「風」の日めくり                       日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記
年明けの我が家に起きた激震 24.1.23

 能登半島の大地震で明けた2024年も1月下旬に入ろうとしている。今年はどのような年になるのだろうか。“残りの人生と向き合うために”と書き綴って来た「風の日めくり」では、今年はどんなことが主なテーマになって行くのだろうか。「メディアの風」を続けると決めた80歳まであと1年ちょっと。なにしろ、75歳を超えてからの心身の変化は急速で、まさに「未知との遭遇」だった。そこで80歳が目前に迫って来た今年も、少しでも時間をせき止めるために、老境の身に起きる様々な「心と身体の変化」を折に触れて見つめて行きたい。

◆我が家を見舞ったコロナ騒動
 さて、年明け早々のことである。我が家にも思わぬ激震が見舞った。元旦の昼は例年のように近所の真言宗のお寺で護摩焚きに参加し、お札と破魔矢を頂いて帰った。翌2日には、水戸市の菩提寺を弟とお参りし、昼食をとりながら私が死んだ後の墓じまいのことなども含め、ゆっくりと積る話をした。その後、4年振りとなった高校の同窓会に参加して帰宅。翌3日には娘が孫二人を連れて里帰りをして我が家も賑やかになった。ここまでは、例年通りの展開だったが、翌朝、起きて来た娘が「熱がある」という。雲行きが一気に怪しくなった。

 聞くと、元旦に向こうの家で親戚一同が集まったらしい。一応、コロナを疑って家にあった研究用の抗原検査キットを試してみたが、陰性。しかし、熱が高くなる一方なので、正月でもやっている発熱外来を探しまくって検査に行かせたら陽性だと言う。悪いことに、健康保険証を持ってこなかったと言うので、薬は後にして家の風邪薬(ルル)を飲ませていた。夕方、旦那さんが保険証を届けにやって来たので、駅で待ち合わせしてそのまま病院に行き、清算してから隣の薬局で薬を手に入れたが、結局、処方されたのは風邪薬と熱さましだった。

◆今度は私がコロナに感染
 その頃、娘の熱は39度になっていた。とりあえず、その熱さましを飲んだが、問題は狭い我が家で、どう隔離するかである。4歳と7歳の孫からママを離すわけにもいかず、1階の隣同志の部屋に寝かせて我々は2階に寝たが、翌朝起きて見たら、2人ともママの布団に潜り込んで寝ていた。解熱剤のお陰か、娘の熱も下がって来たので午前中に旦那さんの車で一家は先方の家に帰って行った。先方は二世帯住宅なので心配だったが、不思議なことに感染したのは娘だけだった。私たちもどうなるかと心配したが、2日後(7日)、今度は私が発熱した。

 あいにくの3連休で病院が見当たらない。熱も一時は39度近くまで行ったが、ルルを飲みながら連休明けを待つことに。困ったのは熱よりも喉の痛さである。痛くて飲み込むのがやっとという感じなので、お粥で何とかしのいでいた。9日、近所のクリニックで検査したら、ばっちり2本線が出て陽性判定。ずっと病院外の寒空に待たされて、処方されたのは葛根湯(風邪薬)とうがい薬だった。熱は殆ど平熱になったが喉の痛みは辛く、喉痛に効くと書いてあるルルに戻り、2日ほどで快方に向かっていることを実感した。やれやれである。

◆引きこもりの中で読んだ本
 不思議なことに、カミさんが無事だったのが何よりの感謝である。その後も暫く咳が続いたので体調を慎重に見極めつつ、翌週後半からは大学の同窓会や赤坂の会社にも出た。コロナは随分と警戒していたのだが、娘からでは仕方がない。むしろ、今回のコロナ騒動で娘や娘の旦那さんと短時間だが密な付き合いが出来て良かったと思っている。ところで、平熱に戻ってからは家に引きこもって何冊かの本を読んだ。それも、年末に本の買い取り業者に送るつもりで段ボールに詰めておいた本である。改めてそれらのページをパラパラめくってみた。

 それは、若い時に読んだカーネギーのビジネス書たち、「空海の風景(上下)」山本周五郎の文庫本、或いは北杜夫の大著「輝ける碧い空の下で(上下)」など、懐かしい本たちである。特に、山本周五郎の短編集は時間つぶしにはうってつけだった。もう一つの収穫は、「回想 山本玄峰」という古本である。山本玄峰は昭和36年に96歳で亡くなった禅僧で、終戦時の首相、鈴木貫太郎などに貴重な助言をした人で知られる。多くの人が語った禅僧の人となりに改めて感心し、むしろ爪の垢を煎じて飲むような老境のお手本として、これは残すことにした。

◆爪の垢を煎じて飲みたい「偉い人の最晩年」
 それにしても、偉い人がいたものである。数奇な運命をたどった人だが、人間の死については、「人間は死んで身体は地下に行ったり、灰になったりするけれども、この心は地下にもいかねば、草葉の陰にもゆかぬ。天地宇宙に満ち満ちて、生きと通しに生きているのじゃ」と言っていたという。「人間の生命は肉体の生死と関わりなく、天地に満ち満ちており、宇宙と共に永遠である」ということは、空海の真言密教にも通じる。彼は90歳を過ぎても、昼間に横になる癖をつけると老衰になると言って、疲れても横になることなく次にように言っていたという。

 「人間は何が楽しいといっても、自分で自分の心の移り変わりを眺めているほど楽しいことはない」。様々なエピソードが語られているが、日常の細やかな心配りの一つ一つに深い精神が宿っているような人だったらしい。暖かくなったら、彼が再興した三島の龍沢寺に行ってみようかと仲間と話しているところである。もう一つ、山本周五郎の「雨の山吹」に「四年間」という短編があった。がんで後4年と宣告された男の話だが、これを読んで内心ぎょっとした。この歳になっても、死期をそんなに明確に決められたらどんな心境になるのかと。

◆もし余命を4年と限られたら
 しかし、本の男と違って、もうすぐ80歳を超えるような私には、(仮に、後4年と余命を区切られても)「その間に何かしなければ」というような目標は見つからない。そこで思うのは、そうなったら、ただ「一日一生」と思いながら、一日一日を大事に積み重ねて行くしかないのではないかということ。コロナ感染の最中などは何も考えられず、一日一日と思って暫く暮らしたが、回復後は、そんな思いも忘れて、あれもこれもしなければなどと思っている。しかし、 いずれ余命が明確に意識されてくると、そんな心境に入って行くのかも知れない

 ということで、激震の年明けも早や1月下旬。連日報道される石川県の被害に心を痛めながら、なお激震が襲いそうな世界の情勢も気にかかる。ウクライナ、中東、そして北朝鮮。火種を取り扱う世界の指導者にも選挙などで、様々な変化が起きそうではある。時代が変化する時に、例えば、チャーチル、ド・ゴール、アデナウアー、周恩来、ケネディ、そして吉田茂などの、優れた指導者がいればいいけれど、時代が悪い方向に傾いていく時には、劣化した指導者しか見当たらなくなるらしい。独裁者や凡庸な指導者しかいない世界はどうなって行くのだろうか。

◆平凡に淡々と「生きて死ぬ意味」を
 今年5月に20年目に入る「メディアの風」では、そんな時代の趨勢を観察しながら、一方で老境にある心身の変化も見つめて行きたい。仏教の先人たちが遺した老いの境地も大いに参考にしながら、老いてより切実になって来る「生きて死ぬ意味」の模索も淡々とやって行く。まずは、健康維持を第一に。メディアを含めた社会とのつながりも大事にしつつ、いま暫く、文章を書いて発信したり、絵らしきものを仕上げたりという、創造的な精神も忘れないようにして行きたい。とまあ、年明けのテーマもごく平凡な、こんなところになるだろうか。

憂(うれ)い多き時代を軽き心で 23.12.27

 2023年も間もなく終わるが、それにしても最近の世情である。自民党の裏金作りや、ダイハツ工業の認定試験の不正などの事件を見ると、日本の屋台骨を支えて来た国会議員、技術者などの「職業人としての矜持」がどこかへ消えてしまったことを痛感する。「矜持を保つ」という言葉の矜持(きょうじ)は、誇り、自負、プライドという意味だが、状況や大勢に安易に流されて、悪いことと知りつつ皆がやっているからと、一人でも毅然として踏みとどまることが出来ない。そんな風潮がはびこって、深刻な不正が横行するのはまさに、日本社会の劣化を物語るものなのだろう。

◆誰も責任を取らない劣化の先に
 あるいは、こんな状況は長く続くはずはないと分かりつつ、借金に借金を重ねるルーズな国家予算も、その無責任さに誰も声を上げない異常な政治状況にみんなが安住しているからに違いない。植田日銀になって国債の金利がほんの僅か上昇しただけで、何兆円もの利払いが増えて、国家予算の4分の1が借金返済で消えていく。政府発行の国債を550兆円も抱え込んでいる日銀でさえも、国債金利が上がればあっという間に債務超過に転落してしまう。そんな赤信号が灯っているのに「赤信号、皆で渡れば怖くない」式の無責任な状況が続いている。

 こうしたアベノミクスの幻想とぬるま湯に浸っているうちに、日本の「失われた30年」の劣化が様々な分野で露わになりつつある。かつてアメリカを追い上げていたGDPでは、今や中国の4分の1、ドイツにも抜かれそうだ。円安の進行で、国民一人当たりのGDPも先進7か国中、最低。世界を席巻した半導体も今や世界シェアの1割、将来的にはゼロになるという(経産省)。経済大国などとはとても言えなくなった現実を直視せず、相変わらず予備費だの、防衛費倍増だのと大盤振る舞いをしている岸田政権も、裏金事件と同じ無責任の構図ではないか。

◆無事に暮らせていることのありがたさ
 こんな昨今だが、一方でコロナが下火になり、街に賑やかさが戻って来たのが僅かな救いだろうか。インバウンドも増え、観光地も一息ついているかも知れない。急速に進化する人工知能(AI)を使ったビジネスやアプリの可能性も見えて来た2023年である。78歳を過ぎた私も、ささやかながら自分なりの「good news」を幾つか拾い上げたいと思う。そう思って振り返れば、今年は幾つか懸案を果たせた1年でもあった。5月に次世代への遺言のような「いま、あなたに伝えたい。」を出版、さらに念願の我が家のファミリーヒストリーもまとめた。

 一方、コロナ前から始まったカミさんの絶不調も、様々な病院や温泉巡りを続けるうちに、猛暑の山を越えた9月になって、いい先生に出会って薬を飲み始めてから、かなり改善されて来た。近所の体操教室にも通えるまでになった。私の方も心臓の精密検査まで体験したが、今のところは大丈夫そうだ。こういう日々を経験してみると、2人で無事に暮らせていることのありがたさが身に沁みて来る。子供たちが外国にいたり、子育てに追われていたりしていて、いざという時に殆ど頼れない状態なので、出来る範囲から「終活」にも身を入れ出した。

◆幸せだった「人生の趣味の季節」
 人生のつかの間のような「平穏無事の幸せ」を噛みしめながら、一日一日を大事に積み重ねて行く。この歳になると、それがいかにも貴重に思えてくるが、それでも漫然とではなく幾つかの目標を持ち、小さな感動にも触れながら暮らして行きたい。今年、7歳(男児)と4歳(女児)の孫とは、毎晩、夕食事にLineをつないで会話をしているが、日々何かに挑戦している彼らに励まされることが多い。2人に「今日は何博士だったの?」と聞くのが日課だが、今日は「恐竜博士」や「お絵描き博士」など、毎日何かにトライしているのが面白い。

 そう思ってふと、様々な趣味に熱中した自分の子供時代を思い出した。今思い出しても、「あれは何と幸せな時代だったのだろう」と思う。黙々と様々な趣味に没頭していた幼い自分を、親たちはどのような目で見ていたのだろうか。その親心を想像すると、余計に幸せ感が湧いてくる。そのことは「人生の趣味の季節」(2006.1.5)にも書いたが、その当時、私は60歳。「できることなら後15年、時間がたつのも忘れて夢中になり、『そろそろもう時間だぞ』と言われたら『ああそうか』と言って死ねるような”楽しみ”を探したい」とも書いた。

◆終末までの新たなフェーズの遊びを
 今思えば、それが今年19年目に入った「メディアの風」での発信だったのだろう。仕事の大変さから解放された時から、毎日、新聞を切り抜き、熟読してテーマに分け、関連の資料を集め、本も読み、コラムにまとめる。そんな作業を重ねつつこれまで490本、400字詰め原稿用紙で4000枚ほどの内容を発信して来た。また、その半分くらいの分量の近況報告も。それも多分、今年で一区切り。あと1年半、80歳まで続けるとしても、今までの惰性では続かないだろう。そのまま尻つぼみになるのか、あるいは別のフェーズが見つかるのかの境目にいる。

 あの時、「あと15年」と書いた時間はとっくに過ぎた。仮に「メディアの風」が終っても、可能ならば、もう暫くは創造的な趣味を持って暮らしたいが、それはどんなものになるのだろう。以前の「趣味の季節」に倣えば、80歳過ぎから死ぬまでの「遊び」である。それが現在の課題だろうか。とりあえず、コラムの方はより読書を取り入れたりして、新たなフェーズを模索したい。一方で中途半端になっている「絵らしきもの」の完成もある。あるいは、通っている会社で実験するAI(人工知能)を使った新たなコンテンツの可能性も模索してみたい。

◆憂(うれ)い多き時代を心楽しく過ごす
 今年後半、思いがけない難題が持ち上がって、私たち2人は精神的にも随分と辛い思いもした。それに向き合う中で、解決に向かう道も見えて来たし、様々な気づきにも触れることが出来た。まだ完全解決とはいかないが、現実とはそういうものだろう。そういう事態に投げ込まれると、自分というものを、自分の方からだけ近視眼的に見ることの限界も知った。なかなか難しいが、少し自分を離れてみる「我(が)に囚われない見方」も必要になって来るのだろう。それは、いよいよ近づいて来た自分の死に対してさえも当てはまるのではないだろうか。

 このことを、今の社会事象に当てはめると、憤慨したり一喜一憂したりするだけではなく、少し距離を置いて見る余裕も必要なのではないかと思う。それでなくとも、今の世の中は辛いことだらけなので、そんな「心の軽さ」を身につけてみたい。そのためにも、もう少し、先人の知恵も借りたいところだが、昔の人(例えば62歳で没した空海)は今で言えば若死にで、80歳を過ぎた心境を語ってくれることは稀である。それでも何とか、この憂い多き時代を心楽しく過ごすことを模索して行きたい。2024年が皆さまにとって良い年でありますように。

猛暑のトラウマを乗り越えて 23.10.28

 10月に入って、さすがに秋めいて涼しくなった。先日は、夏を乗り切って少し状態が良くなったカミさんの療養を兼ねて箱根の保養所に一泊したが、まだ紅葉はわずかだった。朝晩涼しくなったとはいえ、身体のどこかにこの夏の猛暑の疲れが澱(おり)のように残っていて、すっきりしない。今年の夏は、近くの冷房が効いた市民会館の喫茶室がなければとてもやり過ごすことは出来なかった。箱根も良かったが、来年の夏のことを考えると、素直にこの秋の深まりを楽しむことが出来ない。というわけで、まだ猛暑のトラウマをどこかに抱えながらの近況報告である。

◆6回目のワクチンを打ってからの会合
 娘からはさんざん「ワクチンやめろ」の注意が届いていたが、10月初め、新タイプ(XBB)のコロナワクチンを受けた。娘が送って来るネット情報では、ワクチンを接種した後、かなりの時間が経過してから、心筋炎やギランバレー症候群などを引き起こす深刻な「ワクチン後遺症」が報告されていている。それでも私の方は、ワクチンを打たずにコロナにかかる確率×重症化する確率×5人に1人とも言われる「コロナ後遺症」の確率と、ワクチンを打って「ワクチン後遺症」になる確率とを天秤にかけて、悩んだ末に受けることにしたわけである。

 理由の一つに、10月に幾つかの夜の会合が予定されていたことがある。コロナのために4年間ぶりに開かれる古巣のOB会。30年以上前に亡くなった先輩の娘さんを囲む集まり。友人との会食など。コロナで夜の会食は極力控えていただけに、やはりワクチンの助けが欲しかった。それらの会食を終えてみると、久しぶりに自分の存在を人々との関係の中で確認する喜びを持てた気がする。それだけ、コロナで強いられてきた自粛生活で人恋しさを感じていたのかも知れない。もっとも、それで今の自分が抱えている何かが変わるものではないのだが。

◆人生の最終盤をどう生き、どう死ぬか
 残り時間が少ない自分にとって、目前に迫って来た人生の最終盤をどう生き、どう死ぬかというのは、かなりのウェイトを占める関心事である。それは年齢の違う人とはなかなか分かち合えない類のものかも知れない。先日、自主映画監督のMさんが撮影している、98歳の女性の編集段階の記録映像を見せて貰った。ドイツ語で夢を見るほどの知的な人で、パソコンで文章も書けばLineもする。ストレッチに通ってしなやかにダンスも踊る。そうした彼女も、自分の死について狂わしいほどの葛藤を抱えている。その複雑さが伝わって来る興味深い映像だった。

 彼女が抱えている葛藤とは、要約すれば以下のようなものだろう。一つは死に対するあらがい。自分にはまだ生きるエネルギーが残っていて、それが残っている間は生き続けるしかないが、これはこれでしんどい。二つ目は、自分の人生への納得のつけ方である。自分の人生はこれで良かったのか。激動の時代の中で何度も死を潜り抜けて来た彼女だけに、人間関係も含めた自分の人生を問い続ける。三つ目は、最後に苦しんで死ぬのは嫌だ。安らかに死にたいという願いである。それが終末医療への関心につながって行く。人生100年時代の問いかけが重い。

人の魂は死んだらどうなるのだろうか?
 死と向き合う98歳がいる一方で、今、世界では戦争で大人子供を問わず、夥しい死が発生している。特に幼い子供たちの死を見ると、最終的には誰にでも訪れる死というものが、その訪れ方において極めて不平等だと痛感せざるを得ない。なぜ、こんな不平等があるのか。彼らはなぜ死ななければならないのか。本当に答えが見つからない。また、非常時の死ばかりではなく、日常的な死も様々なことを考えさせる。先日、身近な人のお葬式があった。亡くなった姿を見、お骨を拾って骨壺に入れる。それは、身近になって来た死を改めて実感する時でもあった。

 死んだ時点で人はいわゆる魂が抜けて物体になる。残された物体にはもう魂は宿っていない。では、魂はどこへ行くのかと言えば、それはよくわからない。人が生きている間は、その魂はどこにあるかと言えば、脳細胞の活動の中に存在している筈だ。死ぬと、その脳細胞も物体になってしまうので、脳細胞の活動によって保たれていた魂も機能停止になり、その存在を消す。それは、再び蘇ることはない。そのようにして人間は死ぬ。では、人間は死ぬことによって単なる物体になって、人間としての意識は全く無になるのだろうか。多分そうなのだろう。

◆人は死んで無意識の世界に還って行く
 世の宗教は、あの世とか、来世とか、復活とかの「物語」を用意することによって、死すべき人間の魂を救おうとしているが、仏教に親近感を持つ私としては、(今のところ)自分の死について以下のように考えている。人間というのは、宇宙全体を包み混む大きな時間の流れの中に、ポコッと浮かび上がった泡のような存在で、時間とともにゆっくり流れて行き、やがて時が来ればその流れの中にふっと消えて行く。人はその大きな宇宙の無意識の中から泡のように生じて、やがて死ぬことによって、その泡が消えるように広大な無意識の中に還って行く。

 では、人が死んで帰って行く広大な無意識とは何か。それを仏教では「仏心(ダルマ)」と呼ぶ。宇宙すべてを成り立たせ、生き物を含め神羅万象すべてのものに命を吹き込む「人知を超えた真理」である。それが大日如来に体現される「仏心」であり、宇宙全体を包むと同時に、それと同質のものが私たち自身の中にもあるとする。人は死んで、その広大な「仏心」の中に還って行く。ただし、それは単なる無意識ではなく、それに仏教の先人たち(例えば、弘法大師)はある思いを託した。限りない慈悲の心(大慈悲心)と喜びの心(大喜心)で満ちた無意識である私の仏教探求)。

◆「面白くて死んでいる暇はないよ」という先輩
 人がどのような死に方をするかは、それぞれの定めかも知れないが、死ねば誰でもそういう慈悲の心と喜びの心の無意識の世界(仏心)に還って行く。そう思うことによって、先人たちは死の恐怖を幾らかでも和らげようとしたのかも知れない。もちろん、こうしたことは残された側が死者を弔うことや、亡き人を想うこととは別の問題ではあるが、歳を取ってくれば、こういうこともかなりの関心事になって来る。まあ、それでも生ある限りは、精いっぱい生きるということに変わりはないのだが。

 古巣のOB会では、コロナの3年の間に亡くなった人の名前が読み上げられたが、その多さに愕然とする思いだった。あの人も、この人も、という感じである。一方で、先日は今年97歳になる大先輩が36年も前からプロデュースしているシンポジウムもあった。年に1回の「国民の健康会議」というシンポジウムだが、大先輩のかくしゃくとした司会振りに感嘆した。いろいろ困難があっても「面白くて死んでいる暇はないよ」という先輩。今年は「少子化問題を考える」がテーマだったが、人生100年時代をそんな風に生きている人もいる。

◆また新たなフェーズの楽しみを
 また昨日は、91歳の先輩が講義するリモートの勉強会だった。毎月、膨大な資料と最新情報に当たりながら、数十枚の詳細な図表を用意して世界情勢を解説してくれる。先輩を囲む生徒たちも先輩ばかりで、私が一番若いくらいだ。そうした大先輩を見ていると、78歳の自分が年寄りなのか、まだ若いのか分からなくなる。見かけ上はゴルフも出来て、何とか健康を保っているように見えるが、その健康も5種類ほどの常備薬で微調整しながら保っている状態。別の先輩に言わせれば「そんなの薬にうちに入らないよ」と言われるが、そうかも知れない。

 そんなわけで、もちろん健康維持の努力は欠かせないが、一方で、現代医学の助けを受けていろいろ微調整しながら、今しばらくは前を向いて歩いていきたい。猛暑の夏も乗り切ったことだし、あまり年齢を気にすることなく、また新たなフェーズの楽しみを見つけて行ければと考えている。

起きたら、その時に考える 23.9.7

 前回、我が家のファミリーヒストリー」の完成を報告してから1か月が過ぎた。この間、連日の猛暑にほとほと疲れる毎日で、自律神経系と思われるカミさんの身体のあちこちが痛い症状も悪くなる一方。北茨城の温泉旅館での療養も期待外れで、早く涼しくなって欲しいとひたすら願うひと月が、大変長く感じられた。そんな猛暑の日には、例によって近所の市民会館に涼みに行って、自販機のコーヒーを飲みながら本を読んだり、ソファーに座って窓の外の雲をぼんやり眺めたりしている。それがストレスをやり過ごす、大事な日課になった。
  『わが心遠くに置きて涼みおり』 

◆猛暑続きの日々と写真俳句
 そういう訳で、最近FBに上げた拙い「写真俳句」の幾つかを披露しながら、この1か月の近況をつづってみたい。まずは先日、日没時になるとさすがに少しは涼しくなったので、久しぶりにウォーキングに出かけた時のこと。いつもの遊水地公園の空一杯に、昼間の余熱を感じさせるようなギラギラした夕焼けが広がっていた。この夏は思わず、あなたの平熱は何度なの?と地球に聞きたくなるような暑さだったが、それもようやく逃れるかと思うと、ちょっと感慨深いものがある。早く本当の秋が来て欲しいとの思いも込めて。
  『この地球(ほし)に平熱を聞く夏の果』

 某日。この夏は久しぶりに「絵らしきもの」を完成させたいと意気込んでいたが、暑さのせいもあって、鉛筆の下絵段階から、色付けへと進む気力が一向に湧かない。そんな時にふと、この下絵をAIに色塗りさせたらどうなるかと、専門家のIさんに相談してみた。やってみると言うので、私の下絵と色のお手本にしたい絵(6月に抽象絵画展で見たもの)を添付すると、たちまちAIが色付けした作品を何枚も送ってくれた。出来は(?)だが、それなりに真面目に色塗りしている。涼しくなったらAIに負けないものを完成させたいと励まされた。(左がAI作、右が私の下絵) 
  『AIに絵心を乞う残暑かな』 







◆「メディアの風」をいつまで続けるかの皮算用
 某日。5月末に出版した拙著「いま、あなたに伝えたい。」について、東京新聞の読書欄の担当者を紹介してくれる方がいて、本を送ったら「寸評」欄に短いながら心のこもった記事を載せてくれた。
 「元NHKディレクターが、この18年ネットで書き継いだコラムから55本を再構成。「脱真実」の時代にあって、事実の羅列だけでなく、事実の向こう側にある真実を探し出し言葉にすることが必要である―という悲痛な訴えが胸を打つ。孫がいる世代だが日々のニュースに食らいつく熱情に圧倒される」
  『炎昼に嬉し短き記事一つ』
 嬉しくなって、毎日新聞の読書欄の担当者にも送ってみたが、こちらは梨のつぶて。

 ネットで調べてみると拙著を市立図書館の蔵書に入れてくれたところもあったりして、この記事のおかげかも知れない。そういうこともあって、この先の「メディアの風」での発信をどうするかも考えてみた。今の結論は、とりあえず開始から20年、80歳の区切りに向けて、2025年の5月までは頑張ってみる、そこで店じまい。そうなれば、20年よく頑張ったと自分を褒めてもいいのではないか。問題は、あと1年8か月、心身の健康を保ちながら続けて行けるかどうかだが、年齢を重ねてくると、それがそう簡単なことではないと分かって来る。

◆起きたら、その時に考える
 なにしろ今は何一つ、いいニュースがない時代である。急進する地球温暖化、激甚災害、長引くウクライナ戦争、日本も巻き込む米中の覇権争い、防衛費増で莫大な借金を重ねる政治、格差拡大による悲惨な事件や治安悪化などなど。昼間のワイドショーなどでそういうニュースのシャワーを浴びながら、猛暑とカミさんの不調に付き合うストレスも、考えてみれば結構なものだ。歳をとって、明日、何が起きてもおかしくない状況にある私たちは、し出したらきりがないほどの心配の中にいて、それらを互いに分かち合いながら暮らしている。

 同時に、この先5年、10年を思えば、きょうだい、そして自分たちも含めて幾つもの病いや辛い別れを経験することになるだろう。これは避け得ない時の流れで、それが人生の最終盤というものだろう。ただし、それを思うと、若い時には感じなかったような妙な切迫感を持つことがある。死ぬまでには、終活を含めやるべきことが山積していて、「備えあれば憂いなし」などと言われても、その量にげんなりする。最近では、そんなに周到に準備しておくべきことなのだろうか、そんなことに精出していたら、残りの人生がもったいないとも思う。

 そこで、この先起こりうる現実は現実として受け止めることにして、「起きたら、その時に考える」程度でもいいのではないかと思うようになった。残された家族が困らないように大雑把なことはしておくにしても、あとはのんびりやりたいことをやって行く。状況が変わったら、その都度考えて行く。私たちの老後は、それこそ何が起こるか分からない。それを先だって考えることは疲れるばかり。まあ、そんなことでとにかく出来る限り健康を保ち、身体のあちこちを修繕しながら、ヨロヨロと生きて行く。猛暑に青息吐息になりながら、そう考えた。

◆「天皇原理主義」という異胎
 最後にもう一つ。今年の敗戦記念日には、先の戦争を回避したかもしれない「歴史のif」をコラムに書いたが、その後、その歴史のifを最もよく説明し、目から鱗の思いをした本に出会った。友人から勧められた戦史研究家の山崎雅弘の「天皇機関説事件」、「日本会議、戦前回帰への願望」、「戦前回帰、大日本病の再発」の3冊である。特に、天皇機関説事件の方は、1935年前後の日本の大きな転換点を提起した本である。日本は、この事件を契機に、過去の日本歴史にもないような異常な「天皇原理主義」に突き進み、独りよがりの論理で成算のない戦争に突入した。

 この異常な「天皇原理主義」は、敗戦の後でも清算されることなく、戦後日本の底流に生き続け、日本会議に属する国会議員、そして安倍政権の時に大きく息を吹き返す。「天皇原理主義」とは、私が敢えてそう呼んだことだが、昭和天皇さえも迷惑だった天皇絶対の思想で、今のイスラム原理主義と変わらない。それは、かつて司馬遼太郎が、戦前の日本は、それまでの日本の歴史にも類を見ないような異質な時代になったと言う意味で「異胎の時代」と呼んだことにも呼応する。次回は、そんなことが書けるかどうか。以下は、敗戦忌の写真俳句である。
  『その道をどう辿りしか敗戦忌』

命のつながりを感じる夏に 23.8.6

 猛暑が続く日本列島。その中でも、わが越谷市はいつの間にか猛暑の代名詞的な町になってしまった。連日37、8度。焼けるような日差しが続き、夜も一晩中エアコンをつけないと寝られない。しかも、この猛暑がこれからの地球沸騰化の幕開けだと思うと、ストレスもいっそう強くなる。そんな猛暑に苦しみながらも、この夏は一つの記憶に残る作業に取り組んだ。長らく懸案だった「我が家のファミリーヒストリー」をまとめることである。仕上げてみると、それはお盆の夏に相応しく、ご先祖から未来へ続く「命のつながり」を強く感じる作業でもあった。

◆猛暑の中で「我が家のファミリーヒストリー」を
 もう何年も前から終活の一つとして、「我が家の由来」をまとめたいと思って来た。これまで子供たちに何も伝えて来なかったからである。それが、心臓の検査でひとまずOKが出たので、今度こそはと思って取り掛かったのは6月半ば。手元にある家系図や資料、ネット情報などもかき集め、「由来」の概略を書いた7月のお盆(茨城県は新暦のお盆)に、実家に住む弟夫婦と水戸の菩提寺をお参りした。お墓でお経をあげた後、半ば完成した「由来」を弟に見せ、実家に残ったアルバムから、そこに挿入すべき古い写真を選んで送って貰うことにした。

 まもなく弟が接写した写真が、メールで何枚も届いた。それは、戦前の祖父母の写真、父の幼少期の写真、祖父母とともに若い頃の父が営んだ呉服店の様子、叔父叔母が並んだ家族写真など。そして、戦後の貧しい暮らしが伝わる家族写真、私たちきょうだいの幼い頃の写真などである。加えて私の方も、先祖と思われる同姓一族の鎌倉から江戸に至る由来を記した碑文の写し、さらに、江戸時代初期に始まった水戸金工(刀の鍔などの工芸)の元祖で、直接の先祖である「軍司功阿弥」の名が記された水戸偕楽園の石碑の写真(先日撮って来た)などを揃えた。

◆命のつながりのありがたさを実感
 こうして集めた材料を基に、「鎌倉、室町から江戸につながる、一族の系譜」、「呉服商を始めた先祖と祖父母について(写真)」、「祖母と母の出の福島県須賀川市の〇〇家について」、「大学卒業後、家業に入った父」、「いとこ同士で結婚した父と母」、「太平洋戦争で須賀川市に疎開した一家」、「私の誕生と戦後の貧乏生活」、「父と母の思い出」、「きょうだいと私の経歴」、「私の結婚と妻の家族について」、「幼児期の子供たちの病気の思い出」、「その他、伝えておきたいこと」などの各章を書き上げた。そして本文とは別に、碑文や家系図などを入れた資料編も作った。 

 いくら系図がさかのぼると言っても、近世以降は庶民的なもので、むしろ子供たちに伝えたかったのは、祖先が一族力を合わせて苦難を乗り越え、或いはつつましい暮らしの中でも子供たちに教育を施し、頑張って命を今につないでくれたありがたさである。特に戦前には、多くの子どもが生まれてすぐに亡くなったり、せっかく大学まで行ったのに、死病と言われた結核で若死にしたりしている。そうした中でつながって来た、命の貴重さである。また、その死別の悲しみを経て、曾祖母も祖母も熱心な仏教徒になり、それは家族の文化として今に続いている。

 昔の写真を眺めながら、私が聞いていた戦争中の疎開の苦労、呉服店の空襲被災、私の幼少期の記憶などをたどって由来を書いているうちに、会うこともなかった先祖が味わった悲しみや苦労を思うと同時に、先祖への親しみや感謝の気持ちが湧いて来た。「由来」の最後に、3人の子供たちも記憶にない幼少期の病気について書いたのも、こうしたことが代々繰り返されて来たからこそ、今の自分たちがいるということを知ってもらうためだった。命が時を超えてつながって行くことは、考えてみれば奇跡的なことで、そんなことを強く感じた夏だった。

◆ファイル化して3人分を作成
 完成した「我が家のファミリーストーリー」は、子供たちに最低限のことを伝えるために作ったので、本文20ページ(400字原稿用紙で150枚ほど)、資料編15ページのコンパクトなものである。それをプリントしてファイルに入れ、子供たち用に3冊作る。それを直接手渡したいというのが、私の思いである。そして、それが完成して間もなくの7月末、娘と孫2人が4年ぶりに開催される越谷市の花火大会を見に泊まりに来た。厳しい猛暑なので外で遊ぶわけにもいかず、午前中は近所の市民会館に涼みに行く。私が毎日お参りしているお寺にお参りし、木陰を拾いながら行く。

 4歳(女児)と7歳(男児)の孫は、たまたま仏教系の幼稚園だったので、お経の「舎利礼文」を唱えることが出来る。本堂の前で、一緒に元気な声で唱えるのが何となく嬉しい。越谷市の花火大会は、我が家の目の前で上がる。5千発の花火に孫たちも大喜びで、後日、絵日記を送って来た。そして帰る日、パパが迎えに来たので、「ファミリーヒストリー」を手渡した。彼は感激して、これに自分ちの由来を付け加えれば子供たちの宝になると言ってくれた。大きくなった時、孫たちは私が作ったファイルをどんな気持ちで読んでくれるだろうか。

◆映画「君たちはどう生きるか」を観た
 某日。話題の映画「君たちはどう生きるか」を観た。いろいろ評価が分かれているようだが、私は圧倒されて観た。時代は戦前。空襲で母を失った主人公の少年が、私たちと同じように田舎に疎開し、死んだ母親、行方不明になった身ごもった母の妹を探すために「異界」に入って行く。道ずれの奇想天外なサギ男と、目くるめくファンタジー的冒険を重ねて行く。この世ではない異界は、宮崎監督のファンタジー力を見せつける圧倒的多彩さと絵画的魅力に満ちている。その映画を見ながら私は、どこかで「命のつながり」という隠れたテーマを感じていた。

 戦時中という時代背景がそう感じさせたのかもしれない。運命にひるまず、見失った命を救い出す冒険を重ねるうちに、主人公は勇気を持った少年へと変貌していく。この映画には、監督が同名の原作から触発された、勇気をもって生きること、大切な命をつないでいくこと、そして、現在の世界に対する警鐘が隠されているように思った。異界で人口が増えすぎた独裁国家、それによって不安定化する世界。そして、安定が崩れた時の凄まじい世界崩壊。主人公たちは、辛うじてその異界から脱出するが、現在の私たちもまた、その不安定さの只中にいる。

◆まだまだやるべきことが沢山の終活
 某日。終活の一つと思った「我が家のファミリーヒストリー」だったが、まだまだ、やるべきことは沢山あるということを思い知らされた。銀行主催の「介護と相続」のセミナーが市民会館であった。要介護の段階の認定、介護施設の種類と費用、後見人の選定など。さらに相続の問題など、気が遠くなる位やるべきことがあって、今の時代は、死んでいくのも大変なことだと痛感した。私も終活へ向けてやるべきことをリストアップはしているが、そんなことでは追いつかない。もう少し涼しくなったら、本や資料の整理だけでも始めなければと思っている。 

 それまで、この猛暑の日々をいかに乗り越えるかである。出かける予定がない日は、午後の昼寝の後に自転車で5分の市民会館に行き、2時間ほど過す。2階の殆ど誰もいない喫茶コーナーで自販機のコーヒーを飲みながら、切り抜いた新聞や本を読み、飽きると5階までの階段を2往復する。各階の長い廊下は往復すると200歩ほどになるので、それを繰り返しながら降りて来る。少しでも運動になればという涙ぐましい努力だけれど、冷房が効いた会館はもっと利用されてもいいのにと思う。会館のスタッフも会えば「こんにちは」と挨拶してくれる。

 それにしてもこの猛暑。人間が招いた自業自得ではあるけれど、この暑さを一時的な気象の異常のせいにする解説が多すぎる。もっと、温暖化防止のための緊急行動を訴えるような論調があってもいいのにと歯がゆく思うと同時に、個人としてはいかにエネルギーと資源を無駄にしないか、あるいはどう酷暑に適応するかの知恵を磨かなければならないと思っている。この時を生き抜くために。

頂いた猶予を大事にしながら 23.7.2

前回の近況報告(6月2日)に書いたように、心臓の不整脈から始まった負荷検査で狭心症の疑いありというので、造影剤を使った心臓のCT撮影までやった。結果次第では、心臓の血管にステントを入れる手術も覚悟したが、後日、その心配はないとの診断に。ステントを入れるとなると、血液サラサラの薬を飲み続けなければならなくなるので、嫌だなあと思っていたが、これは素直に嬉しかった。そこで、しばらく頂いた猶予を大事にしながら、残された時間にやるべきことをやろうと思って、早速とりかかったのが「我が家の由来」である。

◆「我が家の由来」に取り掛かる
 これまで何も知らないで来た子供たちに、必要最低限の情報を伝えておきたいという思いだが、書き始めるとこれが意外に面白い。これまで親戚などから貰っていたわが家系に関する幾つかの資料(家系図:写真)や碑文、ネット情報、明治期に実業家・政治家でならした母方の曽祖父の資料、或いは95歳で存命の叔母に聞くなどして、少しずつ家に関する情報が埋まって行く。それは、ある種ジクソーパズルを完成させるような作業でもあるが、これによって、平安、鎌倉時代からの伝承や、(茨城県における)私の家系に直結する江戸時代初期からの流れが見えて来た。

 その昔、何故、福島県須賀川市から私の祖母が水戸市へに嫁いで来たのかも、おぼろげながら見えて来た。江戸から明治、大正、昭和、そして戦中、戦後の我が家系に関わる人たちが、どのように生きたのかにも思いを馳せながら、一個一個のピースを埋めて行く。その作業は、何となく歴史の研究にも似ているようでもある。それぞれの親族の寺や墓の情報なども付け加える。そうしてまとめた文章の間に、実家に残った写真も取り込みながら、プリントして3人の子たちに残したいというのが、今の計画である。出来れば資料編も付け加えたい。

◆「絵心を探しに夏の美術展」
 そういう訳で、次のコラムは「民主国家日本の異常な国会」というタイトルだけは決まっているのだが、なかなか手が回らない。暫くの猶予を頂いた嬉しさに、もう3年も描いていない「絵らしきもの」を始めたい欲求も湧いてきた。ところが、実際となると「絵心」がどこかに消えてしまったのか、さっぱり。そこで、久しぶりに現代抽象絵画を特集した美術展に出かけてみた。日本橋のアーティゾン美術館。抽象画の巨匠から新進気鋭の画家たちまで、たっぷりと鑑賞して来た。一部は撮影可能なのでスマホにも。この夏には手を付けたいと思っている。

 一方で、先日のサイエンス映像学会では、抽象絵画の可能性について驚かされることがあった。画像生成AIやGTPを使いこなしている講師の実演があったが、これまで一か月かかっていたプロモーションビデオ制作が、幾つかのAIを駆使すると構成台本、ナレーション、画像作成まで簡単に出来てしまう。中でも、様々なキーワードを入れるだけで画像生成AIが、斬新なイメージ映像を作るのに驚いた。AIは人間の抽象画の経験値など実にやすやすと飛び越えて、これまでにないイメージを吐き出してくる。これは人間側のアートにも刺激を与えるかも知れない。

 そんな私の感想に対して研究会では、私のこれまでの「絵らしきもの」をAIに学習させ、それに幾つかのキーワードを与えて作ってみましょうか、という話も出た。それを真似したらどんな抽象画になるのだろうか。宙にさまよっている私の「絵心」を掴むヒントが生まれれば、これはこれで面白いかと思っている。
  『絵心を探しに夏の美術展』    『AIに絵心を聞く半夏雨

◆出版とコロナの合間の人々との出会い
 一方で、拙著「いま、あなたに伝えたい。」に関しては、幾つか嬉しい動きもあった。本を手にした方から、「強靭な思考の結果として生み出された論考は、いずれも説得力に満ちたもので敬服するばかりです」といった過分な言葉(葉書)を頂いたり、定年後、お世話になっているTV制作会社の社長が社員全員に読ませたいと、何十冊か買い上げて配ってくれたりした。若い世代、それもメディアを目指す人たちには是非読んで欲しいと思っていただけに、若手から「ジャーナリズムを考える上で、大変参考になった」という感想を貰ったことも嬉しかった。

 最近では、友人の働きかけで、古巣の放送局内の書店に平積みにもなったというので、後輩たちに少しは伝わればと願っているが、宣伝もない小規模の出版なのでどれ程になるかは全く分からない。まあ、息長く待つしかないのだろう。出版を期に幾つかの会食もあった。コロナの3年間、ゆっくり話す機会を奪われて来ただけに、このチャンスを生かして会えなかった人に会いたいという気持ちが湧いてくるが、コロナが徐々に増えつつある今、無警戒にスケジュールを詰める訳にもいかず、日にちを開けながらにならざるを得ない。厄介なことである。

◆上諏訪温泉から諏訪大社巡り
 近況報告としてもう一つ。先日、相変わらず絶不調のカミさんの療養を兼ねて諏訪湖湖畔の上諏訪温泉に行って来た。おもてなしを絵に描いたような接客に比べ、創作和懐石と呼ぶ料理が、チマチマとしていてイマイチだったのが残念だったが、それに余りあるサービスがあった。晴れた翌日に、ホテルが用意した無料の小型バスで諏訪大社の4社を巡る観光が出来たことだった。一つくらいはタクシーで行きたいと思っていただけに、これは収穫だった。案内付きで諏訪大社上社の本宮、前宮、諏訪大社下社の春宮、秋宮の4社を巡る4時間コース。

 それぞれの宮には、大祭の木落としで坂を滑り落ちた御柱などが4本ずつ建てられている。高さは17メートル。そのうち、手で触れられる御柱には手で触れながら願い事をする。山々に囲まれた諏訪地方は、その昔から神々の故郷として、大社を中心に数多くの神事が行われて来たという。全国の神々が出雲に出かける旧暦10月の「神なし月」にあっても、諏訪は神様が行かなくてもいい「神あり月」なのだそうだ。諏訪大社系は全国に2万もあるとされるが、その中心地の諏訪には、話を聞くうちに、神代の時代がしのばれるような風景が広がっていた。

◆残された時間を横目で見ながら
 そういうわけで、暫く頂いた猶予の嬉しさに、幾つかのことに手を広げる余裕も生まれたひと月だった。その中で、「メディアの風」のコラムを発信する地道な作業をどう持続するのか。頂いた葉書にあった「時代と問題意識を共有する先輩の益々のご健筆をお祈りします」というメッセージに応えて行けるのかどうか。悩みも深いが、こちらの方も急ぐことなくぼちぼちと、残された時間を横目で見ながらやって行く事にしたい(次回は、上記のタイトルで書きます)。

78歳を迎えて幾つか想うこと 23.6.2

 5月23日に無事、78歳を迎えた。去年、喜寿を迎えた時は、それなりにおめでたい気がしたが、この78歳という年齢をどう捉えるべきかについては少し戸惑う。身体の方にいろいろと故障を抱えながら、80歳(傘寿)までの2年間をどう生きるかということか。この2年間を無事に乗り切れるか。あるいは、乗り切れたとして、この2年間に何をなすべきなのか。漠然としていて考えがまとまらないが、一方で、誕生日前後には、様々なことを感じさせる幾つかの出来事があった。こうした出来事を書きながら、78歳のいま想うことを書いてみたい。

◆若い世代に伝えたい重要テーマの出版
 最初に書かなければならないとすれば、本の出版(5/26)のことだろう。一昨年の暮に「メディアの風 時代に向き合った16年」(上下)を自費出版した後、ふと、さらにコラムを絞り込んで単行本にし、若い世代に思いを伝えることできないかと考えた。そこで去年からその準備に入り内容も練ってきたが、なかなか出版社が見つからない。何人かの友人が骨を折ってくれたが、今年になって一粒書房からの出版が可能になった。少部数の出版だが、お陰様で、内容的には満足のものが出来たと思っている。伝えるべきものはギリギリ入れることが出来た。

 タイトルは「いま、あなたに伝えたい。ジャーナリストからの戦争と平和、日本と世界の大問題」(265頁)。混迷の時代にあって、これからの世代がものを考えて行く時の座標軸の一つになればという思いを、そのままタイトルにした。私の番組体験も交えながら、戦争と平和の諸問題、原発問題や科学技術の衰退など日本が抱える課題の数々。或いは地球温暖化や核兵器、ゲノム編集やAIなどの人類的課題。メディアや歴史認識などのテーマを選んで4章に。いずれも、この先も避けて通れない大事なテーマだが、今の時代に即して手を入れ、新たな解説も加えた。

 著者名で検索するとAmazonでも見られるが、何故か値上がりしていたりするので、定価(税込み1650円)での購入をお勧めしている。同時に、「メディアの風」トップ頁右上に、お知らせも載せた。こちらは印税も辞退しているので、売れるかどうかは関係ないが、出来るだけ若い世代にも読んで貰うべく、昔お世話になった学生寮の図書室や、大学の図書室、或いはジャーナリストを目指す会の事務局、地元の図書館などに寄贈して、若い世代に手に取って貰えるようにと動いている。これで肩の荷が下りた。お世話になった方々には感謝しかない。

◆8年ぶりの実家訪問と「我が家の由来」
 一方、誕生日を挟んで、それぞれの身内を訪ねる小旅行があった。その一つ。母の死から数えると8年振りに、(今は弟夫婦が住む)郷里の実家を訪ねた。実家に残る古いアルバムの整理を手伝うためだが、カミさんとの小さな旅行プランを作った。初日に夫婦で水戸の墓参りをし、北茨城市の温泉に泊まる。この温泉は、海岸から車で10分ほど入った鄙びた温泉で、出来てまだ40年なので私の若い頃には知らなかったものである。冬はアンコウ鍋が旨いらしい。翌日、日立市の実家によって昼飯をごちそうになりながら、弟夫婦としばし歓談。

 8年ぶりの日立は、崖の上から眺める太平洋の風景は変わらないが、家々が建て替えられていて、海へ降りる坂道もコンクリートで整備され昔の面影はない。海岸も少し歩いたが、12年前の津波被害を受けて海岸線は堤防が連なっていた。海辺を歩きながら、幼い頃は夏休みに毎日のように“ふんどし”一つで海に遊びに行っていたことを懐かしく思い出した。日立の駅舎も有名建築家(妹島和世)の手によってしゃれたガラス張りのものに変わっている。郷里も確実に時代の波に洗われていた。
 『面影を探す故郷に風薫る』

 古いアルバムは何冊もあって、多くは戦前のモノクロ写真である。祖父母が経営していた呉服商時代のもの、父母の若い頃の写真や結婚式の写真など。子供たちに伝えるのに使えそうなものだけ、送って貰うことにした。いま、考えているのは、80歳までに「我が家の由来」をまとめることである。何も知らない子供たちに、せめて水戸の墓地に入っている(幼少で亡くなった)叔父叔母のことなど、最低限のことを伝えたいと思っている。それを出来れば小冊子にして、古い写真も取り込もうと考えて来た。78歳を期に、それに手を付けようと思っている。

◆久しぶりに福井の義母を訪ねる
 もう一つは、これも久しぶり(7年ぶり)にカミさんの郷里、福井市を訪ねたことである。義母は福井で長男夫婦と暮らしているが、今年95歳になる。半分以上は寝たきりで、長男夫婦が自宅で献身的に介護をしている。コロナで長く会えなかったが、今回は義母の顔を見るのと同時に、長男夫婦に感謝を伝えるのが目的の旅行だった。長男夫婦は、自分たちが介護の現場で手伝いをしているので、もちろんショートステイなどは利用しているが、自分たちで看られるうちは、施設でなく自宅で介護したいと頑張っている。まさに老々介護の日々である。

 今回はカミさんの弟夫婦も京都から駆け付け、皆で義母を囲んだが、ベッドに腰かけた義母は思いのほかしっかりしていて、嬉しそうだった。後で、長男の奥さんが「こんな風におしめを替えるのよ」と、紙おむつ一式を見せて貰ったが、何枚も重ねるその量に愕然とした。その上にさらにおむつを巻かないと、背中からシーツまで濡れてしまう。それが日に何回にもなる。聞いていて、思わず涙がこぼれた。その晩は、長男夫婦のために一席設けたが、奥さんも日頃の苦労が話せて良かったと言っていた。まさに、歳をとることの難しさを実感した小旅行だった。

◆80歳までの2年間にやるべきこと
 福井は、私が独身最後の4年間を過ごした町でもある。ここも当時からは想像できないような変貌ぶりで、駅前には恐竜がならび、高層ビルが次々と出現している。変わらないのは、お堀の水くらいのもので、夜な夜な飲み歩いていた飲み屋街もビル街に変貌している。相変わらず、絶不調のカミさんは義母の顔を見られた嬉しさと同時に、旅の疲れからしばらく青息吐息だった。実はこちらも同様で、出かける前には医者から嫌なことを言われて、それが気になっていた。心臓の不整脈から始まった検査だが、負荷を掛けた検査で狭心症の疑いありという。

 結果、来週には心臓のCTを撮ることに。結果次第では、心臓の血管にステントを入れる手術を受けることになるかもしれない。そんな予告を受けながらの出版や小旅行だった。まあ、結果が出るまでは何とも言えないが、時々の不整脈は気持ちのいいもではない。それを踏まえた上での78歳の感慨と言えば、やりたいことの一つに数えていた出版化も終えたので、あと2年を生き延びて、80歳までにやるべきことをやるということ。それが、「我が家の由来」と終活になる。終活もいざとなると、これも墓のことや家のことなど、やることが沢山ある。

◆「一日、一生」の思いで、死ぬまでは楽観的に
 そういうわけで、今の自分にとって80歳は結構遠く思えるが、一日一日、丁寧に生きつつ、それらに取り組んでいく。「一日、一生」という言葉があって、「一日が一生であり、明日はまた新しい人生が始まる」、「一日を一生涯だと思って丁寧に生きる」という意味だそうだが、そんな心構えだろうか。凡人の私には大分遠い心構えだが、楽しみも取り入れながら、死ぬまでは楽観的に生きて行きたい。そして、取らぬ狸の皮算用かも知れないが、うまく80歳の誕生日を迎えられたら、付録としての残りを、それこそ「ボーっと生きて行こう」と思っている。

喜寿越えで模索する新フェーズ 23.5.4

 5月下旬の誕生日で、私の喜寿(77歳)が終る。その喜寿越えの年齢になってからの日々がどんなことになるのか。この先の生活を考えると急に曖昧になって見通しが悪くなる。もうすぐ80歳に手が届く年齢ではあるが、具体的なイメージが湧かない。ただ惰性で毎日を過ごして行くしかないのか。それとも心身的に何か新しいフェーズに入って行くことはあるのだろうか。この3年、コロナ禍のせいで、旅にも出ず、人ともあまり会わずで、大事な老後の時間を空費した感があるが、それでもリモートなどで以前の関係を保ちながら何とか過ごして来た。 

 そのコロナもようやく落ち着いてきている今、出来れば、喜寿越えを契機に老後の新たなフェーズを模索したいという気持ちが密かに湧いてきているのだが、その先が見えない。先日の「徹子の部屋」では、(私と一回り違う)今年90歳の山川静夫さんが「長生きすると見えてくるものがある」と言っていたし、翌日には今年100歳のお茶の千玄室さんが、かくしゃくとして今年の抱負を語っていた。そんな姿を見ると、78歳にもなったのだからもうジタバタしなくてもいいかという気持ちの一方で、私も何かを模索せねばという気持ちにもなる。

◆単行本の出版で「コラムを書く生活」をどうするか
 新たな日々を模索するには、まる18年続いた「コラムを書く生活」をどうするかということも大きな課題になる。今月末に、書き続けたコラムのエッセンスを若い世代に伝える単行本が出版されるので、それも一つの区切りになるだろう。そこでまとめた「戦争と平和、日本と世界の大問題」から見れば、日々流れる大小のニュースも皆、その流れにくくられてしまう。コラムを始める時には、「自分の世界観を点検すること」もあったが、私の世界観の9割方はその本に込めたので、新しい視点で目の前の事象を取り上げるのが難しいこともある。

 ただし、その枠内であっても、今話題沸騰の人工知能(AI)のように、新たな潮流が始まることがある。以前にも、「人工知能の衝撃と人類の未来」(2016.3.22)を書いたが、今のAIはその後の飛躍的な動きである。私の属する学会でも、今年はAIをメインテーマに何度か勉強会を開いているが、主導するIさんを除いて、みんな(言葉は悪いが)「群盲、像をなでる」状況だ。私もchatGPTに「あなたについて教えて」という質問を繰り返して、その正体を探ろうとしているが、群盲の一人として、分かった範囲でコラムが書けないかと思ってはいる。

◆新聞を切り抜き、番組を録画し、読書をする
 そんなこんなで、新しい生活のフェーズをまだ定め切らない今は、惰性のように新聞2紙の切り抜きを続けている。カミさんに「新聞が値上がりしたのだからどっちかにしたら」と言われるが、それでも毎日赤のボールペンで切り抜くページに印をつけ、「未読」と「既読」に分け、溜まったらテーマ別にファイルに分類する作業を続けている。以前なら溜まったテーマを眺めて、「防衛政策や防衛費問題」、「野党のだらしなさ」などを書かねばと思っただろうが、これも皆が書いていることなので気が進まない。この生活にどう踏ん切りをつけるかである。

 読書をする生活への憧れについて書いたこともあるが、最近は、その読書からも遠ざかっている。考えてみれば、今度の単行本に載せたコラムは、(新聞切り抜きや番組だけでなく)かなりの部分を当時の読書によっている。その都度、本のタイトルを紹介しているが、18年の間には、それだけ沢山の本に助けられたということである。その読書も、ちょっとご無沙汰すると本が描く世界観や感覚世界になかなか入っていけない。現在は友人が読んだという直木賞の「地図と拳」(640ページ)をKindleに落として読み始めたが、長くて青息吐息である。

◆「風の日めくり」での近況報告と老境の模索
 喜寿越えの新たな模索となると、とりあえず上記のような「コラムを書く生活」をペースダウンして、(近況をメインとする)「風の日めくり」の方で考えて行く事になるだろう。そこで、試みに「風の日めくり」をトップページの右の方に持ってきた。そこをメインに老境の心境変化を探っていく。さて、その近況報告だが、4月に誕生日を迎えたカミさんは、相変わらず医者通いが続いているが、私の方も前立腺がんの摘出手術の後遺症なのか、尿漏れから来る(?)症状で泌尿器科に行ったり、一時的な不整脈の症状で24時間計をつけたりした。

 その結果はまだだが、それでも私の場合はありがたいことに、総じて健康を保っている。先日は、久しぶりに元荒川の下流方向へ足を延ばして両岸を挟んで沢山の鯉のぼりが泳いでいるのを一人眺めて来た。毎年、ここまでは足を延ばして来たが、来年はどうだろうという気持ちになる。そういえば、今年は天候不順とカミさんの絶不調で、毎年見に行った花見にも行かずじまいだった。
 「また会うや空に鯉舞う喜寿の末」
 4月に予定していた温泉行は直前の体調不良でキャンセルしたが、5月連休明けに再挑戦する。これは北茨城の温泉に泊まりながら、水戸の墓参りと(弟が引き継いだ)日立の実家を訪ねる予定で、天気は悪そうだが楽しみにしている。

◆「アフター・〇〇」の観察者(目撃者)として
 それにしても、この3年の空白の意味である。コロナが5類になったということで世の中は、一気に人の交流が増えた感じだが、その底流にあるのは「人恋しさ」だと思う。ヒトはこの何万年と仲間で飲食を重ねながら、自分を確かめ、他人に学び、生き方や生き延び方の情報を交換して来た。その密な空間を失って初めて、その貴重さが分って来た。これが「アフター・コロナ」の実相だろう。まだ安心はできないとしても、この流れは止められない。失った3年の「人恋しさ」を埋める形で社会が動いていく。その中で何が変わって行くのか。

 そういう意味では、今回出版する単行本に込めたテーマは、問題提起にはなっているが、問題の「アフター・〇〇」については、未知の分野でもある。ロシアの戦争が終わった時に、或いは米中の覇権争いが頂点に達した時に、或いは、日本が財政破綻した時に、そして地球温暖化が「もう戻れないポイント(tipping point)」を超えた時に、AIが人間を凌駕した時に、どんな世界が出現するのか。この「アフター・〇〇」については、寿命が尽きるまで見届けてもいいかも知れない。それは、問題提起というよりは観察者(目撃者)としてである。

◆「メディアの風」の2つの間を往復しながら
 その時、「日々のコラム」はどんな文体になるのだろう。問題提起ではなく、観察者としての文体や文の構成である。そこに新たな書き方があるのだろうか。それも模索したいテーマの一つではある。ただし、この歳になると、一つのテーマに集中して、あるメッセージをまとめることのしんどさは半端ではない。それに比べて「風の日めくり」の方は、脈絡のないことを書き並べるだけなので、1日もあれば終わる。もちろん、自分の心境に何らかのきっかけがないといけないが、それも書き始めれば何となく見えてくるような類のものだ。

 まあ、喜寿越えの老後の過ごし方の模索について言えば、この「メディアの風」の在り方ばかりではなく、もっと幅広い生活全般にはなるだろう。それらについても先が見えない中で、手探りして行く事になる。そうしたことを踏まえながら、今しばらくは「風の日めくり」と、模索中の「日々のコラム」との2つの間を往復しながら、ぼちぼちと発信を続けるつもり。お付き合いを頂ければと思う。

AI元年の中の老境の日々 23.4.2

 前回、近況をアップしてから2か月が過ぎた。節目を作るために、1か月に1回くらいはアップしたいのだが、何故かその気にならない。同じような日が淡々と続くせいなのか。カミさんの絶不調に付き合って病院通いをしたり、それを何とか改善しようと近場の温泉に行ったりするうちに月日が経っていく。不調のために、マイナス思考になるカミさんを何とか励ましながら出来ることはしようとしているが、なかなか思うようにならない。少し時間が出来ると自分もあちこちの小さな故障のために医者通い。WBCの決勝戦も病院の待合室で見た。

◆AI元年の中での幾つかの試み
 そんな中でも、コロナが落ち着いてきたのでTV制作会社(赤坂)の週一の企画会議にも顔を出すようになった。出かけると社長夫妻と昼食をとりながら、会社の課題や時事的なことなどを話すのが楽しみになっている。この12年、番組企画会議に参加し、工夫しながら若手ディレクターの企画力の向上を目指してきたが、それがだんだんと実を結びつつある。若い世代の発想で、企画会議のあり方も充実して来たのが嬉しい。先日は、わがサイエンス映像学会でAI(人工知能)の講義をしているIさんに、社員向けにAIの勉強会を開いて貰った。

 2023年の今年は、オープンAI社(米)がリリースした「チャットGTP」や「GTP4」が世界に衝撃を与え、“AI元年”とも言うべき年になりそうだ。そこで、サイエンス映像学会でも、今年の主テーマをAIに決めて月例研究会を開いている。先日は、そのAIを取り入れてTV制作をいかに効率化するかという勉強会だったが、一方で学会の4月の月例会は「猫でもわかるAI教室」(4/14)。「解説書を幾ら読んでも自転車には乗れない。まずは慣れること」というIさんの提案で、各自AIで画像まで作ってみる(写真の絵はIさんがAIに作らせたもの)。

◆何とか出版の見通しが出来て来た
 体験してみて、AIは何が出来て、何が苦手なのかを知る試みだが、Iさんは「使いだしたらもう元に戻れない。秘書を一人雇ったたようなもの」という。聞くと、コラムなどを書く際のデータ検索や、書いた文章の校正などもAIがやってくれると言うので、私もそれを目標に、まずはAIに慣れてみようと思っている。さて、文章の校正といえば、一昨年の暮れにコラム180本を「メディアの風 時代と向き合った16年」(上下)にまとめて自費出版した後、この中からさらに若い世代にも大事なテーマを絞り込んで、単行本に出来ないかと模索して来た。

 未来を考える時に、避けて通れない重要テーマを50本に絞って書き直し、最新のデータを注記し、各章に新たな解説もつけた。それがどうにか出版の見通しがついてきた。うまく行けば、私が78歳の誕生日を迎える5月下旬になるという。前回のコラム「絶望の時代に探す希望とは」にも書いたが、今は下手をすると世界と日本が、絶望の淵に沈みかねない「時代の大きな転換点」にある。その中で、ものの見方の指針となるような「座標軸」を探すことが出来るか。今度の出版がそれを考えるヒントの一つにでもなればという思いを込めた本である。

◆コロナ禍の家族とのつながり
 一方で、80歳を目前にして、体と頭が何とか機能するうちにやるべきことが気になっている。先日の同世代の仲間とのリモート懇談でも、このコロナで会えないうちに、あの人もこの人もという形で先輩、後輩が亡くなっているという話になった。私も、この歳でたまにゴルフなどをすると、成績が思うようにならないのはもちろんだが、終わってみるとがっくりと疲れ、確実に心身の衰えを感じるようになった。明日何があるか分からない。そこで、今のうちにやっておくべきことをいろいろと書き出したりしている。家族とのつながりもその一つ。

 Lineを利用しての我々きょうだい、さらに子供たちや孫たちとのつながりである。カミさんは7人の孫たちの誕生日ごとにお祝いを送っているが、このコロナ禍で会えないうちに、孫たちは毎年どんどんと大きくなり、4歳の年中さんから大学2年生までになった。娘一家の孫たちとは毎晩lineで話をしているが、次男一家はNYだし、長男のところも遠いので久しく会えていない。月半ばには、カミさんと水戸で墓参りをして北茨城の温泉に一泊し、その帰りに(古い写真の整理を兼ねて)弟が引き継いだ日立の実家を見て来ようと思っている。 

◆老化を防ぐための知的好奇心
 もう一つ。やるべきリストには、知的好奇心の持続と、社会とのつながりの持続が入っている。これは、老化を防ぐのに大事なことだろうと思うからだ。今年91歳の大先輩が主催する月1回の勉強会では、今年に入ってからもウクライナ戦争における武器(1月)、中国の世界戦略(2月)、日銀新総裁の出口戦略(3月)とハードなテーマが続いている。毎回、10枚以上の図表を作って講義してくれるが、その先輩が、去年末から話題のAIについて猛勉強し、4月勉強会のテーマにしたいと言う。老化とは無縁の旺盛な知的好奇心に、本当に頭が下がる。

 そういう訳で、私の方もボケ防止を兼ねて、この「メディアの風」を何とか続けたいと思っている。心配な日本の衰退、不気味に迫って来る戦争の足音、進行が止まらない地球温暖化など。この未曽有の時代の転換点にあって、私の出来ることと言えば、時代の行方をじっくり見届けることだと思っている。いわば「時代の目撃者」に徹して行く。昔ほどの更新は出来ないが、出来れば勉強したての“AI秘書”にも助けてもらいながら、努力目標としては月に2回程度は更新して行きたい。そのためには、新聞の切り抜きも暫く続けて行く事になるだろう。

◆『見納めの花降りしきる宴かな』
 先日の学会のリモート会合では、AIに俳句を詠ませようと試みたが、季語は読み込んでもうまく5,7,5にならない。追及すると「私はまだ日本の文化に詳しくはないので、すみません」のような返事を返して来た。AIが膨大な日本文化の蓄積を読み込んだとして、果たして芭蕉が詠んだような日本情緒の奥深い世界を理解できるかどうか。しばらくは、AIは何が得意で、何が苦手なのか。あるいは、この先、どのような衝撃を人類社会に及ぼすのか。人類はその衝撃を乗り越えられるのか、といったことを皆で議論していきたい。

 老境の日々にあって、私も人類とAIの問題を論じた「LIFE 3.0 人工知能時代に人間であること」(デグマークMIT教授)などを再読しながら、今年はこのAI問題に何とか追いついていきたい。それにしても、出版を予定している単行本「いま、あなたに伝えたい ジャーナリストからの戦争と平和、日本と世界の大問題」(仮)の「はじめに」にも書いたが、人類は今世紀に入って何やらとてつもない未知の時代に突入しつつある感じがする。「時代の目撃者」としては、怖いような、楽しみなような、である。『見納めの花降りしきる宴かな』 達男。