない巨額な所得を得ている。給与の他に無税の調査研究広報滞在費(月額100万円)、立法事務費(月額65万円)。加えて、JR特殊乗車券・国内定期航空券の交付や、3人分の公設秘書給与や委員会で必要な旅費、経費、手当、弔慰金など。さらには、政党交付金の一部も支給される。これらを合わせれば、国会議員は年収1億円の超富裕層に属し、先進国の中でも圧倒的に優遇されている存在なのである(*)。
*)「庶民が見えるか世襲政治家」(23.8.2)

 この超富裕の政治家たちがそれでも足りないと、パーティー券売りや裏金獲得に走る様をどう見ればいいのか。恐ろしいのは、金銭感覚が麻痺した政治家が、毎年100兆円を超える国家予算を右から左に決めて行くことである。その予算が血税や国の借金であることも忘れて、利権や金でつながった業界にばらまいているとすれば罪深い話である。今、岸田自民党への厳しい視線が向けられているのも、裏金問題への弱腰もさることながら、金銭感覚が麻痺した政治家たちの世界が、あまりに庶民感覚から遠くかけ離れていることへの怒りではないか。

◆民主主義の形骸化に風穴を開けられるか
 所得の半分近くを税金にとられている国民からすれば、今の自民党は、税金を納めない特権を有した、超富裕の特殊集団に見える。その彼らが、真に取り組むべき日本の課題をそっちのけにして、権力争いに明け暮れている。それに鉄槌を下そうにも、政治への回路はあまりに遠い。本当は、与野党の勢力が拮抗して政治に緊張があれば、こうした不祥事は起きなかっただろうが、安倍政治の8年で、一強多弱の政治が定着してしまった。その陰で進行したのが、民主主義の形骸化である。低い投票率に支えられて、自民党は過半数の勢力を維持して来た。

 しかし、それも有権者全体で見た絶対得票率は26%に過ぎない。こうした「政治と国民の乖離」に風穴を開けるような兆しはないのだろうか。国民と政治をつなぐ多様な回路を見つけて行かなければ、日本の民主主義はますます形骸化して行き、腐敗した政治状況の外国のように、一部の業界と癒着した超富裕の集団がいいように国の予算を決めて行く政治になりかねない。既に一部はそうなりかかっているようにも見える。この状態に、どう風穴を開けて行くかである。野党が「政権交代」を掲げて頑張るのもいいが、多弱状態の既存政党だけに任せられるか。

◆政治を国民の手に取り戻すために
 そのカギは、やはり若い世代にあるのだろう。大規模なデモに立ち上がるフランスのような国や、地域の問題に立ち上がったイギリスのように、異議申し立ての運動をしている国は沢山ある。英国在住のブレディみかこ(写真)は、日本もかつてはそうだったとし、「政治も社会も”波風”を立てよう」(2023.9.21、毎日)と言う。そして、日本でも選挙以外に政治に声を届ける運動を始めている若者もいる(1/26、石山アンジュ)。トランプのアメリカのようにポピュリズムに陥ることなく、特権階級化した政治家たちの目を覚まさせるために国民は何ができるか。若い世代の試みを応援して行くべき時なのかもしれない。

 冒頭に書いたように、今年は、世界中で民主主義が問われる年になりそうだ。そう思って、これまで「メディアの風」ではどの位民主主義について書いて来たかを調べてみた。その数、12本。改めてジャンル別にくくってみた(*)。政治の世襲化の弊害、ポピュリズムと民主主義の関係、民主主義の価値観、民主主義の死に方、政治とカネの問題などだが、そうしたコラムも踏まえながら、今年も様々な面から民主主義を問い直していきたい。
*)ジャンル別「政治と民主主義」