「風」の日めくり                       日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

佐渡一人旅C最終回 18.10.28

 旅の最終日。西の相川温泉から東の両津港に戻るのは路線バスではなく、地元の観光バスを利用することにした。佐渡博物館や地酒・真野鶴の酒造所、それに佐渡唯一の五重塔がある妙宣寺や根本寺といった日蓮ゆかりの寺、そしてトキが見られる「トキの森公園」などを巡り、昼過ぎに両津港に着く半日コースである。青天で気持ちのいい朝8時、ホテルの車で観光バスの出発地まで送って貰う。大型観光バスなのに乗客は5人。ちょっと気の毒な感じだが、平日で紅葉には少し早いせいかもしれない。ガイドさんも苦笑いだったが、丁寧に解説してくれた。

◆日蓮宗の寺々
 博物館、酒造所を巡った後、妙宣寺へ。日蓮宗の僧、阿仏坊日得が開いた日蓮宗の寺である。阿仏坊は承久の乱(1221年)で佐渡に流された順徳上皇について佐渡に来た武士だった。上皇が亡くなった直後に出家して上皇の墓を守っていたが、佐渡に流されて来た日蓮に出会ってから熱心な日蓮宗の僧として佐渡に生きた。妙宣寺の五重塔は江戸時代(1827年)、日光東照宮の五重塔を模して建立されたという。江戸時代の五重塔は現存するものが少ないとされ、なかなか優美な姿をした塔である。

 次に訪れた根本寺も同じ日蓮宗の寺である。佐渡に流された日蓮が籠もった小さなお堂(三昧堂)の跡に建てられた。その狭い三昧堂に押し込められた日蓮を多くの島民が馬鹿にする中で、ある冬、深い雪をかき分けて阿仏坊が訪れ、日蓮と問答したことで日蓮に帰依したと伝えられる。寺の一角に、その場所が残されている。島流しの逆境に遭っても日蓮が自分の信ずるところを熱心に説き続けたたことで、800年後の今に至る日蓮宗やそれから派生した創価学会(そして公明党も)が生まれて来たのだから、人間の存在の重さは不思議なものである。

◆トキの森公園
 絶滅したトキを復活させようと取り組んでいるのは、佐渡トキ保護センターだが、一般には公開されていない。中国から供与された5羽のトキをもとに人工繁殖を行い、この20年近く定期的に放鳥して来た。今では350羽ほどのトキが佐渡の自然環境の中で暮らしている。今回訪れた「トキの森公園」は、その保護センターの隣にあって、絶滅の歴史や標本、そして大きなケージの中にいるトキを見学することが出来る。運が良ければ、ガラス窓の近くにある人工の池に餌をとりに来るのが見られるというが、この日は遠くの枝に止まる数羽を見るだけだった。

 トキは長いくちばしと朱い顔、そして朱い足が特徴の鳥(ペリカン科)で、中国のトキも絶滅した日本のトキも種類は全く同じという。かつてはどこでも見られたが、資料で見ると中国、韓国、日本合わせても2000羽に満たず、絶滅危惧種になっているのだろう。佐渡では、農薬や化学肥料を押さえた田んぼ作りをして、野生のトキの繁殖環境作りに努力し、そこでとれた米を「朱鷺と暮らす郷米(さとまい)」として売り出している。その一方で、トキが稲を踏み荒らす害などもあってトキとの共存もなかなか一筋縄には行かないらしい。

◆電動アシスト付き自転車で能舞台へ
 路線バスの旅と違って、観光バスツアーは言ってみれば上げ膳据え膳の旅である。ガイドさんに従って廻っていればいい。あまり興味のないところは早めにバスに戻って待っている。3日目の旅はそんな感じで、12時20分には両津港に着いた。高速船のジェットフォイルが出るまで2時間ほどを空けていたので、観光案内所で地図を貰い、電動アシスト付き自転車を借りて、加茂湖周辺の能舞台を目指した。残念ながら今の時期はどこも開いていないが、能舞台を見て上演時の様子を想像してみたい。

 電動アシスト付き自転車は初めてだったが、走り始めると意外に快適だ。但し、能舞台への道路は結構車が頻繁に通るので気が抜けない。殆ど歩道がなく、車が来るたびに道の脇ギリギリを走らないといけない。緊張して肩が凝ってきた。そうして加茂湖に沿って慎重に40分ほど走ると本間家能舞台に着いた。誰もいない門を入ると草の生えた広場があり、雨戸の閉まった能舞台があった。本間家は佐渡宝生流の家元で今は16代目になるそうだ。毎年7月には、夜、明かりをつけた能舞台の周りを観衆が取り囲んで座り、能を鑑賞する。その有様を想像した。

 次は戻る途中にある椎崎諏訪神社の能舞台。入り口に標識がないのでわかりにくいが、教えられたとおりに自転車をこぎながら急な坂道を上って行くと鳥居があった。自転車を置いてしばらく歩くと社殿があり、その右手の境内に能舞台がある。周囲はただの広場で、ここでは観客は臨時の椅子席に座って鑑賞する。佐渡の能は言ってみれば野外舞台のようなものなのだろう。社殿の奧に見晴台への標識があるのでさらに上って行くと、眼下に加茂湖が見晴らせる高台に出た。カキの養殖に使われている筏が点々と浮かんでいる。誰もいないので周囲は静寂に包まれていた。

◆一人旅で非日常にジャンプできた?
 帰り道、加茂湖のほとりまで行って見た。加茂湖は新潟県内最大の湖で、日本百景の一つに数えられている。明治期に海とつながり汽水湖となってカキの養殖も始まった。水辺に船小屋のようなものがあるが、誰もいない。静かだ。湖面がキラキラと秋の日差しに輝いている。記念に自転車を入れ込んで湖の写真を撮る。お仕着せでない一人旅はこういうところがいい。暫くそこで時間を潰してから、再び緊張しながら両津港まで戻る。自転車のカギを返却し、乗船までまだ少し時間があったので遅い昼食にラーメンを食べた。14時25分、ジェットフォイルが港を離れ、短いながら充実した一人旅は終了した。   

 今回の佐渡旅行は、地元観光バス、路線バス、自転車、歩きと様々な移動手段を使ったが、老境に入ってから試みた一人旅にしては、結構楽しい内容になった。その都度、小さな選択を迫られるが、考えて選択をし、その結果を楽しむ。良い結果に出会えば嬉しいし、ダメでも納得する。旅の設計から予定の変更、小さな時間の過ごし方まで、全部一人で考えなければならない。体調管理や事故にも注意が必要だ。一人旅では、常にフルに頭を働かさないといけない。状況を把握するために自然に感覚も鋭敏になっていたようで、当初の狙い通り、少しは日常の惰性を脱ぎ捨てることが出来たかも知れない。

 ただし一人旅も 今回のように内容が盛り沢山になると、結構体力勝負になってくる。それを考えると、出来るのは身体と頭が働くあと数年のことかもしれない。瀬戸内の島々の美術館巡り、対馬列島から釜山へ、小樽から積丹半島へなどなど、一人旅で行ってみたい所はまだ幾つもある。厳選して一番行きたい所から実行してみたいが、一方で若いときと違って、今の自分は日常生活の方が大事と言えば大事。家族のサポートや温泉旅行、様々なお付き合い、コラムを書く生活やゴルフでの健康維持も。まあ、若い頃のように簡単に非日常に飛躍するわけにはいかないが、それでも次回の一人旅を楽しみにしていきたい。(終わり)

佐渡一人旅B路線バスで行く 18.10.20

 旅の2日目。朝起きてみると予報通り雨が降っていた。のんびりと朝風呂に浸かったあと朝食をとり、フロントで予定より一便早いバスで南端の小木港に行く方法を確認する。ホテル前のバス停で8時53分の便に乗り、途中の佐和田バスステーションで別のバスに乗り換えれば予定より1時間早く小木港に着くという。その方が向こうで時間を有効に活用できると思い予定を変更。支配人から頂いた地元の銘酒「北雪」2本(*)とお土産を、ホテルの売店から宅急便で自宅に送ってチェックアウトした。*)実は、我が家の隣のご主人が新潟県出身で老舗ホテルの支配人と親しく、事前に「よろしく」という電話を入れておいてくれた。地酒はそのご主人と私に。

 幸い雨はそれほど強くない。傘を差しながらバス停で待っていると路線バスがやって来た。生活の足になっているバスには病院に通うお年寄りが何人か。海岸沿いのトンネルを抜け、左手に水田を見ながら走り始めたそのとき。「田んぼの中にトキがいます」と運転手のアナウンスがあり、慌てて目をやると一羽の白い鳥が雨の中にたたずんでいた。あれがトキか。明日は、「トキの森公園」を訪ねる予定だが、その前に野生のトキを見られてちょっぴり嬉しかった。途中のバスステーションで別のバスに乗り換えるのに10分ほど待ったが、目的の小木港には10時半に着いた。雨は大分小降りになって来た。   

◆悲劇があった寺、蓮華峰寺を参拝する
 小木港は、新潟県の直江津港(上越市)と結ぶフェリーの港になっている。その昔、江戸から送られた無宿人はこの港から相川の金山に送られたという。この小木の近くに蓮華峰寺がある。真言宗の寺で空海が開いたという説もある古刹で、佐渡八十八カ所の一つになっている。江戸初期(1652年、慶安5年)に、相川の奉行所で上役の腐敗を申し出ようとした役人、辻藤左衛門が逆に上司から罪を着せられ、この寺に逃げ込んで住職共々攻め滅ぼされた悲劇(小比叡騒動)があった。その時に寺の一部は焼失したが、金堂などは重要文化財として残っている(「佐渡の道」司馬遼太郎)。

 残念ながらそこへ行くバス路線はなく、タクシーで行くことにした。10分ほどのところである。仁王門を入ると本堂までの参道は下り坂になっている。「佐渡の道」によれば、周りを八つの峰が囲んでそのすり鉢の底に寺がある地形は蓮の花に似ていて、それで蓮華峰寺の名がついたのだそうだ。この蓮華式は他にも多くあり、空海が開いた高野山などもそういう地形になっているという。奥まったところにある本堂に上がらせて貰って般若心経を唱えたあと、優美な姿の金堂などを拝観し、待たせていたタクシーで小木港へ戻った。タクシー代、2560円。もう雨は殆ど上がっていた。

◆船大工の集落、宿根木でのひととき
 小木港に戻ってから、しばし考えた。西の集落、宿根木(しゅくねぎ)には何で行くかである。バスで行くか、タクシーを使うか。観光案内所に相談すると、路線バスの時刻表をもとに幾つかの選択肢を教えてくれた。宿根木は江戸時代から明治にかけて、日本海を航行した北前船の寄港地として栄えた所で、千石船の船大工の家々が独特な密集形態で残っている。ここは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されていて、吉永小百合を使って撮影された「大人の休日倶楽部」の宣伝写真でも有名になった。ネットで佐渡観光の資料に当たっているうちに、その迷路のような集落に惹かれたわけである。

 宿根木での時間を十分取り、昼食も向こうで取るつもりでバスを決めた。小木からバスで15分ほど。山を背にして海に開けた狭い場所に70軒ほどの家が肩を寄せ合っている。家々の板壁は千石船の廃材で作られており、皆同じような古びた焦げ茶の色をしている。案内所で集落の地図を貰って、家々の間の迷路のような通路を歩きまわった。観光客向けに公開されているところもあれば、実際に人が住んでいる住居もある。一番奥に集落の菩提寺の称光寺がある。ここは(鎌倉時代の一遍上人を開祖とする)時宗の寺で、「南無阿弥陀仏」と唱える。

 一般公開している元船主の家「清九郎」を案内して貰う。内部はけやき作りで、神棚も立派。板の間なども漆塗りでピカピカ光っている。船大工たちが腕によりをかけて建てたものだろう。案内の人に聞くと、この家の子孫は明治になって北海道に移住し、今はどうなったかわからないという。さらにぶらぶらと集落内を散歩し、吉永小百合の宣伝写真にあった家「三角家」を見つけ、その前で同じポーズで写真を撮って貰った。帰る時間になって海辺のバス停で待っていると、漁港ではこの辺一帯の名物の“たらい船”で観光客を呼び込んでいる。もう再び来ることはないだろうなあなどと思いながら、そんな様子を眺めていた。

◆佐渡歴史伝説館と真野新町を歩く
 小木港に戻って暫く時間を潰したあと、宿泊地の相川に向かうバスに乗る。途中「真野御霊前」というバス停で降りて「佐渡歴史伝説館」を見学。佐渡は流人の島でもある。古来、多くの人々がこの島に流された。その中には高貴な人たちもいて、例えば鎌倉初期、倒幕を目指した承久の乱(1221年)で敗れた順徳上皇(1197-1242)もその一人。上皇は佐渡に流され皇女をもうけたが、いずれも佐渡で不遇のうちに没している。あるいは、鎌倉幕府と対立して流された日蓮(1222-1282)は佐渡に3年間を過ごして、ここで日蓮宗の種を撒いた。足利幕府の将軍、足利義教に疎まれた世阿弥も1434年に佐渡に配流されている。「歴史伝説館」では、こうした人々のエピソードをカラクリ人形劇で紹介している。

 日差しが射してくる中、バス停から歴史伝説館への往復を歩き、さらに次のバス時間までまだ1時間半ほどもあるので、真野新町の端から端まで歩いてみた。疲れたらコーヒーでも飲もうと思ったが、道沿いには喫茶店の1軒もない。タクシー会社を見つけて、相川まで幾らかかるかと聞くと6千円という。運転手も「それは待った方がいいよ」というので、それもそうだとバス停に戻ろうとすると、そこに別の路線バスがやって来た。取りあえず待合室がある佐和田まで行こうと飛び乗った。結果的にはそれが良かった。

◆七浦海岸を通って相川のホテルへ
 案内所で乗り継ぎのバス時間を確かめて見ると、別なルートでもっと早く相川に着くバス便があるという。それは七浦海岸を回って行く路線で、途中で名所の夫婦岩も見られるらしい。往きと違った風景が見られるのは大歓迎。早速ホテルに電話して、その時間に終点の相川に迎えに来て貰うことにした。
 路線バスのいいところは、融通が利くこと。そして集落のそれぞれのバス停で乗り降りする人々を観察でき、そこでの生活が何となく想像出来ることである。この日は、夕方だったので高校生たちが三々五々家路についていた。また、バス停ごとの集落の名前を確かめるのも興味深い。七浦海岸の“稲鯨”とか“鹿伏”といった集落の名前を見ながら、そこにどんな由来があったのかを想像する。

 走りながらだが、海岸に二つ並んだ夫婦岩も見た。ホテルに着くと、もう日没が迫っていた。温泉に入って部屋に戻り、部屋のベランダに出て日本海を見る。雲も少しあったが、水平線に太陽が沈む時だけその雲が切れた。刻々と沈んでいく真っ赤な太陽。海に面する崖をあかね色に染めながら夕日が沈んでいく。雲も夕日を受けて輝いている。念願の日没風景を眺めながら、そうした写真を何枚も撮ることが出来た。

 値段が半分ほどのこちらのホテルの夕食はバイキング形式。食べ過ぎないように飲み過ぎないように注意しながら、「今日のバス路線の旅(全部で約3千円強)は、ハプニングも含めて上手く行ったし楽しかったなあ」などとしばし旅の余韻を味わった。唯一残念だったのは佐渡の路線バスには「1dayフリーパス、大人1500円」というのがあったのを後になって知ったことである。(次回に続く)

佐渡一人旅A金山を訪ねる 18.10.12

 旅の初日。新潟港から佐渡汽船のジェットフォイル(高速船)に乗り、昼食の弁当を食べているうちに、船は1時間ちょっとで佐渡の東中央に位置する両津港に着いた。そこで待機していた13時発の新潟交通佐渡の観光バスに乗り込む。中型の観光バスだが、バスガイド付きで乗客は16人。主に佐渡の景色と金山跡を訪ねるコースで、終着が今晩泊まる相川温泉になっている。両津港の西にある新潟県で1番大きい加茂湖を回った後、右に北上し「白雲台」(標高875m)を目指す。そこの見晴台から眺めると、国中平野の両端にある東の加茂湖と西の真野湾までが一望できることになっている。

 ここで簡単に佐渡の地形について触れると、その昔海底だったところが日本列島と同じように、南東からのプレートの力を受けて2本のシワのようになって隆起した。それが北の大佐渡山地と南の小佐渡山地の2本の山脈で、その間を平坦な米どころの国中平野が埋めている。(後に佐渡博物館で貰った資料によると)海底から顔を出したのは300万年前で、今も隆起は続いているという。数億年前に海底だった地層も見ることができる地質的にもユニークな島で、日本ジオパークの一つになっている。大佐渡山地には佐渡で最も高い金北山(1172m)や妙見山(1042m)があり、「白雲台」はその近くにある。

◆白雲台からの眺め
 ガイドさんが「白雲台に上るこの道路は“防衛道路”と呼ばれています」という。戦後すぐにアメリカ軍が金北山の山頂にレーダー基地を作るというので、日本側が突貫工事で作った道路なのだ。今、そのレーダーは使われていないが、道の途中には自衛隊の駐屯地があり、“別のレーダー”を守っている。それが妙見山の山頂にある(通称)ガメラレーダーであり、空の防衛にあたっている。ガイドさんが「沖縄、九州、佐渡、青森の4カ所でミサイルを監視しています」と言う。こういうことは、ガイド付きのバスに乗らないと得られない情報ではある。

 「白雲台」から眺めると、亀の甲のような目を持ったガメラレーダーが見える。冬になるとこの辺は4メートルの積雪になると言うが、自衛隊員は保守点検のために定期的に登るのだそうだ。試みにネットで「ガメラレーダー、佐渡」と入れると、中国の要人がここを訪れたり、中国人がこの辺の土地を買ったりしているという警告記事(4年前の産経ニュース)もあり、佐渡が単なる観光地でない一面を見せている。この日は薄曇りだったが、白雲台からは眼下に広がる国中平野と両サイドの加茂湖と真野湾が見渡せてなかなかの眺めだった。

◆金山跡地を見学する
 バスは、(紅葉になったら綺麗だろうなと思わせる)つづら折りの大佐渡スカイラインをたどって佐渡金山の跡地に向かう。「選択肢は2つあります」とガイドさん。江戸時代の金鉱山(宗太夫坑)と明治以降の鉱山(道遊坑)の2つで、私は、宗太夫坑(そうだゆうこう)に入ってみることにした。ひんやりした坑道を歩いて行くと、各所に金を掘った横穴が空いていて、当時の労働の様子が“からくり人形”で再現されている。坑道の奧に湧きだした水をくみ出すための太い筒を回す労働者や、岩壁をノミでうがつ労働者など、様々な作業が精巧な動く人形によって再現されている。

 司馬遼太郎の「佐渡の道」を読むと、江戸中期(1777年から)、こうした地底の過酷な作業に狩り出されたのが、無宿人たちだった。彼らは主に江戸市中に出て来た「あぶれもの(無戸籍者)」だったが、罪人でもないのに突然とらえられて佐渡送りにされた。その労働は魚油の明かりだけの暗がりの中、一昼夜ぶっ通しで働く地獄のようなもので、多くは3年くらいで一酸化炭素中毒や珪肺で死んだという。司馬は「どれほどの人数が佐渡に送り込まれたかとうことさえわからない」と書いているが、現場の説明文には1874人となっている。その後、研究が進んだのだろうか。

 多くの穴はずっと奥の方まで続いていて、その奥にまでからくり人形がいる。司馬の本を読んだ後では、とても夜一人では歩けない感じがするが、江戸幕府はこうした“汚点”(司馬)の上に「黄金のジパング」を築いたわけである。やがて金山は人力では掘り尽くされて、再び脚光を浴びるのは明治になって西欧の製錬技術が導入されてから。その生産量は昭和の戦争末期に最大を記録する。佐渡金山は資源枯渇で平成元年に操業が中止されたが、北沢浮遊選鉱場などの(今は昔の)近代遺産なども見ていると、やはり金の魔力というか、それに引き寄せられた人間の業のようなものを感じる。

◆尖閣湾の遊覧を終えてホテルへ
 金山の入り口をバックに16人の集合写真(希望者は千円で購入)を撮ったあと、バスは江戸時代の佐渡奉行所の脇を通って西海岸に出た。ここから島の北部に向かう海岸線は、大昔に隆起した崖が波に削られ独特の景観を作っている。タモリが歩いたら喜びそうな「ジオジャパン」の世界だ。私たちは近くの尖閣湾まで行って遊覧船に乗った。時間にすれば短いものだが、底がガラスになった船で海底の様子を見たり周囲の奇岩を見たりしながら湾内を一周した。ここは昔、「君の名は」のロケ地にもなった所だそうだ。船乗り場まで80段の階段を上り下りした後、宿泊地の相川温泉に。バスがそれぞれのホテルまで連れて行ってくれた。 

◆老舗ホテルで
 部屋に案内されると目の前に日本海が広がっていた。しかし、この日はあいにくだんだん曇ってきて、今にも降り出しそうな天気になった。その日本海を眺めながらゆっくり温泉に入った後、部屋で食事。さすが値の張る老舗ホテルらしく、刺身から煮物、肉類まで食べきれない位の品々が並べられた。その数13品(写真はカタログ)。佐渡の地酒の真野鶴を飲みながら一つ一つ片付けていく。まだ宵の口。のんびりした時間だが、一人旅の寂しさとか、孤独感とか言うのは全くない。若い頃とまた違った一人旅ではある。すると、娘と孫のK君からLineがかかってきた。画面で食事の品々を見せたりしているうちに、お腹がパンパンになって苦しいくらいになった。

 まあ、居酒屋で地元料理を食べるというのは宿題にして、今回はこれでよしとする。さて、明日はどのように歩こうか。予報では降り出した雨が、午前中までかかりそうだ。フロントで聞いたように、予定よりひと足早くホテル前のバス停からバスに乗り、乗り継いで早めに島の南端の小木港に行こう。そこで天候の回復を待ちながらあれこれ歩くことにしよう。明日は結構行き当たりばったりの路線バスの旅だ。部屋の窓から覗いてみると日本海の波が暗がりの中で寄せては返している。その音を聞きつつ、満腹の胃をいたわって胃薬を飲んで寝た。(次回に続く)

佐渡一人旅@旅の準備 18.10.5

 ここ数年、ずっと一人旅をしたいと思っていた。これまで県庁所在地は全部回ったが、まだ足を延ばしていないところが結構残っている。そのうちで趣がありそうな場所を選んで気ままに旅をし、その土地の旨いものを食べてから死にたい。それが出来るのは身体が動く今のうちだから、今年こそはと毎年考えて来た。それと、いよいよ旅を計画する気になったのは、もう一つの思いが強くなったからである。それは、この歳になると毎日が幾ら刺激的でもたかが知れていて、大体が経験したことの延長に過ぎない。常に自分の感覚に薄い膜のようなものが張り付いていて、何に対してもワクワクするような新鮮さを感じない。

 ところが一方で、2歳になった孫のK君を見ていると、絵本を読んでやっても一人遊びをしていても、その興味の持ち方や観察の集中力が半端でない。毎日、感覚の毛穴を全開にして興味津々、膨大な情報量を吸収している。2歳の誕生日を過ぎた頃から、話す言葉も表情も一気に豊かになって、その急成長ぶりに驚かされる。彼の万分の一でも新鮮な気分で現実に触れてみたい。非日常の体験の中で、自分の感覚を覆った膜をはぎ取ってK君のように新鮮な感覚を取り戻してみたい。それには、自分の頭と感覚だけが頼りの一人旅に限る。ようやく念願の一人旅に踏みだしたのには、そんな切羽詰まった思いもあったわけである。 

◆佐渡の地図を頭に入れてルートを作る
 行きたいところは何カ所か漠然と思い描いてきたが、その中で今回選んだのはまだ行ったことのない佐渡である。名のある人たちが佐渡に流された歴史、能などの民俗芸能、そして江戸時代の金山。そうした魅力に惹かれたこともあるが、何より心を捉えたのは日本海に沈む夕日である。温泉に浸かりながら真っ赤な夕日を眺め、土地の料理と地酒を楽しむ。それを第一に旅の計画を立ててみた。新幹線で新潟に出て、高速船(ジェットフォイル)で対岸の両津港に行く。そこから西海岸へ移動するわけだが、こちらは車の運転が出来ない。基本、バスと自転車と歩きである。

 佐渡で何を見たらいいのか。何処へ行ったらいいか。その準備も楽しもうと、あれこれネットで調べてみる。あるいは、奧さんが佐渡出身の先輩に電話して見所を聞いたりもした。しかし、いずれも佐渡の全体地図がないとさっぱり土地勘が掴めない。本屋で佐渡の地図を探すが、佐渡だけの観光案内は殆どない。仕方がないので、ネットから色んな観光案内図をプリントして、見るべき神社仏閣、金山跡地、景色・風景、博物館、能楽堂、街並みなどを頭に入れて、そこを訪ねるルートを考えて見た。見るべきは大体、島の中央(国中平野)を東西に走るルートや島南端の小木港近くにあるようだ。

 そのうちに、ハタと思い出して司馬遼太郎の「街道をゆく」(10巻目)の中の「佐渡の道」を手に入れた。冒頭に佐渡の全図と司馬がたどった道が載っている。地図を見て内容を確認するうちに、ようやく佐渡の全体像が頭に入って来た。行きたいところも分かって来た。始めは3泊4日を考えたが、最初なのだからもっと気楽にと思って2泊3日の行程に短縮。宿は(金山跡に近く、佐渡奉行所があった)西海岸の相川温泉に取ることにした。相川温泉と両津港の往復は、観光名所をたどる地元の観光バスを使うことに。これで旅の骨格は出来た。

◆行程作り。旅の準備を楽しむ
 往きの新幹線、高速船ジェットフォイル(佐渡汽船)、観光バス(金山など観光の目玉を訪ねるおけさAというコース)。そして帰りの観光バス(寺やトキの保護センターなどを訪ねるおけさBコース)、ジェットフォイル、新幹線の時間をネット上の時刻表を参考に決め、近くの旅行会社を訪ねて切符の手配をする。次にホテル。一人旅を受け入れないホテルもあるが、取りあえず最初の晩はちょっと贅沢に老舗ホテルに泊まり、次の晩は手軽なホテルを取ることにした。どちらも部屋からは日本海が一望できるようになっているという。事前に計画を決めて行ったので、全ての手配は1時間で終了した。

 ジェットフォイル、観光バス、宿をパックにしたのでそれぞれ単体で購入するより、幾らか割安になっているようだ。「大人の休日クラブ」に入っているのでJRは3割引。ちなみに、カミさんはこの一人旅に何の関心も示さない。先だって(5月)弘前から竜飛岬まで一緒に旅行したし、旅行の費用は私のヘソクリから出しているからだろう。「いつでもどうぞ」と言われている。「何だか寂しそうな島だから」と佐渡にも興味はなさそうである。ただし、「(海外も含めて)旅先で倒れても迎えに行かないわよ」と釘を刺されてはいる。 無理はするなということだろう。

◆2日目は路線バスの旅
 2日目は全くのフリーにした。天気次第だが、ネットで調べてみると現地の観光協会には電動アシスト自転車の貸し出しもある。あるいは、天気が余り良くなければ路線バスで島内を移動することも出来る。新潟交通佐渡の路線バスは、時刻表もネットで調べることが出来るし、ホテルやバスセンターなどでも手に入れることが出来る。出発が近づいて、佐渡の天気予報を見ると1日目は何とか持つが、夜には雨が降ってきて、2日目の午前中は雨らしい。3日目は晴れ。まあ、そういうことなら自転車は3日目に回して、2日目は路線バスで移動することにしよう。できるだけタクシーを使わずに路線バスの一人旅を楽しむつもりだ。

 「佐渡の道」を読むと、江戸期にあった、南端の小木港の近くにある蓮華峰寺を舞台にした辻藤左衛門の悲劇の物語と、佐渡金山に送られた無宿人の話がかなりの部分を占めている。江戸で狩り集められた無宿人たちは、この小木港から籠に押し込められて北上し、相川の金山に送られた。その金山探訪は観光バスの行程に組み込まれているが、物語に出てくる蓮華峰寺と無宿人が送られた小木への道中は路線バスを使って行ってみたい。あるいは、うまく路線バスの連絡があるかどうか分からないが、小木港の西にある北前船の船大工の集落で、家々が異様に密集して迷路のようになっている宿根木(しゅくねぎ)にも行ってみたい。

◆孤独の中で非日常の感覚を
 佐渡は流人の島でもある。鎌倉幕府の転覆を企てて敗れ、佐渡に流された順徳上皇、あるいは鎌倉幕府にたてついて流された日蓮、能役者(猿楽師)の世阿弥も足利時代に将軍の迫害を受けて佐渡に流されている。そうした物語が今も寺社や遺跡になって残っている。「佐渡を世界遺産に!」というのも、佐渡の悲願らしい。3日目は天気が良さそうなので、観光バスで両津港に着いたら、電動アシスト自転車で両津の加茂湖の周辺にある能舞台を訪ねて見たい。そんな旅をしながら、歴史の風情を感じることが出来るだろうか。

 若い頃は結構一人旅を経験したが、この歳の一人旅は気楽にゆっくり楽しみたい。何よりも島の空気を肌で感じて孤独に非日常の感覚を味わってみたい。ただし一方で、かなり予定を詰め込んだので、それを全部こなすとなると3日といえども結構体力勝負の旅になりそうだ。昼間の気温はこの時期、20度から25度程度。半袖、長袖のシャツにウィンドーブレイカーを持ち、折りたたみの傘を入れ、カメラは軽い方のデジカメにして、下着類も出来るだけ少なくし、リュックを軽くして出発の日を迎えた。こうした一連の準備も一人旅のノウハウを学ぶ感じで楽しかった。(以下次回)

記憶に残るか、猛暑の夏 18.7.30

 私の故郷は7月がお盆になる。早いもので、母が亡くなって3年が過ぎた。去年は一同が集まって3回忌を執り行ったので、今年は私たち夫婦と弟で墓参りをした。姉たちも暑い上に、医者通いを抱えたりして、集まるのはもう少し涼しくなってからと言うことになった。高齢の叔母夫婦も私たちきょうだい家族も、寄る年波で身体のあちこちに故障を抱えている。それをだましだまし暮らすために、それぞれ努力をしながら、そして熱中症にならないように注意しながら暑い夏を乗り切ろうと、最近はもっぱら携帯で連絡を取り合う日々である。 

 ところで先日、歳を取ってからの時間が早く感じるのは何故か、という質問を「チコちゃんに叱られる」(NHK)でやっていたが、歳をとると心がときめかないからというのが理由らしい。逆に言えば、時間を“矢のように”過ぎ行かせないためには、日々感動や心のときめきが必要らしい。これが正しいかどうか分からないが、たとえ心がときめいたとしても、それを記録しておかないと、哀しいことに高齢者の記憶はあっという間に忘却の彼方に消えてしまう。ということで、この1ヶ月あまりの間で印象に残ったことを書いておきたい。

◆涼を求めて行ったのに
 まだ、本格的な夏が始まる前だと言うのに埼玉で41.1度の“酷暑”を記録した日。私たち4人組は、その前日から鬼怒川の奧の湯西川温泉に出かけていた。標高700メートルの温泉郷で、少しは涼しいかと期待して行ったのにそれほどでもない。しかも、旅館に到着したらクーラーがダウンして修理に入っていると言う。仕方なく部屋に扇風機を運んで貰って暑さをしのぎながら、温泉に入る。「夕食までには直ると思います」というので、そこだけはクーラーが効いている広間で食事を終えて戻ってくると、まだ直っていない。結局、部屋にクーラーが効いたのは10時頃だった。

 翌日、渇水で水量が2/3程度に減った湯西川湖を水陸両用バスで遊覧したあと、酷暑の埼玉に帰って、友人のなじみの店で遅い昼飯を兼ねて一杯やろうということになった。3時頃、店の駐車場で車を降りると、もう地獄のような暑さ。熱風が身体を包み、日差しが肌を刺すように痛い。この暑さは既に、夏は50度にもなって外気に肌を去らさないように毛布をかぶっていると聞いたインドや中東の夏に近づいているのか。蒸し暑いだけさらに堪える。地球温暖化を否定して来た人たちの感想を聞いてみたい気分だ。

◆ネットTVのたくらみ
 その店で一杯やりながら私たちが議論したのは、かねて構想中の「ネットTV」について。その計画とは、あるスタジオにカメラを据えて元アナウンサー2人の辛口対談を収録、それをYouTubeにアップする。同時に、HPを作ってトップページに画面を貼り付け、YouTubeとリンクさせる。HPの方には、過去の収録分がアーカイブになって残っていく。その辛口対談は、自己規制や忖度なしの言いたい放題。今のご時世で腹にすえかねること、文句をいいたいことを言葉達者な2人があげつらう。これに文章を付加したければそれもOKだ。

 早速、28日(土)の午後に記念すべき第一回収録をすることにしたが、あいにくその日は台風12号で延期。このネットTVがどんな展開になるか、多くの人に見てもらえるものになるのか分からないが、こんな計画が持ち上がるほど、私たち高齢者の間には今のご時世に対する鬱憤が溜まっている。かく言う私もこうしてコラムを続けている。私はディレクターとして陰でお手伝いをするだけだが、この辛口のネットTVが、2人によってどんなものになるのか楽しみだ。多分、8月下旬には見られるようになると思うので、お知らせはその時に。

◆心に残る夏の記憶
 6月末、子供たちの夏休みを利用してNYの次男一家が1年3ヶ月ぶりに一時帰国した。こちらにも泊まりに来る予定だったが、狭い我が家では無理と観念したのかこちらは日帰りにして、5人は一ヶ月あまり奥さんの実家に居候することになった。10歳、8歳、3歳の元気いっぱいの子供たちを預かるのは大変だと思う。その後、次男が上の子だけを連れて泊まりに来たので、勉強のお相手をした。次男一家はこの1ヶ月、あちこちに出かけて目一杯に楽しんだようだが、そのときめきは孫たちの一生の思い出になって行くだろう。その長い夏休みもあと1回だけ一緒に食事をして、1週間後にはもう成田で見送りだ。 

 楽しい会食もあった。ひと月前くらいから会いたい人との会食をセッティングする。そうは言っても相手を無理に引っ張り出すことになったら失礼なので、そこは相手が喜んでくれているかどうか(日頃のお付き合いや、声をかけたときのやりとりも含めて)感覚を研ぎ澄まして判断する。そうして、若い世代の人たちとも、あるいは暫く会っていない懐かしい人たちとの会食もセッティング出来た。生きていれば、人生に関して、仕事に関して、あるいは時代に関して、話すことは沢山ある。それぞれに心に残る、濃密で楽しい会食が持てて感謝である。

◆本を読む生活への憧れ
 昼間は、歩いて数分の市民会館の休憩室に移動する。以前は喫茶室だったところでコーヒーの自販機と椅子とテーブルが揃っている。冷房が効いて大方は無人。そこで前はサイゼリヤでやっていたように、ゆっくり本を読んだり、切り抜いた新聞を読んだり、そこから見える遊水池公園の広々とした空を眺めたりする。最近そこで読んだ本は、コラムに取り上げたバーニー・サンダース自伝。市長に当選した彼が保守的な市役所に乗り込んで、様々な反対を乗り越えて様々な改革を実行していく様子は痛快でさえある。

 この休憩コーナーでは、石牟礼道子の本「ショックドクトリン」などの大冊も読んだが、こんな静かな空間で、“もう一つ別の世界”を感じるのも読書の醍醐味かもしれない。こうして時間を過ごしていると、勉強会の先輩のように涼しい軽井沢の別荘で読書三昧といった贅沢には遠く及ばないが、こうした「本を読む生活」も悪くないなあと思う。そのサンダースの自伝を、最近まで「市議会議員と市民の会」で一緒にやって来た、(私が密かに市長に立候補すればいいのにと思っている)有能活発な女性市議に紹介したら、早速アマゾンで注文(ぽち)して「読んだら感想を送りますね」と返事が来た。彼女がどのような反応を示すのか、興味あるところだ。

◆夏はまだ始まったばかり
 本棚の整理をしていて、テレビの先輩たちが書いた何冊かの本が目にとまった。読み始めると、彼らがいかにTVドキュメンタリーに思いを寄せていたか、痛いほどに伝わってくる。私が週2回通っている制作会社もドキュメンタリー主体の会社で、例年、夏は来年度の新番組企画を考える時期だが、考えるべき課題は多い。特に、最近のテレビがどこに向かっているのか、近頃の視聴者はテレビに何を求めているのかが、よく見えなくなっている。それはドキュメンタリーのあり方にも大きく影響してくる。いずれコラムでも考えたいテーマだが、若いディレクターたちとも議論してみたい。

 さて、いよいよあさってから8月。記憶に残りそうな平成最後の猛暑の夏だが、考えて見れば、まだ日本の夏はこれからが本番である。久しぶりに「ふるさと村」に先輩と出かけてうまい鮎を食べる計画や、涼しい高原で一回だけゴルフをする計画、先月同様、若い人たちや懐かしい人たちとの会食も幾つか入っているが、今月はそれほど多くはない。むしろあまり欲張らずに、8月は無理のないようにしたい。楽しみは涼しくなる9月に回して、猛暑の8月は穏やかに、そーっとやり過ごしたいと思っている。

健康のために続けていたら 18.6.19

 テレビで視聴率を稼ぐなら食べ物と健康をやるに限ると言われたが、今やどのテレビ局も食べ物と組み合わせた健康情報で一杯。それも認知症予防なら何々、血圧を下げるには何々、血液さらさらのためには何を食べればいいという。お陰で、ポリフェニール、イソブラホン等と言った難しい固有名詞も、もうすっかり常識になった。かく言う私も、この歳になって若い頃の不摂生を取り戻そうと健康にかなり気を遣うようになって、朝食に生野菜、バナナ、ヨーグルト、牛乳をとり、日本食を食べるときは味噌汁に青汁の粉、納豆にオリーブオイルを混ぜたりしている。かなりの健康オタクでもある。

 その他に食べているものがある。それが、血圧を下げるのに効果があると言われたチョコレートである。カカオの多いビターなチョコレートを置いていて、毎朝一個だけ食べる。それと、確か「ためしてガッテン」でやっていたのだが、認知症の予防に効果があるというので、お酒はもっぱら赤ワイン。それにカマンベールの一切れを。赤ワインのポリフェノールは、チョコレートとともに動脈硬化を防ぐ効果があると言うし、カマンベールの表面についている白カビには、脳内の老廃物を除去する働きがあると言う。この2つを食べていれば認知症にならないというわけである。

◆疑問符のつき始め。チョコレートが痒みの元?
 というわけで私の食生活は、アルコールは赤ワイン、カマンベールの一切れ、チョコレート、腸内細菌のためのヨーグルト、オリーブ油、青汁粉、納豆、食物繊維の海苔など、すっかりテレビに影響された食生活に変わっている。おまけに青魚の油に含まれるEPAやDHAのサプリメント、ビタミンCなどの錠剤まで飲んでいる。バナナも塩分のカリウムを排出するのに効果があるというのでウィークデーの朝食は生野菜とバナナで済ませている。健康志向が高まっている昨今、こうした身体にいいという食べ物を意識的に摂っている人は多いのではないかと思う。

 ところがである。せっかく健康のためにと摂っている食べ物に疑問符がつく出来事にしばしば遭遇するようになったので、狐につままれたような気持ちがしている。最初の疑問符はチョコレートだ。去年の秋頃からだったと思うが、身体のあちこちが妙に痒くなってきた。特に頭皮が痒い。多分、歳を取って皮膚の脂分が少なくなり乾燥肌になったのかも知れないと、身体には保湿用のクリームを塗り、頭髪にはそれまでの養毛剤をやめて皮膚に易しいものをネットで調べて用いるようにした。シャンプーもごしごし洗うのではなく易しくなでるだけにする(もっとも随分と薄くなっているけど)。

 こうして、何とか皮膚のかゆみをやり過ごしていた今年の春、たまたまラジオを聞いていたら、かゆみの元であるヒスタミンを除去する働きを抑えるものとして、チョコレートやココアが上げられていたのである。チョコレートやココアを摂っているとかゆみの元のヒスタミンがなかなか排出されず、身体が痒くなるというのだ。もちろん食べる量にもよるのだろうが、健康に良かれと思って摂取していたのが思わぬところで影響をもたらす。「あちら(高血圧予防)立てれば、こちら(身体の痒み)立たず」である。

◆芥川の「歯車」の正式名は「閃輝暗点」
 さらに最近、もっととんでもないことが分かって来てちょっとショックというか、笑うに笑えない話になってきた。それは、この1週間ほどの間に立て続けに起きたある症状である。視野の中に最初は小さなぼやけた点が現れる。やがて、それがだんだん大きくなって、ぼやけた周囲がキラキラと光りながら範囲を広げていく。目を閉じてもそれは消えないので目の問題ではなく、脳の中に現れた現象だと言うことが分かる。大きくなって視野から消えていくまでに15分から20分。この間、見えなくなるわけではないが視野が欠けているようで、気持ちが悪いことこの上ない。

 これは、芥川龍之介の小説「歯車」に出てくる症状として名高いもので、若いときは私も結構経験した。この現象は、偏頭痛の前触れとして現れるもので、脳内の血管が膨らんで視神経を圧迫したりすることで起こると言われている。そこまでは知っていたが、久しく忘れていたその現象がこのところ毎日のように現れるようになった。日に2度も出ることがあるので、何となく気持ちが悪い。そこでネットで「視野の中に出る歯車」で検索してみると、正式な症状名が分かった。「閃輝(せんき)暗点」という。さらに気になることが書いてあった。

 中高年になってからの「閃輝暗点」で、その後に偏頭痛を伴わないものは、脳梗塞、脳腫瘍、脳動脈瘤などの深刻な病気が隠れている場合があるので、すぐに医者に行くようにとある。そういえば、その後に頭痛があるようなないような、はっきりしない。高齢になって急にこの症状が現れ出した私は、ちょっと焦ってさらにネットで調べていると、唖然とする情報を見つけ出した。そこには、「閃輝暗点」を引き起こす食べ物として、赤ワイン、チョコレート、チーズが上げられているではないか。まさに私が健康のために摂取している3点セットである。

◆脳神経外科で診てもらう
 それらがなぜ、「閃輝暗点」を引き起こすのかはっきりはしないが、多分脳内血管を広げる働きがあるのだろう。私の好きなコーヒーなども入っている。それにしても偏頭痛はともかく、脳梗塞や脳腫瘍、脳動脈瘤は勘弁して貰いたい。そこで、この2月に強い頭痛が起きた時にMRIを撮って貰った近くの脳神経外科に再び行ってみることにした。まあ、まだ2ヶ月も経っていないのでそんな深刻な病気を見逃していることもないだろうと思いつつ。。

 先生に症状を言うと、「まだMRIを摂って2ヶ月しか経っていないのだから、大丈夫でしょう」という。前の頭痛薬がまだ3日分ほど残っているというと、「では様子を見ましょう」とあっさりしたものだった。こちらは、せめて前の画像を再見して貰いたかったのだが仕方がない。「他に調べることはないですか」と聞くと、「CTは今すぐ撮れますからやりましょうか。後は脳波を取る手もありますが」というので、CTを撮って貰った。結果、「全く心配するところはありません」ということで少し安心して帰って来た。かかった医療費は5千円ほど。

◆あちら立てれば、こちら立たず
 そういうわけで「閃輝暗点」にはまだ暫く悩まされそうだが、取りあえず(何か変化が見えるまで)赤ワインとカマンベールチーズとチョコレートの3点セットは封印することにした。一方で、高血圧と動脈硬化、それに認知症の予防には別の方法で注意することになるのだろうか。
 それはともかくとして思わぬことではあったが、この皮肉な現象を何というのだろうと暫く考えて見た。健康にためにと摂取していたものが、実は別な症状の原因にもなり得ると言うこと。それは、「あちら立てれば、こちら立たず」なのか、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言うべきなのか。身体というものは複雑怪奇なものだという気がするが、歳を取ると言うことは、その身体の経年変化に関して実に意外な現象に遭遇するものだ。まさに「未知との遭遇」である。

断捨離事始め・本棚の整理 18.6.4

 5月末に73歳になった。おぎゃあと生まれた時が終戦の年で、大学出て社会人になってちょうど50年、定年になって15年、週5日のサラリーマン生活を卒業して9年になる。いろいろ思い出深い出来事もあったが、まあまあ元気でこの歳を迎えられたことに素直に感謝したい。と同時に、今度は後期高齢の75歳に向けて、少しずつ終活の準備を始めようかと考えている。75歳になったら本気モードでやるが、あと2年はその準備体操のようなもの。まあ、いつ何が起きてもおかしくない年齢であることは確かなので、検討すべき項目を数え上げてみると、これが結構多い。

◆断捨離事始め。本棚の整理にとりかかる
 例えば、会員費や様々な契約など、忘れずに解約すべきデジタル関連(これをデジタル遺産というらしい)の手続き、夫婦2人の名義になっている財産目録、生命保険など各種保険の把握、いざという時の介護施設や老人施設の知識、終末医療への意思表示、きょうだいや親戚との付き合い、葬式のあり方、寺との付き合い、墓守り、子供たちに言い残すことなどなど。考えると億劫なものばかりで、このままだと75歳になっても何も進んでいないのではないかと今から心配だ。同時に、本棚や資料の整理、家族のアルバムなど、様々なモノの整理(断捨離)もある。  

 そこで、手始めにとりかかったのが本棚の整理である。狭い書斎にある本棚なので油断しているとたちまち一杯になって、単行本の前に横積みした新書や文庫本で背表紙も見えない状態になっている。そこで、今回はおよそ千冊ある本を3分の2に減らすつもりで取り組んだ。後ろに隠れていた単行本を取り出しほこりを払って、いるものといらないものに分けていく。大学時代に読んだ本や、駆け出しのサラリーマン時代に読んだ懐かしい本もある。もう二度と読むことはないと思いつつ、印象に残った本は残して置く。時々背表紙を眺めるだけで記憶が蘇って来ることもあるからだ

◆「お気に入りの本」、歴史もの、科学関係
 ついでに、本棚にラベルを貼り付けて一応ジャンル分けもしてみた。近年の小説類は出来るだけ整理するとして、まず、「お気に入りの本」というのがある。これには岡潔、アンドレマルロー、プルーストの「失われた時を求めて」、ドストエフスキー、サン・テグジュペリ、星野道夫などが並ぶ。また夏目漱石、大江健三郎、北杜夫、藤沢周平、山本周五郎、向田邦子、石井桃子「幻の朱い実」、ヘミングウェーなどの「作家もの」。司馬遼太郎、阿川弘之、吉村昭、陳舜臣、津本陽、海音寺潮五郎、松本清張「昭和史発掘」、塩野七生などの「歴史もの、歴史上の人物伝」なども暇になったら目を通すこともあるかと、一応は残して置くことにした。

 一方で、科学番組ディレクターとしての関心から手にした宇宙、環境、医学、人類史、民俗・探検ものなどの「科学環境関連」も結構な場所を取っている。カール・セーガン、レイ・カーツワイル、ホーキング、今西錦司、梅棹忠夫などの本である。民俗学関連では柳田國男集、沖縄関連本。最近ではこれに、ITやインターネットの未来を予測する本も。また、アガサクリスティ、シャーリー・マックレーン、ピカソなどの伝記もの。アーサー・C・クラークやフォーサイスなどのSFや推理小説。これらは、もういつでも捨てられる状態になっている。

◆組織論、政治家やビジネスマンの本、メディア関係
 組織の中で仕事をしていく必要にかられて読んだ本も結構な量になる。組織論や指導力、参謀学、経営論、危機管理のノウハウなどの本だ。東洋学の安岡正篤の本などは20冊にもなる。実在のビジネスマンを描いた城山三郎や佐高信の本、ジャックウェルチ「わが経営」、アイアコッカなど、こんなのよく読んだよなと言う本。あるいは、台湾の李登輝、中国の毛沢東、朱鎔基。中曽根、瀬島龍三、田中角栄、、後藤田正晴、ニクソン、クリントン、プーチンなどの政治家の自伝や伝記もそれぞれに印象に残っている。これらは息子たちにも必要なさそうなので厳選する。

 また仕事柄、メディア関連の本も。ハルバースタムの「メディアの権力」やピーター・アーネット「戦争特派員」、ニール・シーハン「輝ける嘘」、またCNNやBBCの内幕、巨大メディアの攻防、メディアの興亡、そしてジャーナリズム論などだ。これらは、もう仕事を離れて久しいので不要と言えば不要だが、昔はそういうジャーナリストたちの仕事がまぶしく思えたものだった。これらを捨てるのは次回以降にしたが、本当に捨てるときはどういう気持ちになるのだろうか。

◆仏教関連、原発事故、経済、現代史など最近の関心事
 仏教関連の本も結構多い。昔、組織のトラブルに会って強いストレスを感じていたときに読み始めた本たちである(「ストレスをやり過ごした日々」)。空海の密教関連、禅の本、般若心経の解説本、そして何冊もの法華経関連本から最近読んだ「ごまかさない仏教」まで。これらは人生の最晩年でまた読む機会があるかも知れない。

 そして最後に最近の関心事の本たちである。3.11以降に集めた各種原発事故もの、「メルトダウン・カウントダウン」などのドキュメント、放射能の影響などなど。そして、アベノミクス関連の経済本、新自由主義経済を告発した「ショック・ドクトリン」、ポスト資本主義を考える本など。また、米中関係の本、中国の権力構造。さらに半藤一利の「昭和史」、保坂正康「本土決戦幻想」、トーマス・アレン「日本殲滅」、アーレント「全体主義の起源」をはじめとする戦前や終戦時の歴史もの。そしてジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」などの戦後史。これらには、コラムを書く上でしばしばお世話になったので、当分は残して置くことにする。

◆先人のコラムを集めた本の効用
 ところで、今回ちょっと手が止まった本に、立花隆「同時代を撃つ」、上前淳一郎「現代の視角」、柳田邦男「事実の時代に」、米田奎二など、その時代の時事的コラムを集めた本がある。ジャーナリストばかりでなく天谷直弘、山崎正和、加藤周一などのコラム集もある。それぞれ一流の人がその時代に向き合って書いたコラムである。30年も前のもので確かに時代遅れの面もあるが、コラムを書いている立場からぱらぱらとめくってみると、意外に訴えるものがある。その人たちが、時代に真剣に向き合っていた様子が浮かんでくるのだ。

 これは75歳になったらコラムを卒業し、それまでの15年にわたるコラムを一冊にまとめようと考えている自分にとって、結構響いてくる本たちである。私が75歳になった時に、時の流れの圧倒的力にうちひしがれずに、自分を励ましてくれる事例になるのではないか。それまでこうした本をめくりながら、自分の思考の足跡であるコラムをどうまとめるのがいいのか、あれこれ構想を練ることにしよう。ということで、これらの本たちも暫くは書棚の一角を占めることになった。

◆整理した本たちの3つの行方
 「原色世界の美術」、「現代の美術」などの全集ものや写真集、あるいは文庫本や新書まではまだ手が回らないが、3日ほどかかって整理した300冊ほどの単行本は3つに分けて処分することにした。ほこりまみれの古い本は資源ゴミに、最近の娯楽的な小説などはブックオフに(ブックオフはせいぜい一回、1000円程度にしかならないのでがっかりする)。そして、これはと思う本は市立図書館に寄贈する。近々、あと数回は整理をしなければならないと思うが、こうして本の断捨離をしたお陰で、本棚も少しは見晴らしが良くなった。背表紙も見えるようになった。75歳が過ぎたら、引きずっている過去をもっと捨て去って身軽になりたいと思う。まだしばらく前を向いて生きるために。

大型連休のあとさき 18.5.11

 その時になって何か感慨が湧いてきたら別途書くつもりだが、5月末に73歳になる。超高齢化時代で、元気な先輩たちに比べればまだ若造の部類かも知れないが、それでも、この年齢になると時の流れは速く、(もちろん病気しなければだが)あっという間に80の声を聞くことになりそうだ。何しろ普段は、10日に一回のコラム書き、月に2回程度のゴルフがあるので、その準備や練習で結構忙しい。

 加えてTV番組の企画会議のために週2回の制作会社通い、先輩が主催する月1回の勉強会、2つの団体の月例研究会への参加。夜の集まりや「しみじみとしたお付き合い」も細々ながら続いている。そんな定年後のありふれた日常だが、放っておくと記憶がたちまちどこかに消えてしまう。気になっていた庭木の剪定、元同僚とのゴルフなどもあったが、記憶をつなぎ止めるために連休前後の主な出来事をまとめておきたい。

◆久しぶりのふるさと村
 4月末。およそ半年ぶりに先輩と一緒に「ふるさと村」を訪ねた。茨城県と栃木県の県境にある農村で、受け入れのHさんは、広大な田畑と山林を有する自然農法家だ。地元のF社長が、車で常陸大宮駅に迎えに来てくれて、そのままHさん宅に連れて行ってくれる。納屋を改造した大広間で簡単な昼食を取った後、Fさんの車で県境の山にある「鷲子山上(とりのこさんじょう)神社」に出かけた。ここは、鳥を祀った神社で、境内や遊歩道沿いに沢山のふくろうの彫り物が置いてある。フクロウ(不苦労)の語呂合わせで、幸せを呼ぶパワースポットで人気らしい。古い神社なので、杉の大木が周囲を圧倒していた。

 近くの日帰り温泉(笹の湯)でゆっくりした後、Hさん宅の大広間で囲炉裏を囲みながら、自然食料理を肴に一杯やる。酒は茂木市の銘酒「総誉(そうほまれ)」。すっきりして飲みやすい。いつものように、Hさんから田舎の四方山話を聞いていると、農作業を終えたHさんのご主人から「満月だよ」という声がかかり、私と先輩は外に出た。明かりのない村道の上空に満月が煌々と輝いており、真っ暗な田んぼ一帯に蛙の大合唱が響いていた。しばらくそこで耳を澄ます。ここへ来ると、いつも何だか次元が違う時空間に来たように感じる。

 ドームハウスに泊まった翌朝、いつものように朝食前のウォーキングに出かけた。この日は、朝霧が一帯を包んでいて幻想的な雰囲気である。見渡す限り、田んぼも畑も山も古木も、深い霧に包まれている。朝日がその霧の中を立ち上ってくる。霧の朝を歩きながら、2人は期せずして上田敏訳の詩「春の朝(あした)」(ロバート・ブラウニング)を思いだし、口ずさむ。

 「時は春 日は朝(あした) 朝(あした)は七時 片岡に露みちて 揚雲雀(あげひばり)なのりいで 蝸牛(かたつむり)枝に這ひ 神、そらに知ろしめす すべて世は事も無し」。私は朗読の名手である先輩に頼んで、その詩を朗読して貰う。絶品だ。次第に霧が薄くなり、朝日が差し来る中でそれを聞く。素晴らしい朝の散歩だった。

◆2人の孫娘の成長に驚く
 某日。長男の所の2人の孫娘は、この春に中3と中1になった。それぞれ塾とかクラブ活動で忙しく、こっちにやって来る時間がないというので、連休中の一日、私たち夫婦と長男一家が新宿で会食した。身長が162センチと既に母親を追い抜いている長女に続いて、次女の方もすらりと背が伸びてきた。学校のことや趣味のこと、クラスのこと、進路などを聞いたりしながら、2人の孫娘がのんびり(よく言えばおっとり)育っていることに安心した。
 いつまでも子どもと思っていた長男もいつの間にか43歳。会社では責任あるポジションに就いて、私が管理職になって四苦八苦した頃と同じような年齢になった。日本とフランス両国にまたがる技術開発プロジェクトのリーダーというので日仏を行ったり来たりと、私などの時より余程しんどいかもしれない。2時間あまり、そういう会話をしながら、時間というのはこうして流れていくものかと思った。完全に世代交代した感じがする。一家と別れたあと、私たちは「おばあちゃんの原宿」と言われる巣鴨商店街を散策したりした。

◆連休明けの弘前、津軽旅行
 某日。本当は、桜の時期に行きたかったのだが、人混みだろうというので、連休明けに弘前、青森、津軽地方を旅行した。桜の名所の弘前城公園では、せめて「花筏(いかだ)」でもと思ったが、今年は桜が早く、茶色の残骸が見えるだけ。僅かに、八重桜としだれ桜が見られるのみだった。満開の桜の写真を眺めながら、「見たつもり」になるしかない。それでも、修理中の天守閣に登り、弘前市内の歴史的建造物や「ねぷた村」の見学などもして、その晩は大鰐温泉に宿泊した。高級な旅館ではないが、いま流行の星野リゾートの系列で、夜には津軽三味線の生演奏などの出し物もあり、そのサービス精神も売り物の一つかも知れない。

 食事中、「お誕生日が近いと言うことで、サービスさせて頂きました」と係員が言って、花で飾った桶に地酒とカミさん用のリンゴジュースを乗せて来た。何も言っていないのにと思ったが、チェックイン時に生年月日を書いたのを思い出した。旅館のカメラで乾杯の様子を撮る。デザートには「Happy birthday」のチョコレートもついて来た。食事が終わって部屋に戻ろうとすると、小さなパネルに貼られた先ほどの写真を手渡される。評判の理由が分かった気がした。

◆青森から奧津軽へ。竜飛岬で感じた旅情
 実は、青森はこれまで殆どなじみのない県だった。次の日は、青森市に降りて青函トンネルの開通(昭和63年)に伴って廃止された連絡船の八甲田丸の船内を見学したり、ねぶた館(ミュージアム)を見たりした。目的地の竜飛岬には、新幹線の奧津軽いまべつ駅からホテルの送迎車で30分。道中、小さな港が続く海岸沿いの漁村には殆ど人影がなく、廃屋も目立つ。冬は厳しい風が吹き付けるのか、玄関は二重になっている。そうした寂しい漁村を幾つも通り抜けて、岬の突端に近づくと急勾配の坂道をバスが息を切らせて上って行く。その崖の上にホテル竜飛はあった。部屋から津軽海峡と眼下の漁村が一望できる。

 さっそく、冷たい風の吹き付ける中を岬の突端まで歩いてみる。途中の海が見える場所には、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌碑があり、ボタンを押すと彼女の歌があたり一杯に響いた。急勾配の階段を300段ほど上って灯台のある突端に出る。その日は、快晴で対岸の下北半島、そして北海道もよく見えた。深夜、ホテルの窓から冷たい風を受けながら首を出すと、崖下の港には街灯が寂しく灯ってただ波が打ち寄せている。水平線上に北海道の明かりが点々と瞬いている。時折、一本の光の筋が夜空を横切って巡って来る。回転する灯台の明かりである。久しく忘れていた旅情を感じたひととき。。

◆旅の終わりに悠久の時を感じる
 旅の終わり、時間を見繕って青森市の三内丸山遺跡を見学した。今から5千500年〜4千年前、1500年間続いた縄文遺跡である。1時間コースのボランティアの解説員の話を聞きながら、広大な遺跡の中の住居跡、再現された高床式の家、ゴミ捨て場に残る土器の地層、大人や子どもの墓、そして圧巻の6本柱の見張り台(?)などを見て回った。
 付属のミュージアムには土器や石器の矢尻、板状の土偶、ヒスイなどが並べられている。世界でもまれな縄文文化を築いた先祖が、ここには常時400人ほどの単位で暮らしていたらしい。そのDNAの幾らかでも自分にはつながっているのだろうか。そんなことを思ったものだった。

1歳半の孫に励まされる春 18.3.25

 例年になく寒い冬がようやく終わり、我が家の狭い庭にも春がやって来た。一足早く咲いた沈丁花は盛りを過ぎたが、続いてヒュウガミズキが黄色い花をつけ、それを追うようにレンギョウが派手な黄色の花を咲かせている。庭の柵一杯に枝を這わせているモッコウバラにはびっしりと小さなつぼみがつき、ハナミズキ、ライラック、紫木蓮のつぼみも膨らみつつある。まだ葉芽を出さないイタヤカエデの枝に巻き付いたテッセンにも何十個とつぼみがついて、今年は沢山の花を楽しめそうだ。

 一方で、殆ど手入れをしてこなかったツケが回ったのか、幾つかの木々が勢いを失って枯れたりしている。一頃は大きく枝を広げていたヒュウガミズキが枝の先の方から枯れ始め、今年は3分の1程も切らなければならなかった。イタヤカエデの幹も半分は枯れているし、生け垣のサザンカもちょっと日陰のところは何本か枯れてしまった。梅雨に白い花をつけるヒメシャラも2つある幹の片方は枯れている。本当は根の活性を促すために根切りをしたり、肥料をやったりしないといけないのだが、引っ越ししたての頃の熱意はもう失せてしまい、時の流れに任せてきた。

◆老化のその先が想像できない
 庭の花木にも加齢や寿命があるように、我が身にも時の流れに応じた老化が忍び寄っている。先日、菩提寺のある水戸で墓参りを兼ねて「きょうだい会」を開いたが、今年は、連れ合いを家に残しての参加が2組あった。89歳の叔母は杖をついて参加したが、連れ合いはちょっと具合が悪いとかで欠席。81歳の義兄は少し前に熱を出したので大事を取って欠席した。集まった我々きょうだいは78歳から70歳までの4人だが、食事会での話しの中心は健康問題だった。皆、足腰が痛いだの、何の薬を飲んでいるだの、まあこれも時の流れで仕方がない。

 先日、先輩と一杯やった時、振り返ると70歳半ばでポイント切り替えがあるような気がすると言っていた。それまでの線路から別な線路に乗り換えるポイントのことで、それを上手く切り替えることが肝要。勢いに任せてスピードを緩めないまま行くと脱線してしまう。やはり喜寿(77歳)を過ぎたら無理せず、ペースを落とさないといけないらしい。しかし、こういう先の話になると自分には未経験のことなので、先輩たちの話しを聞いても、なかなか実感を持って感じられない。 

◆時の重さを引きずりながら
 月に1回、86歳の大御所先輩が主催する勉強会に顔を出すが、そこに集まる先輩たちは80歳を超えて元気いっぱい。知的好奇心も旺盛だ。間もなく73歳になる私も、先輩たちのように元気でそうした年齢に達することが出来ればと思うが、一方で、それまでの時間の長さを思って呆然とすることがある。何しろここまでの時間だって結構長かった。時々、夜中に目を覚まして起き出し、古いアルバムを眺めていると、70年という時間が手に余るほどの重さで迫ってくる。この先もまた、新たな記憶を引きずって行くわけで、その重さはますます増えていく。

 それを考えると、我ながら良く前に進んでいるなあと思うが、そんなことを感じるのはその時だけで、気がつくと時間が矢のように過ぎて行く。定年で毎日の通勤をやめてから既に7年になるが、結構忙しい日々を過ごしてきた。その時々の関心事を調べて勉強し、コラムに書くという生活もまだ捨てられない。それは、以前にも書いたが、それが生活のリズムになっているからだ。そのために、幾つかの勉強会に参加し、学会の月例研究会にも顔を出す。この生活を、出来ればあと数年間は続けたいと思って我が身を励ましている。

◆1歳半の孫と競争するつもりで頑張る
 そんなある日、今話題の仮想通貨について知りたいと本を読み出したら、急に頭が割れるように痛くなって来た。風呂に入って一晩寝れば直るだろうと思ったが、翌日も続いている。ひょっとしたら、脳梗塞か脳動脈瘤ではないかと心配になって、近所の脳神経外科を訪ねてMRIまで撮った。そうしたら、脳の方は何ともなく、強い偏頭痛だろうと言う。難しい本を読んで頭が痛くなるとは、情けない話である。もう難しい話を脳に詰め込むのは無理なのかも知れない。コラムに書くことも諦めかけていた時にふと、ある思いが浮かんできた。 

 それは、娘のところのK君の成長ぶりに感心していた時のことである。彼は、現在1歳半。この半年でつかまり立ちから歩き始め、既におもちゃの車や電車を上手に扱い始めている。連続した言葉は発しないが、彼独自の発声と身振りで殆どのことを母親に伝えている。最近は、娘がマイクを持つように手を向けて「はい、どうぞ」というと、不思議な言語で話し始めるようになった。もちろん、意味にはなっていないが、本人はそれが(大人たちが使う)言葉だと思っているらしい。娘がLineで送ってきた動画を何度も見ながら、彼の脳が日々吸収している膨大な情報量を思い、せめて自分も、その何百分の一でもいいから何か新しいことを吸収したいものだと考えた。

 幾ら苦手な分野でも、他人が分かるように書いた本なのだから、73歳の老人だって理解できないことはない筈だ。K君だって頑張って全く新しいことに挑戦しているではないか。そう思って、今回は頭痛に注意しながら諦めかけていた仮想通貨(ビットコイン)の本を2冊も読んでしまった。まあ、こちらの脳は庭の花木のように、そこかしこで枯れかかっているので、分からないところは沢山ある。それでも73歳の老人が1歳半の孫に励まされながら、もう暫く頑張ってみようと思ったわけである。

◆グーグル、ヤフーの検索でトップに
 さてもう一つ。私がコラムを載せているHP「メディアの風」は、去年の8月にサーバーを変えURLが変わってから、グーグル(ヤフーも同じ)で全く検索に引っかからなくなった。以前は、トップに出て来たのに。そこで、ITに強い知人に相談して、対策(ヘッダー部分に「メディアの風」の文字を入れること。グーグルとヤフーに新規開設のお知らせを送ること)をして貰った。しかし、その後もBingなど他の検索サイトではトップに出るのに、大手2社の検索サイトでは全く表示されない。さては、書いている内容が内容なので嫌われたかなどと勘ぐっていた。

 しかし、それが半年経過した一昨日、突然トップに表示されるようになった。今や、グーグルでもヤフーでもBingでもあらゆる検索サイトで、「メディアの風」は、以前のようにトップに表示される。コラムの方は更新するたびに、メールリストでお知らせしているので、特段大きな変化はないが、これによって他の人にも「“メディアの風”で検索して見て」と言える。何より自分のHPがネットの世界で再び小さな場所を占めた気がして嬉しい。肝心のコラムの方は、脳の老化が進んで暗中模索状態だが、それでも花咲き乱れる春を迎えて、めでたし、めでたしの心境である。

久しぶりに絵を描いてみた 18.2.20

 去年、鉛筆で下書きを描いて以来、いざ色を塗ろうと思うとどのような色から始めればいいのか、全く見当がつかず、時間が経つばかりだった。年が明けてから仕上げたいという思いが募ってきて、新しい絵の具(アクリルグアッシュ)や絵皿を購入して絵を描く環境を整え、ようやく色塗りを始めた。およそ2年8ヶ月ぶりの「絵のようなもの」への取り組みである。この間、自分には絵を続ける必然性はあるか、どうせ不本意な失敗作に終わるのではないか、などと思ったりしたが、やっと踏ん切りをつけたわけである。と言っても、私の場合はそんな大層なものではなく、自己流の抽象画で“塗り絵”のようなものだ。

◆試行錯誤しながら色を決めていく
 ただし、今回は以前の絵に比べてかなり構図は複雑になっている。その分、使う色の種類も多くなり、色のバランスやら選択に私なりに苦労した。塗るところが意外に多くて、この先、どんな色使いをすればいいのか、想像すると気が遠くなる思いもした。半分くらい進んだところでデザイナーの息子にLineで送ったら、「色はあまり多くない方がいいよ」と言われたが、それはそれでかなり難しい注文だった。取りあえず極力配色に留意しながら、背景を除いて塗るべきところは全部塗ってみることにした。












 そうすると、どうしても派手派手しい絵になってゴテゴテした感じになってくる。自分が嫌いな絵になってしまいそうだ。そこで、賑やか感を落ち着かせるために、全体に緑と黄色を混ぜた薄い色を上塗りしてみた。そうすると、全体のトーンが一つにまとまり、少し落ち着いた。最終段階で悩んだのは、背景の色使いである。これをどうするか。結果としては一つの色に決めるのではなく、様々な濃度にグラデーションを掛けながら塗ってみた。スマホで何度も撮りながらグラデーションを描き直したり、白い色で塗りつぶして別色に変えてみたり、試行錯誤してやっと完成した。

◆みんな同じように見える?
 先月末から色塗りを始めて、この段階まで20日間あまり。10年ほど前に近所の画材屋で絵の具を買ってきて、少年時代以来の「絵のようなもの」を描いたときは、2時間で終わってしまったが、それに比べれば自分の絵もかなり複雑になったものである。それから2年半前までに、25枚の絵を描いたことになる(「MY ギャラリー」)。もちろん作品としては、自己満足にも達しない暇つぶしのようなものだが、私にとってその時間は無心になれるのが嬉しい。26作目の今回は、それが20日間も続いたわけで、一時はコラムを書くのさえ「上の空」になったくらいである。












 20日に、細部の輪郭をもう少しはっきりさせて、一応の完成。カメラで撮ってトップページ下にアップした。前回は「カンブリアの海を泳ぐ」だったが、今回の絵のタイトルは、絵の感じから「器官(Organ)」としてみた。しかし昨日、スマホで撮った完成間近の絵を友人に見せたら「悪いけど、君の絵はみんな同じように見えるんだけど」と言われてしまった。そういえば、カミさんからも同じようなことを言われた。まあ、以前の絵のモチーフを幾つか取り入れてもいるので仕方がない。曲線なんかも自分の気に入った形があるらしい。自分では毎回、工夫はしているつもりだが、発展性がないと言えばないのかも知れない。完成した絵は、「カンブリアの海を泳ぐ」に代えて居間に掛けた。












◆「クリエイティブな生活」の中の一つ
 さて、こうして20日間ほどかなり集中して色塗りに取り組んだある日、今の自分が入れ込んでいるものの一つに「自己流の抽象画を描く」を上げてもいいのではないか、と思った。まあ、「メディアの風」に文章を書くこともその一つではあるが(その他に2つほどある)、これはこれで自分に合っている道楽かも知れない。以前にも書いたが、時々、自分の「生活の見取り図」を作って自分が何をやりたいのか、点検し振り返る材料として使っている。その中心に書いてあるのが、生活の中核となる指標だが、そこには「クリエイティブな生活」と「健康的な生活」と書いてあるからだ。

 下手な絵には違いないが、自己流の抽象画に取り組むのも、それに照らして矛盾しないことになる。ただし、問題は次をどうするかである。苦労して細部を描きながら、本職の画家はなんてすごい人たちなんだろうと思うときがあったが、彼らは苦労を苦労とも思わず、描いているのが楽しくてしょうがないのだろう。もちろん、そこには自分独自の画風の確立やら、絵の進化をどうするのか、といった難しさもあるのだろうが。今の自分には、次の絵のテーマやモチーフがそう簡単には浮かんでこない。カミさんは、「絵の教室に行って、写生から始めたら」と勧めるが、今更基礎を勉強してもなあ、と言う気持ちが先に立つ。

 そういえば、息子から次のようなメッセージが届いていた。「アーティストのいろんな人の話を聞くと、メソッド(方法論)として、@自分だけの手法が一つだけある。Aそこにいろんな人のいい部分を掛け合わせて発展させていく。というのが、何となく共通してあるんだよね〜」、「自分だけの手法が一番難しいんだけど」。私も、できるだけ展覧会や美術展に行って、彼らの絵心に少しでも触発されて来ようと思う。いずれ老後の道楽には違いないのだから、余り入れ込んで迷路に迷い込まないようにしながら、楽しむことである。

年の初めに思うこと 18.1.12

 2018年の年明け。去年の元日は年末にぎっくり腰になったカミさんを家に残して、私一人の初詣になったが、今年は夫婦で近くのお寺にお参りした。小さい寺だが、戦国武将の武田家の遺児を祀るために立てられた歴史ある寺である。その本堂に上がって本格的な真言密教の護摩焚きを見て、その火で浄められたお札を頂いて帰る。ご本尊は大日如来で、私はここへ越してきて以来、毎月、第三日曜日の早朝に近所の人たちとこのお寺に集まり、住職に合わせて般若心経や観音経などを唱えて来た。読経が終わると、博識で仏教の教義に詳しい住職が作った資料をもとに法話を聞き、短い座禅を組む。

 座禅が終わると、別室に移動してお粥を頂く。時折、常連の参加者から尺八の演奏が披露されたり、書道の先生から床の間の掛け軸についての解説があったりする。参加者は毎回25人ほど。ずっと以前から続いている集まりだが、私の方もかれこれ20年になる。冬(6時半から)の3ヶ月以外は朝6時から。夏などは、鳥の声も涼やかで広い本堂で座っていると、爽快な気分になる。朝の集まりは、朝晩の仏壇に向かって唱える般若心経と合わせて、仏教徒の私(最近、「ごまかさない仏教」という本を読んで、いかに無知かを思い知ったが)にとって一つの生活のリズムになってきた。 

◆水戸市の歴史散歩コースを歩く
 2日は、水戸で高校の同窓会。今年は弟に声をかけて、同窓会の前に2人で偕楽園近くにある菩提寺で墓参りをした。墓に線香と花をあげて、2人で般若心経を唱える。弟と昼食をとった後、同窓会にはまだ時間があるので、私の方は水戸の「歴史散歩」というコースをウォーキングすることにした。まずは、江戸末期(1837年)に水戸藩の9代藩主、徳川斉昭によって創設された藩校「弘道館」を見学。ここは、2代藩主、徳川光圀によって始められた「大日本史」(水戸学のもと)の編纂を継承し、幕末の尊皇攘夷の志士たちに大きな影響を与えたところでもある。

 その展示室には膨大な「大日本史」の原本一式が展示されていた。さらには、最後の将軍、徳川慶喜が戊辰戦争の後に謹慎蟄居していた座敷の間なども見学。しばし幕末の歴史に思いをはせた後、水戸城の跡に作られた我が母校「水戸一高」に向かう。校舎は一新されていて当時の面影は全くない。グラウンドにも行ってみたが、若者たちが運動をしているだけで、55年前に高校生だった私が草地に寝そべって見上げた大木も消え失せていた。毎年正月に、同窓生が集まって校歌を歌い酒を酌み交わしてはいるが、昭和は遠くなりにけりである。

◆今年は、どのように過ごすのか
 3日には娘一家が孫を連れてやって来て、娘はそのまま4泊。6日に長男一家がやって来たので、皆でNYの次男一家とLineで話す。カミさんはすっかり“孫疲れ”していたが、私の方は、孫たちが帰った7日には、6人の孫たちの将来と日本や世界の動向を結びつけて「今年最初のコラム」をアップした。8日には例年通り西新井大師も参拝した。こうして正月の一通りのイベントが済んでホッとしつつ、さて今年一年はどのように過ごすべきかと考える。その手がかりを得るために、ここ数年の年頭の「風の日めくり」を読み返してみた。

 2017年の正月は、「多様で密度の濃い一日を」と書いている。一日一日を無駄にしないという願望だ。前立腺ガンの手術をした一昨年には、術後の「あと5年のバケットリスト」で、死ぬ前にやっておきたいことを列挙している。2015年の「70歳になったら」では、ごく規則正しい生活をして自分と向き合いながら、老いゆく自分の観察をテーマにしたいと書いている。「肉体的な実感を通して宇宙や地球といった悠久なるものにつながる」などと高尚なことを書いているが、これも「棒ほど願って針ほど叶う」で、書いておけば心に残り、いつか針ほどは実現するかも知れない。

◆惰性的な老後の生活を脱する「非日常」の試み
 振り返ると、この一年もコラムと日めくりで52本の記事、番組の企画会議、仲間との勉強会、カナダ取材、美術や音楽の鑑賞など、自分なりに結構クリエイティブに“多様で密度の濃い一日”を送ってきた気がする。なかなか宇宙や地球の悠久にはつながらないが、自分と向き合い、老いゆく自分を見つめても来た。少し付け加えれば、“多様で密度の濃い一日”とは、単に忙しいスケジュールを組むことではない。心意気としては、老後の平凡な日々の繰り返しだけではないコト、つまり「非日常の試み」にどれだけトライ出来るかである。

 老後の生活は、何も工夫していないと、あっという間に日が暮れて一日が終わる。その惰性的な“日常生活”からいかに身を離すか。それが「非日常の試み」だろう。例えば一人旅をする、今年こそ絵を仕上げる、コラムをまとめて自費出版する、ゴルフがもっと上手くなるなど、私には毎年思っていてもなかなか実現しない想いがある。これが出来ればある程度の充足感が得られるだろうが、ここに言う「非日常の試み」とは、そうした想いとは少し違う欲張りなもので、もっと持続的で密度が濃いもののような感じがする。

 それは例えば、平均余命からあと10年を生きるとして、その10年間で一つだけ成し遂げるようなものを探すことかもしれない。それが何なのかは、ずっと分からないままかも知れないし、仮に見つかったとしても見果てぬ夢に終わるかも知れない。しかし、それを探すために惰性的な日常を脱して様々な模索を行う。それを探し続けて行くところに、老後の「非日常」があるのではないか。そんな気がしている。その意味で今年1年もまた、模索と手探りの1年になりそうだ。

◆人生の贈り物としての「しみじみとしたお付き合い」
 年頭に当たってもう一つ。それは今年も一年、家族はもちろんのこと、若い世代から先輩までの方々と「しみじみとしたお付き合い」が出来ればという願いである。単なるお付き合いではない。この歳になると、それは何故か「しみじみとしたお付き合い」という言葉になる。同時にそれは、なぜか「人生の贈り物」という言葉にも結びつく。というのも、この歳でそうした“深いお付き合い”が出来るのは、それが出来るだけの自分がいるということでもある。もしそうなら、それは自分が歳を重ねたことによる「人生の贈り物」ではないだろうか。

 近年の私は、いわゆる「年の功」なのか、定年で社会的に何者でもなくなったせいか、若い時のような「構え(格好つけ)」がなくなった。角も取れてすっかり丸くなった(と思う)。そして、一人の裸の人間として、できるだけユーモアを忘れずに、誰とでも分け隔てなくオープンマインドに接するよう努めるようになった。また、付き合う相手に合わせて、自分が蓄積してきた色んな引き出しを使うようにも心がけている。その結果、無器用な私も、昔に比べてかなり楽しく人と接することが出来るようになった。「人生の贈り物」という所以である。

 この歳になっても嬉しいことに、中2と小6の孫たちともそれなりに深い話が出来るし、若い人たちとも何とかお付き合いが出来ている。もちろん友人や先輩たちとの(温泉行きや勉強会といった)定期的な交流も続いている。こうした「人生の贈り物」を楽しめるのも、人生晩年の限られたひと時のことかも知れない。従って、「しみじみとしたお付き合い」が少しでも長く続けられるためにも、いま暫くは、老いに流されずに自己研鑽(健康でクリエイティブな生活を送ること)に励み、自分の精神をみずみずしく保って行かなければならない。そんなことを思うこの頃である。