日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

SNS時代は戦争を変えるか 22.4.4

 自分の一方的な歴史観(大ロシア主義)のもとにウクライナ侵攻を始めたプーチンには、幾つかの誤算があったと言われる。一つにはウクライナ国民の圧倒的な反ロシア感情である。プーチンは、ロシア軍は解放軍として歓迎されると思い込んでいたらしいが、(親ロシア政権を倒したマイダン革命以後の)自由を求めるウクライナの国民感情の変化を読み違えていた。もう一つはウクライナ軍の士気の高さと武器の充実。欧米が提供した高性能の対戦車砲で、士気の低いロシア軍は叩かれた。そしてもう一つの誤算がSNSを始めとするIT情報戦である。

 ウクライナの若きIT大臣のミハイル・フェドロフ(31歳)らがロシアのサイバー攻撃の上を行く情報戦と宣伝戦を展開して、一気に世界を味方につけ、ロシアの孤立化に成功した。このIT戦略の詳細はまだ不明だが、アメリカの大手IT企業を味方につけるとともに、国民からのSNS情報まで巧みに作戦や宣伝に取り込んでいる。海底ケーブルでつながるインターネットが遮断された場合に備えて、イーロン・マスク(米)がもつ2000個の衛星を使ったネットワークも提供されており、ロシアはウクライナのIT作戦にうまく対処出来ていない。

◆SNSによって伝えられる戦争のリアリティー
 その結果、日々世界に拡散される戦争の情報は、同時にSNS時代に特有の新たな状況を生み出している。それはまさに殺されようとしている市民が必死にSNSで発する戦争のリアリティーが引き起こす状況でもある。病院を攻撃し、子どもたちが避難していた劇場までも攻撃するロシア軍の非人道性(*)が瞬時に世界に拡散し、ロシア批判をかきたてている。幼子が傷を負う悲惨な映像や見る影もなく廃墟となった都市の光景が、世界の人々の意識に日々膨大に積み重なって行き、プーチンが唱えるこの戦争の大義の嘘(虚構性)を露わにした。*)ロシア軍撤退後の住民大量虐殺も明らかに

 ウクライナ軍の意外な善戦もさることながら、ウクライナ側から発信される膨大なSNS情報は、初期段階での世界世論における圧倒的な優位をウクライナにもたらしている。それは、G7やNATO加盟国の政治家たちの結束を固めさせただけでなく、世界世論の大部分をプーチン憎しに変えた。その心理の背景には、いわゆる「共感疲労」というものが働いているように思われる。私などでもそうだが、日々悲惨な戦争の映像を見続けると心の底に同情心がたまり続けるが、それがあふれそうになっても、そのやり場がないことに気づかされるからだ。

◆「共感疲労」から派生するプーチンへの怒り
 戦争や災害の悲惨な情報に長く接し続ける時に起こる「共感疲労」とは、何も出来ない自分を責めて疲れてしまったり、後ろめたさを感じたりする心理現象だという。それを乗り越えるために支援活動や寄付に立ち上がる人々もいるが、多くの場合は、これ以上疲れないように悲惨な情報から適宜自分を遠ざけるようになる。それはそれで自衛的な対処法だが、一方で戦争の現場で日々悲惨な被害が出続けている事実が頭を離れない。今は、世界中の市民がこうした切迫した心理状態にある。そして、それはさらにもう一つ別な感情も呼び起こす。

 日々やり場のない同情心をもてあます(私のような)人間が抱くのは、そうした非人道的な戦争を続ける独裁者プーチンに対する強い怒りである。現在のプーチンは「裸の王様」状態で、ウクライナで起きている戦争の実態が届いていないという見方もあるが、仮に何らかの形で今のような非人道的な実態を知ったとしても、プーチンの心は動かないのではないか。これまでも数々の残虐な戦争で勝利してきたプーチンは、ウクライナで何人死のうが勝てばいいと思っているのではないか。そうした独裁者プーチンに対する疑念と怒りである。

◆独裁者に人を殺し、殺させる権利はあるのか
 こうした「共感疲労」に伴う心理状態は今、(SNS情報が遮断されているロシアや中国を除いて)世界中に蔓延していると言っていい。そして、その怒りがさらに、このような理不尽で残虐な戦争を始める彼のような独裁者の存在がなぜ許されるのか、という疑問にもつながってくる。つまり、SNSを介して戦争の不条理や非人道性がかくも露わになったことによって、世界は戦争というものの本質をより明確に理解し始めていると同時に、この時代変化を理解していないプーチンのような独裁者は排除されなければならないと思い始めている。

 世界6千万人以上の戦争犠牲者を出した第二次世界大戦以降も、世界では朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、チェチェン紛争、シリア内戦で何十万、何百万という戦争犠牲者を出す戦争を繰り返してきた。しかし、その被害の実態の報道は多くの場合限られており、意図的に隠されてもきた。民間人の虐殺やレイプがあっても、多くの場合、戦争につきものの事象として片付けられてきた。しかし今回は、SNSによってプーチンのような戦争指導者の頭の中が、未だに旧態依然の非人道的な戦争観のままだということが露見したわけである。 

 同時にSNSによって、「戦争を始める一握りの政治家に、罪のない大量の市民の命を奪う権利はあるのか」という強い疑問が人々の意識の中に芽生えて来ても不思議ではない。プーチンも一人の人間であると同時に、戦争で殺される人々も一人の人間である。その命に重さ軽さを言うことは出来ない。特に、殺される人間から見れば、その命はプーチンの命などには代えられない。そうした独裁者の命と自分の命を相対化して考える考え方が広がることによって、現代の戦争の持つ不条理がさらに明確に認識されつつあるのではないか。

◆世界世論の中での中露の微妙な関係
 戦争は常に一部の政治家の独善的な理由から始められ、無防備の市民が大量に殺される。(他国の市民も含めて)市民の命と安全を守るために国があるとすれば、国家と国民に奉仕する政治家に「自分から先に戦争を始める権利はない」筈だ。特に、核時代の現代は世界を巻き込む大惨事を引き起こす可能性があるだけに、プーチンのような独裁者の命と死にゆく大量の命を天秤に掛けることは出来ない。SNSで日々、踏みにじられて行くウクライナの人々の命の現実を見ながら、プーチンの主張を受け入れるほど、今の世界は愚かではなくなったということである。

 さて、こうした世界世論の高まりや戦争の本質に対する認識の変化の中でロシアが頼みとする中国も表だったロシア支持を打ち出せなくなったと言っていい。ロシアも中国も国内的にはSNSを遮断し、一方的な情報やフェイクニュースで対抗しようとしているが、国の外側ではロシアの嘘は即座にが暴かれ、ロシアの主張を信じる者は殆どいない状況である。こうした時に、プーチンが苦し紛れに生物化学兵器や戦術核を使うことが懸念されているが、もしそうなれば、NATOも武力介入せざるを得なくなって、世界は破滅の瀬戸際に立たされる。 

 もし、一縷の望みがあるとすれば、これまでウクライナの市民(もちろんジャーナリストの頑張りもある)の命をかけたSNSの発信によって、プーチンの戦争の大義の虚構性が暴かれ、その非人道性が世界に知れ渡ったことによる影響である。この世界世論の中で、頼りとする中国の感情をさらに逆なでする最終兵器(生物化学兵器、戦術核)の使用にプーチンが踏み切るかどうか。もし、僅かな理性がプーチンに残っていれば、それは中国のロシア見放しにつながると分かる筈だ。そこに望みを掛けているのだが、果たしてこの先はどうなるだろうか。

独裁者プーチンという危険 22.3.20

 ロシア軍がウクライナに侵攻して1ヶ月近くが経過、ウクライナ軍の高い士気の前に停滞していたロシア軍がジワジワと各都市の包囲を狭めている。世界は日々ロシア軍による民間人攻撃の非道さを見せられて来たが、この先はさらに多くの目を覆いたくなるような悲惨を目撃させられるだろう。SNSや通信技術の進化によって生でロシア軍の残虐性を目にする世界は、ロシア批判を強めているが、プーチンにその非人道性は一向に響いている気配がない。敢えてそうした情報を自分に遮断しているのか、或いはそうした攻撃を当然と思っているのか。

◆「プーチンの戦争」の実態
 プーチンは権力を握って以来20年、第2次チェチェン紛争(1999〜2009年)、ジョージア(グルジア)との戦争(2008年)、アサドに加勢してシリアの反体制派を叩いたアレッポでの戦争(2015年)などで多くの民間人犠牲者を出しながら戦争に勝ってきた。都市を包囲し「人道回廊」を作って、さらなる民間人攻撃の手段にする方式もこうした戦争の中で試みられてきた。テロとの戦いなどを口実に、民間人への残虐な攻撃も厭わずに勝利を手にして来たのが「プーチンの戦争」である。その実態が今回はSNSなどによって白日にさらされている。

 プーチンは、アメリカもアフガニスタンやイラクで同じようなことをやって来たではないかと言うが、同じように都合のいい「戦争の大義」さえ見つければ勝つために手段を選ばないというのが、プーチンの戦争観になっている。独裁者プーチンにとっては、戦争での勝利こそが力の源泉であり、そのための力の信奉である。ウクライナへの侵攻の口実は直接的にはウクライナの極右集団(彼の言うネオナチ)による東部の親ロシア住民への無差別攻撃(ジェノサイド)だというが、背景には前時代的な大ロシア主義への回帰願望がある前回コラム)。

◆独裁者プーチンというリスク
 力の論理に支配されている独裁者プーチンには、国際社会に定着している人道主義や主権国家主義、民主主義への共感が抜け落ちている。加えて冷戦時代から引きずるアメリカに対する被害妄想が支配している。こうした意味で、プーチンは西側諸国から見れば「過去に生きる独裁者」だと言える。その暴君が今、適確な情報が上がらない裸の王様状態になって戦況が思うように運ばず、足元が盤石ではなくなっている。万一権力を失えば、数々の犯罪人として裁かれる運命にあるプーチンの焦りは、従って国際的な危機を一層強める要因となる。

 確かに、ソ連崩壊以後のロシアは様々な意味でアメリカ他から軽視されてきた。アメリカと西側は核大国ロシアの力を削ごうと常に策謀を巡らせてきた。かつてのソ連邦の国々をNATOに加盟させる一方で、CIAなどの暗躍でウクライナの親ロシア政権を倒し、プーチンの怒りを買ってきた(プーチン側から見たドキュメンタリー映画「ウクライナ・オン・ファイアー」)。その唯一の超大国だったアメリカの力が落ちて来たのを見て、プーチンはかつての屈辱を晴らそうとしている。この決意が固いだけに、ウクライナはさらなる戦争拡大への火薬庫になりかねないのである。

◆「システミック・リスク」の時代
 今、プーチンについては虚実様々な情報が世界を駆け巡っている。健康不安説や精神的な異常傾向、側近たちの離反などなど。それに国際社会が包囲する経済制裁の効果などで、プーチンの足元がすぐにも危うくなると言う見方もある。それらに希望を託す気持ちも分からないではないが、崖っぷちに立たされた「独裁者プーチンの危険性」はむしろ高まっていると見るべきだろう。加えてアメリカの力が落ち、世界が多極化した今の時代は地域の紛争が容易に世界に拡大する傾向を持つ「システミック・リスク」の時代「新世界秩序」仏の思想家、ジャック・アタリ)でもある。

 国連が機能せず、さらに世界の警察的な超大国アメリカも機能しない。誰も効果的に紛争を止める力を持たないために、複雑な要素を孕む紛争が世界に拡大していく。その視点で見ると、ウクライナを取り巻く力関係と各国の思惑は今、極めて複雑化していると言っていい。ウクライナは、米欧(NATO)を戦争に巻き込もうと必死だが、独仏などは及び腰だ。武力行使を避け、経済制裁を強めてプーチンの失脚まで狙っている感じが露わなアメリカのバイデンも国内の強硬意見にタジタジとなっている。さらに、様子見の中国とインドがいて世界はとても一枚岩ではない。

 こうした複雑な状況の中で、プーチンがさらに非人道的な戦術に踏み切ったとき、世界はどう動くだろうか。追い詰められたプーチンが生物兵器や化学兵器まで使用するという事態にまでなった時、世界はその悲惨な現実に耐えられるだろうか。さらには戦術核兵器の使用という脅しもある。別にプーチンの被害妄想に理解を示す訳ではないが、そうした異常な独裁者のリスクを正確に計算しておかないと、単に建前的に人道主義や主権国家主義の立場から彼を批判し追い詰めようとしても、この戦争の出口を見いだすのは難しいということである。

◆この戦争の出口を模索するための条件
 「システミック・リスク」の時代の怖いところは、この戦争が(誰も望まないのに)あれよあれよという間に第3次世界大戦のように拡大することである。核戦争のリスクを避けるために武力参戦ではなく、経済制裁を強めようとしている欧米指導者も、独裁者と違ってそれぞれに自由にならない選挙を抱えていて、世論に抗しきれないからだ。一方で核をちらつかせる「独裁者プーチンという危険」をリスク評価しながら、他方でウクライナの悲惨な玉砕を食い止め、さらに第3次世界大戦のような戦争拡大を防ぐ方法はあるのだろうか。

 目の前の悲惨な戦争に日々耐えながら、この複雑な方程式を巡ってウクライナとロシアの停戦交渉、および世界のロシア包囲は続いているが、交渉が満たすべき条件の範囲(幅)はどういうものなのだろうか。素人の私には、その具体的な交渉条件は分からないが、敢えて言うならば、絶対条件として世界大戦につながるような生物兵器、化学兵器、核兵器をロシアに使わせないことである。そのためには、(私たちの願望は別として)プーチンの失脚やそれにつながる挑発を慎重に避けることである。プーチンの命運はロシア国民に任せればいい。

◆人類の歴史に終止符を打たないために
 一方、ウクライナの主権について、あくまで100%に拘るかどうかは、これ以上の悲惨を見るかどうかとの天秤になるだろう。ウクライナがこれまで世界に示してきた果敢な戦い、民族の誇りや愛国心は賞賛に値するが、それは領土の一部(例えばクリミア、東部の州)を死守することが絶対なのだろうか。ゼレンスキーはここで妥協したら次は他の国も同じだと言うが、ロシアとウクライナが停戦しても、武力での領土不可侵と主権国家主義の理念を掲げる西側が経済制裁を続けると言う手も残されているだろうし、その時プーチンに新たな戦争を始める余力はないはずだ。ここで戦いを止め、時間を稼ぐという道はないのか。

 以上は、ウクライナにとっても当初の目的を引っ込めるロシアにとっても、厳しい選択になるだろう。しかし、21世紀最大の危機であるこの戦争を人類の破滅につなげないためには、致命的な誤算で始めた戦争のツケを独裁者プーチンにも払って貰わなければならない。このように書いては来たが、それが実現するには極めて狭い、針穴を通すような交渉が必要になるだろう。しかし、これが実現しなければ、人類が破滅の瀬戸際に立たされるのだから、アメリカも中国もそしてロシアも、人類史の破壊者にはなりたくないに違いないと思いたい。 

 数百万年前に人類の祖先が地球上に誕生したのは、まさに生命誕生から数々の奇跡を乗り越えて来たからである。その「ビッグスヒストリーの奇跡」を破壊するような核兵器を手にした人類が滅びずに、まだ幾ばくかの時間を地球上に存在出来るかどうか。うまくこの戦争を終わらした時、人類はさらなる高度な戦争抑止のための国際機関を粘り強く模索しなければならないだろう(そのことは別途書きたい)。

ウクライナ危機の中の庶民 22.2.19

 ロシアがウクライナを取り囲むように大規模な軍隊を動員し、世界の緊張が続いている。ウクライナのNATO加盟に反対するプーチンに対して、その要求を拒否するNATO側との間でぎりぎりの神経戦が続いている。これが本格的な武力衝突になるのかならないのか。様々な見方が錯綜している状況だが、8年前の2014年、ソチ冬季オリンピックの時には、ロシアは五輪期間中にウクライナに武力介入し、閉幕直後にクリミアをむりやり併合した(3月18日)。当時とNATO首脳の顔ぶれが変っても、その構図は今回も8年前と殆ど変らない。

 今回の危機が2008年当時の構図と似ている点は、大地が凍って戦車などの重武器が移動しやすくなる厳寒期を選んだこと。また、化学兵器を使用したシリアへの武力攻撃を見送ったオバマ大統領の弱腰を見越したのと同様に、今回もプーチンはアフガン撤退などで見せたバイデンの弱腰につけ込んだふしがあること。また、ロシア包囲網を作ろうとしている西側に対して、ロシアが天然ガス供給を武器にEUを分断しようとしていることなどである。しかし、今回は米国内での弱腰批判を気にするバイデンが意外に強硬なのも緊張を高める要因にもなっている。

◆独裁者プーチンの猜疑心と野望
 ウクライナ危機の根底にあるプーチンの西側に対する不信感と危険な野望については、8年前の危機の時に2回ほどコラムを書いた。その要点を踏まえて今回の危機の構図を再確認しておきたい。まずは、プーチンから見たウクライナ問題である。もともとウクライナはロシアと同じスラブ民族の故郷的な存在であり、かつてはソ連邦に属していた。ロシアはウクライナを兄弟国(もちろんロシアが兄)と見なして来た。またウクライナ東部にはソ連時代の兵器産業の中心地があって、これがNATOに組み込まれることにプーチンは強い危機感を抱いてきた。

 ソ連崩壊後、かつての衛星国やバルト三国などが次々とNATO入りを果たしロシア包囲網を作っていることにプーチンは苛立っている。ウクライナについても、前の親ロシア政権が倒れ、NATO加盟を希望する現政権に変った背後にはアメリカの策謀があると信じて来た。その意味で、プーチンのアメリカ不信は強く、アメリカを「暴力に頼る国。“味方以外はみんな敵”というスローガンを掲げて同盟国を集める国」と見なし、警戒を募らせて来た(「プーチンの世界」)。同時にプーチンを動かしているもう一つの危険な野望があると言われる。

 それが、「偉大なるロシアの復活」(ネオ・ユーラシア主義)であり、ソ連崩壊で縮小した大ロシアを領土的にも取り戻し、過去の栄光をもたらすという野望である。その一歩が8年前のクリミア併合だった。そのために道徳的に堕落した欧米との対決を掲げ、独裁者であることを辞さない。政敵や批判者を次々と死に追いやってまで独裁者の地位を保とうとするプーチンに取り付いた野望だが、これを掲げていれば国民の愛国心をくすぐり、支持率が保てるという計算もある。このプーチンの危険な執念に西側はどう対処しようとするのだろうか。 

◆多極化する時代の難しさ
 欧米側は(クリミアも含め)武力による国境変更に反対する立場を崩さず、(NATOなど)同盟への加盟はその国の自主的判断にゆだねるという原理原則を盾にロシアの要求を拒否。加えて、バルト3国や旧衛星国はソ連に差別され虐げられた歴史を持つだけに、ロシアに対する警戒感が強い。現在のウクライナ政権も東部の親ロシア地域は別として、ロシアに対する拒否感が強い。以上2つの全くかみ合わない主張と思惑がぶつかり合っているわけで、妥協の余地は殆どない。武力だけがものを言う事態になって日に日に切迫の度を加えている。

 ロシアがこれだけ露骨に武力に訴える姿勢を示す背景には、唯一の超大国だったアメリカの力が衰え、世界が多極化の時代に入っていることもある(「多極化する世界とウクライナ」14.5.7)。さらに、アメリカの力を削ぎたい中国とロシアの思惑が一致し、事態をより混沌とさせている。UEの首脳(ショルツ独首相、マクロン仏大統領)がプーチン詣でをしても足元を見られていいようにあしらわれるばかり。まして日本などの出る幕はない。核大国の首脳たちがそれぞれ国内支持率を気にして、事態が少しも良い方向に向かわない不幸である。

◆戦争抑止力を失いつつある世界
 しかし、そうこうするうちにロシアはプーチンが指揮して核ミサイルを打ち込む訓練まで始めるという。その武力攻撃のシナリオは様々に分析されているが、一旦攻撃が始まれば、戦争がどこまで拡大するか当事者にも分かる筈はない。仮に核ミサイルが使われれば100万人単位の犠牲者が出るが、今は実戦の瀬戸際にいるのにもかかわらず、各国首脳の緊迫した駆け引き(ゲーム)の中で、誰もその犠牲の大きさをリアリティーを持って想像しない。首都キエフでは市民は内心はロシアの攻撃に怯えつつ、何も見ないかのように暮らしているという。

 第1次大戦や第2次大戦の前夜には、戦争にはやる指導者をその国の庶民は呆然と眺めていた。中には熱狂に駆られた庶民もいただろうが、多くの庶民は息を潜めるようにして、ただ指導者たちを見ていた。そして、結局は未曾有の災難が庶民たちに振りかかった。そうした指導者たちの狂気に対して庶民は今も昔も余りに無力である。それは、先の大戦の反省から様々な戦争抑止機関(国連の安全保障理事会など)が出来ても変らない。むしろ戦後76年経って、その形骸化がはっきりして来て、世界は再び核の脅威が支配する力の世界に戻っている(「核大国を蝕む野心と猜疑心」18.2.8)。

◆取り残される無力な大多数の庶民たち
 現在の危機はウクライナのみに限定されるものではない。それが万一、米露の核ミサイルの応酬にまで発展すれば、その影響は地球規模に達する。そうはならなくとも世界同時株安のように、戦争の拡大は世界経済に深刻な影響をもたらし、私たちの暮らしも大きな影響を受ける。不況がさらに深刻化するのは間違いない。そういう瀬戸際にいるのに、その影響を被る大多数の人々の思いはなぜ、かくも無力なのだろうか。それは、こうしてウクライナ危機に関して一市民としてコラムを書くことに、どんな意味があるのだろうかという疑問にも突き当たる。

 世界の名もなき人々の懸念や不安が何の力も持たずに、ただ大国の首脳の意地の張り合いや面子がぶつかり合って、あれよあれよという間に事態が悪化していく。その時、庶民はただ黙しているだけしかないのか(写真はキエフ市)。今回のウクライナ危機では、ロシア、アメリカ共に世界に向かって情報戦を繰り返している。ロシアは開戦の意図はないとしながら戦端を開く口実を探っているし、アメリカは今にも戦争がありうると危機を煽っている。仮に、その向こうに国際世論があるとしても、今はその世論というものが力を持ち得ない。

 私たちは、残念ながらこういう危機の時にこそ、自分たち名もなき庶民の声が誤った政治を正すという機能を失って久しいことを思い知らされている。それは、普段から政治をチェックする国民の側の機能を強くしておかなければならないこと、そして独裁者を生み出さないための監視機能を手にしていることの大切さを、失って初めて教えてくれる。世界は今、民主主義国家が半数以下に減り、強権的、独裁的な国家が増え、再び力がものを言う野蛮な世界に入ろうとしている。このような時に、私たち庶民には何が問われているのだろうか。

「脱成長」という新たな時代 21.9.20

 前回のコラム「この首相とともに沈むのか」をアップした翌日に、菅首相が退陣を表明。それから連日、自民党総裁選のメディアジャックが始まった。いくら巨大与党の総裁選とは言え、党内の権力争いに、こうもメディアが一色に染まっていいのかと思う。4人の候補がいるが、方や安倍の覚えめでたい岸田、高市。方やその安倍支配を脱して世代交代を目論む河野、野田という色分けになりつつある。しかし、それも自民党というコップの中の争いで、主な対立点が自民党を変えるか、変えないかと言った内向きの話に終始しているのが頂けない。

 政策の違いも少しは見えては来ているが、経済政策では、弱者に冷たい新自由主義経済を見直すという岸田に対し、河野の方はあの竹中平蔵をブレーンとする新自由主義的な規制改革派だ。また、温暖化を防ぐための「脱炭素」については、脱原発派の河野も党内の反発を恐れて口を濁すなど、経済政策、エネルギー政策それぞれに、曖昧さとねじれ現象を抱えている。当然のことながら、地球温暖化の進行をこれ以上食い止めるには、経済のあり方そのものを抜本的に見直すべきだとする、今話題の「脱成長」を口にするような政治家は一人もいない。

◆人類社会に転換を迫る温暖化と脱成長
 「脱成長」とは、物質的な消費拡大を際限なく拡大する経済成長を止め、経済成長がなくても豊かな暮らしを送ることが出来る制度、人間関係、人を育てていくということである。もちろん今は、世界のどこの国もこれを政策として掲げている国はないが、むしろ、国レベルとは別の次元(パラレルワールド)で静かに進行している新しい潮流と言える。それは、どこまでも経済成長を追求する現代の資本主義が、地球全体に様々な害悪をもたらし、地球の持続可能性にとって放置できないほどの障害になっているという認識から来ている。

 つまり、急速に進行する温暖化を防ぐことを考えれば、もはや経済成長をなどとは言っていられないという指摘である。こうした中で、脱成長を説く書物は、このところ次々と現れており、以前にも紹介した「人新生の資本論」(斎藤幸平)を始め、「なぜ、脱成長なのか」(ヨルゴス・カリス:バルセロナ自治大学教授ほか)や、最近の「世界」10月号も脱成長を特集している。9月27日のドイツの連邦議会選挙でも、主な争点の一つは気候変動というが、それだけ地球温暖化問題は、コロナ後の人類社会に差し迫った転換を突きつけていると言える。 

◆「なぜ、脱成長なのか」から
 イギリスの産業革命を契機に始まった現代の資本主義が、経済成長によって人類社会のあり方を大きく変えて来たのは、この200年ほどの間である。その間に、経済成長は先進国社会のDNAに刷り込まれて、経済成長がなければ社会が成り立たないような仕組みと固定観念が定着して来た。しかし、経済成長によって拡大する世界のGDPはたとえ3%の成長でも、複利的に拡大するので、24年ごとに2倍になり、2100年には今の11倍もの規模になる。それに合せて物質消費も拡大し、地球に莫大な環境的負荷を掛けることになる。

 GDPの加速度的増大によって、地球上の緑が減少し、化石燃料や化学製品が燃やされてCO2が増え、温暖化が進行する。それだけではない。飽くなき経済成長を求める富裕層の豊かすぎる生活が、貧困層や貧困国からの搾取と犠牲、劣悪な環境の押しつけの上に成り立っていることである。しかも成長による富は、もっぱら富裕層の中で再分配され、国内および国家間の不平等を広げている。つまり、経済成長は、地球温暖化や地球環境の悪化と相関すると同時に、人間を不幸にする格差と分断を広げる機能も果たしてきた(「なぜ、脱成長なのか」)。

◆協同体(コモンズ)を再構築する
 さらに、もう一つ重要な指摘がある。それは、何でも金儲けの対象としてきた資本主義が、過去200年の間に「多様なコミュニティ」を解体してきたことである。より安い労働力を得るために家庭を解体し、地域生活を成り立たせていた農業、教育や医療などの公共福祉事業の分野にも、営利的な競争原理を持ち込み、それまでの穏やかなコミュニティを崩壊させて来た。「なぜ、脱成長なのか」は、そうした新自由主義的経済の反省に立って、経済成長をしなくとも豊かで安心できる協同体(コモンズ)を再構築する様々な試みを紹介している。

 「脱成長」は、必ずしも昔に戻れと言うことではないが、基本的には環境のことを考え、シンプルで「足るを知る」生活を基本とする。その上で、土地や水、医療、文化的知識、公共スペースなどの運営において、それを民営化・商品化する風潮を否定し、コミュニティが出来るだけ大きな指導権を持って運営することを求める。こうした精神はコロナ禍の世界でも貧困層や弱者への相互扶助、医療従事者へのケアなど様々な協同プロジェクトとして爆発的に増えている。いずれも、GDPではなく「健康、幸福、環境」を指標にした取り組みと言える。

◆「脱成長の方策」と財源についての模索
 著者たちは、この他にも人々が安心して暮らせるための「脱成長の方策」を上げている。例えば、医療や教育といった誰もが必要とするサービス(ユニバーサル・ベーシックサービス)を全員に平等に提供する。生活を維持する基本的なサービス(あるいは所得も)が一律に保証されることによって、自分らしい生活を選択する自由が確保される。また、労働時間を短縮することで全体の雇用を確保し、生産量と消費量の両方を減らし、環境に優しい生活をゆったりと送れるようにする。もちろん、このような生活スタイルを可能にするための財源は必要だ。

 著者たちの言う財源確保策の基本原則は、社会を破壊するもの、つまり環境破壊や不平等につながるものに課税することである。CO2の排出や有害な資源の採取、環境に負荷を掛ける消費や行動に課税する。物質消費の多い富裕層への増税も行う。また、これまでの搾取の罪滅ぼしとして、富裕国が貧困国に持っている債権も帳消しにする。これらは、経済成長で豊かさを得てきた先進国からすれば、とても受け入れることが出来ない夢物語と思われるかも知れないが、欧州委員会や英国下院では既に、「脱成長」の具体案の検討を始めているという。

◆経済成長からの大転換は出来るか
 「脱成長」の試みは、国レベルと言うよりは生活の足元(協同体や自治体)で始まっている。その取り組みも、予防医学教育、自然保護運動、保育サービス、車のシェアリング、ゴミ処理などの協同プロジェクト、農業、生活協同組合など、実に多様な協同体(コモンズ)があるが、そうした非営利の活動が雇用を生み、地域の経済を回していけば成長なしでもゆとりのある生活が出来る。肝心な点は、生活に根ざしたこれらの運動が地球規模に広がってつながり、互いに相乗効果をもたらすことだという。そんな時代の転換点が世界各地で始まっている。

 さらに、この「脱成長」の特徴は、脱炭素で経済成長をと目論むGND(グリーン・ニューディール)についても否定的であること。地球温暖化の進行は、経済成長を目指す限り食い止められないと言うのだ。冒頭に書いたように、自民党の総裁選に出馬した4人の頭の中には新自由主義的な経済から、それを軌道修正する経済まであるが、脱成長はない。日本では脱炭素についても議論が定まらないのに、まして「脱成長」をなどと言ったら、袋叩きに会いそうな状況である。しかし、地球温暖化の進行はこうした内向きの議論を待ってはくれない。

 私たちの日本は、アベノミクスで膨大な国費をつぎ込んでも一向に経済成長しない。株高で一部の富裕層が潤っているだけだ。こんな日本で「夢よもう一度」と無理筋の高度成長を夢見るよりは、経済成長がなくても、ゆったりと豊かな自然と文化遺産を維持していくための「脱成長」の可能性を検討し始めてもいいのではないか。ある意味、江戸文化を花咲かせた日本は、「脱成長」への可能性を秘めた国かも知れないのだから。

この首相とともに沈むのか 21.9.2

 自民党総裁選が火ぶたを切り、ロナそっちのけの権力闘争が始まっている。強面に権力を駆使する菅に、お公家さん(宏池会)育ちの岸田は対抗できるのか。あうんの呼吸で二階退場を演出した菅は、二階嫌いの安倍、麻生ラインを繋ぎ止めようとしているが、この戦術で世代交代を望む若手議員の不満を抑えられるか。しかし、結果がどうあれ、客観的に見れば、今の古い体質の自民党政権は泥船で、このままだと日本丸そのものが沈み行く運命にある。日本はこの首相とともに沈むのかどうか。秋の衆院選挙を前に、日本丸の行方を考えてみたい。

◆日本の首相の哀しき現実
 菅首相は、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿だと言われているらしい。友人が教えてくれた。そのココロは、「自分に都合の悪い現実は見ない、取り巻きたちの情報しか聞かない、質問されてもまともに答えない」というのである。実際、菅は自ら好む主張や見通しには積極的に耳を傾けるが、それ以外には関心が薄いという(朝日8/26「漂流、菅政権」)。彼の好む主張とは、「日本は圧倒的に上手くやっている。英国は10万人くらい亡くなっている」など、自分に都合のいい話だけ(同)。そして、リーダーとしての国家観やビジョンを語ることもない。

 原稿は棒読み。質問に自分の言葉で答えようとすると、すぐに自分が何を言っているのか分からなくなって目が泳ぎ出す。医療崩壊を招いて、「自分の命は自分で守れ」とばかりに、なすすべなく自宅に放置される患者が10万人を超えているのに、その批判に対しては、ワクチン接種の成果や、「明かりははっきり見え始めている」、「先手先手で躊躇なく」といった、意味不明の気休めを繰り返す。菅はコロナ有事が突きつける厳しい現実について、すでに理解力を失っているのではないかと疑いたくなる(*)。これが日本の首相の哀しい現実である。*)自分にとって不都合な状態やなじみのない事象を過小評価する思考回路を「正常性バイアス」という。

◆格差を是認し、弱者に冷たい政治
 コロナだけではない。「自助」を強調する菅の取り巻きたちには、コロナを「さざ波」と言った高橋洋一をはじめ、様々な規制を外して大学や公的機関に営利的な視点を持ち込む新自由主義的な人物(竹中平蔵、アトキンソンなど)が多い。最近、政府の規制改革推進会議の議長になった夏野剛(KADOKAWA社長:写真左)なども、過去に「税金払ってないくせに格差を問題視するな」などと発言する人物だ。菅政権はこうした面々の意見を重用してきたが、これは8年弱に及ぶ安倍政権から続く新自由主義の流れである。結果、「弱者に冷たい」政治が続いている。

 菅が踏襲するアベノミクスと言えば、一部の富裕層がより金持ちになる一方で、そのおこぼれがしたたり落ちる「トリクルダウン」は起きなかったというのが定説になっている。にもかかわらず、安倍政権は「いつか良くなる」、「道半ば」と言いながら富裕層優遇の政策を続けて来た。評論家の中島岳志は、安倍政権の経済政策は、「成功しないことによってこそ、国民的支持獲得に成功する」スタイルだったと言う(「こんな政権なら乗れる」)。国民の大多数は、それに長い間騙され格差拡大に甘んじてきた。その現実がコロナでさらに浮き彫りになった。

◆新自由主義と権威主義という2つの時代遅れ
 新自由主義的な経済政策で経済成長の夢を追い続け、格差社会を放置してきたアベノミクス。そして、老人が権力にしがみついて睨みを効かす権威主義的な内向きの政治。その結果、日本にどういうことが起きているか。医療経済学者の兪 炳匡(ゆう・へいきょう)は、その衝撃的な現実を様々なデータを駆使して明快に描いている(「日本再生のためのプランB」)。日本は今や、学術研究の分野でも先進国の最下位。国際的な人材から見た魅力度は東南アジアよりも低い世界35位まで落ち、人材確保の面でも“世界の辺境”に落ちぶれている。

 同書で彼は、「1%の富裕層ではなく、99%の人々の生活を豊かにする」日本再生のプランを提案している(*)が、世界に目を向けると、上記のような2つの政治的傾向は、国内に格差と分断を広げる政治として、今や乗り越えるべき時代遅れの政治と見なされ始めている。欧米、特にEUではこの格差と分断への反省から、富裕層への課税や、中間層を膨らます政策の模索が始まっているし(「2050年、未来秩序の選択」)、日本でも、格差を乗り越えるためのベーシック・サービスなどの提案が注目を集めている(「格差と分断から共生の社会へ」16.7.3)。*)詳しくは稿を改めたい。

◆ボトムアップの住民参加型の政治
 こうした状況を理解できずに、古い体質のまま漂流している自民党政権の泥船。私たちは、この泥船とともに沈むしかないのか。そんな時、乗り移るべきもう一つの船の可能性を説く書がある。世田谷区長の保阪展人(のぶと)と中島岳志の対談本「こんな政権なら乗れる」である。保阪展人は、社民党の衆院議員を経て2011年に世田谷区長に当選。以来、住民本位の画期的な政策を次々と実行して来た。自然エネルギーの自治体連携、下北沢開発、保育の質を落とさない待機児童解消、空き家活用マッチング、子育て政策、公設のフリースクールなど。

 さらに、(そこへ行けばすべてが解決する)福祉相談窓口のワンストップサービス化など。そのユニークな活動は単なる革新系とも思われない実践的なもので、今や国会の与党関係者や霞ヶ関の官僚たちがこぞって視察に来るほどだという。その政治手法の一つの特徴は、いわゆるリベラルなもので、個人の内面の価値に他者や権力者が土足で踏み込まないということ。それを前提に住民が区政に参加する様々なルートを作りながら、多様な意見に耳を傾け、皆で知恵を出し合って合意形成を目指ししていく。ボトムアップの住民参加型の政治である。

◆こんな政権なら乗れる、世田谷区長の提言
 高齢者施設などに独自にコロナのPCR検査を行って感染防止に取り組む「世田谷方式」に取り組んだのも、世田谷区民の“いのち”を大事にするというビジョンの具体化と言える。当選直後から、それまでの区政を否定するのではなく、「5%の改革」と言って官僚たちを安心させ、漸進的に改革を進めてきた。批判や反対ではなく、「せたがやYES!」という肯定の精神を区民と共有しながらやって来た。本の中で2人は、ボスが支配する権威主義的な菅政権の時代遅れを指摘し、泥船から乗り移るべき新たな船を野党が作る必要性を訴えている。

 同時に2人は、今の野党へ耳の痛い指摘も行っている。これまでの野党は、政権の失敗や失策を追求し、批判することが主だったが、それだけでは支持は集まらない。また、個人の価値観の自由を認めるより、党の価値観を強制する傾向がある。これでは、自民党の権威主義と変らない。これらを克服して、もっと実践的な合意形成のための「実践知」を磨くべきである。また大事なのは、野党も国民に分かりやすい国家観、ビジョンを提示すること。乗り換えるべき新たな船の姿を国民に示しながら、国民の政治参加のパイプを太くして欲しいと言う。

◆どうなの?枝野ビジョン
 確かに、これまでの野党は分たちの価値観(アイデンティティ)にこだわって権威主義的になり、パイを減らしてきた傾向がある(「リベラルの敵はリベラルにあり」)。では、立憲民主党はどうなのかと思って枝野幸男代表の「枝野ビジョン」も読んでみた。枝野は自分の政治的立場を(リベラルの立場で漸進的に改革する)「リベラル保守」とし、安倍政権の新自由主義を否定して「支え合いと分かち合い」の政治を打ち出している。格差対策のベーシック・インカムの試みについても書いている。かなり時代の趨勢を勉強し、取り入れて来た感じがする。

 新しい船の方向性は大分見えて来たが、問題は権威主義の脱皮と実行力。国民参加型の幅広い政治と実践知をどう学んでいくのか。上記のように世界では今、様々な実践例とブレーン候補が現れ始めているので、その智恵を引き寄せて、より一層の脱皮を図って貰いたい。国民は今、菅を巡るドロドロの権力争いに呆れて、乗り移るべきもう一つの船を真剣に探しているのだから。

脱炭素は原発に引導を渡す 21.8.6

 2013年にオリンピックを招致する際には、「この時期の天候は晴れる日が多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスが発揮できる」などと言ったのと大違いで、日本は連日の猛暑である。日本だけではない。この夏、世界でも猛暑が続き、アメリカ西海岸では49.6度の熱波で「史上最大」の山火事が猛威を振るっている。温暖化が世界の他地域の2.5倍のスピードで進んでいると言われるシベリアでは、(19世紀に)零下67度の極寒の記録を出したベルホヤンスクで38度を記録。北極圏の各地で30度超えが続いている。

 その一方で、年々深刻になる地球温暖化を何とか食い止めようと、世界で脱炭素の動きが加速している。2050年までに温室効果ガス排出の実質ゼロ(カーボンニュートラル)を目指すEUでは、ドイツがさらに5年前倒しして2045年にゼロを目指すという。こうした動きに遅れまいと、菅首相が「2050年、実質ゼロ」を打ち出したのは昨年10月。今年4月には、政権が変っても目標を維持できるように「地球温暖化対策推進法」を改正し、気候変動サミットで2030年には(13年比で)46%削減すると宣言した(EU、英は90年比で55〜78%、米国は05年比で52%削減)。

◆新エネルギー基本計画の非現実性
 こうした「脱炭素」の世界的潮流の中、各国で浮上しているのが電力部門のエネルギーをどうするかである。世界で5番目にCO2排出量が多い日本では、総排出量の4割を電力部門が占め、しかもその76%は火力発電だというので、これが世界から白い目で見られる原因となっている。従って、この電力部門での脱炭素をどう進めるかが、大きな問題となるが、8月4日に経産省が発表したエネルギー基本計画によれば、再生可能エネルギーの比率を19年の2倍の36〜38%に増やす一方、原発は従来計画のまま20〜22%に据え置いた(火力発電は41%)。

 原発もCO2を出さないので「脱炭素電源」は合せて59%になるが、原発の20〜22%は全く非現実的な「絵に描いた餅」と言われている。現在、稼働中の原発は5発電所の9基のみで、昨年実績で全発電量の僅か4.3%に過ぎない。これを計画通りにするには、審査中の11基を含む27基全部を8割の高い稼働率で運転しなければならない。そんなことは殆ど不可能で、これは原子力ムラに妥協した問題先送りの結果である。さらに2050年で言えば、原発にこだわる限り、日本の脱炭素は不可能だと自然エネルギー財団常務理事の大野輝之は言う(7/20の講演)。

◆脱炭素の主役は加速度的に安くなる自然エネルギー
 大野によれば2050年で見た場合、現在建設が中断している原発3基を完成させ、他の原発も寿命を60年に延長してすべて再稼働し、8割の稼働率を維持してもやっと10%程度。実際はどう頑張っても数%に過ぎないだろうと言う。むしろ、2050年までに脱炭素を成し遂げるには、無理筋の原発にこだわらずに、自然エネルギーにより力を入れるべきだとする。2030年にはまず、自然エネを45%まで増やし、残りの54%をCO2排出の少ない天然ガスにし、石炭と原発はゼロにする。さらに、2050年には自然エネルギー100%が可能だという。

 その時の自然エネルギー100%の内訳は、太陽光48%、風力36%、輸入も含めたグリーン水素(自然エネで作られた燃料水素)などだが、これが可能だとする根拠は、自然エネルギーの価格が日々、加速度的に安くなっていることである。先月、経産省は2030年の発電コストの試算結果を発表したが、それによると原発の発電コストは、安全対策費や事故時の賠償、廃炉費用などがかさんで、1キロワットあたり11円台後半以上と、太陽光より高くなり、原発の優位性は消えた。もっとも、これは国内の計算で世界に目を向ければ、自然エネのコストはさらに劇的に低下している。

 太陽光や風力の自然エネルギーが原発より安くなっているのは世界の傾向であり、大規模プロジェクトが進む海外では、太陽光は現在でも原発の半分にも満たない5円以下にまでなっている。そうなると、自然エネルギーは既存の原発を稼働させるよりも安上がりになるというから驚きだ。これでは、リスクのある原発を新規に建設する意味は全くなくなる。送電線を絞ったりして自然エネにいろいろと意地悪をし、普及の壁になってきた原発だが、もはや立場が逆転し原発は自然エネの敵ではない状況になっている(大野氏)。問題は、それでもしぶとく原発にしがみつく人々がいることである。

◆自然エネルギーと原発は相容れない
 自民党は、今年4月に政府の脱炭素を睨んで、「脱炭素社会実現と国力維持・向上のための最新型原子力リプレース推進議員連盟」という長い名前の会を発足させた。脱炭素を原発推進の追い風にしようと目論み、原発の新増設を主張し、エネルギー基本計画の「可能な限り原発依存度を低減する」の削除を要求している。これには安倍元首相も顧問になって動いているが、今もって核燃料サイクルにこだわる経産省の原子力小委員会の委員たち同様、自然エネ派から見れば、世界の潮流が見えない時代錯誤的な人々が日本では依然としてうごめいている。

 自然エネルギーと原発は相容れない存在だというのが自然エネ派の意見である(8/5 財団シンポジウム)。大規模集中型の原発は柔軟性がなく、電力の調整が出来にくい。これが稼働していると、電力需給の調整役は自然エネに押しつけられ、せっかくの電力が無駄に捨てられてしまう。実際、太陽光が普及している九州では、原発の稼働によって日によっては原発4基分も無駄になっている。原発電力を優先するルールのためだ。欧州先進国では、自然エネの柔軟な供給システム、蓄電技術などが進んで、自然エネでも安定供給が可能になっているのに。

 世界の潮流を見ることなく、相変わらず原発にしがみつく原子力ムラは、政財界に一定の勢力を占めるだけに始末が悪い。実態から言えば、原子力産業は既に足元から人材も部品供給(サプライチェーン)も崩れ始めている。原発に未来はなく、既に勝敗は決しているのに、なお拘るのは、これまで投じてきた莫大な安全対策費などの回収を目論んでいるのと、自民党右派のように、原発を核兵器の潜在能力と捉えるからだろう。しかし、原発に拘れば拘るほど、日本は技術開発の面でも世界の進化から遅れていくことを知るべきだ。

◆エネルギーの大転換に日本はどうする?
 もちろん、自然エネルギーにも様々な課題はある。特に太陽光では、設置場所を巡って環境破壊や景観破壊が指摘されることが多くなった。しかし、固定価格買い取りという支援策が順次なくなるので、森を切り開き、土地を乱開発して作るようなメリットはなくなる筈という。むしろ、既存の荒廃田畑や放棄されたゴルフ場、或いは住宅、公共施設、ビルや工場の屋上で十分間に合う。同時に、分散エネルギーのメリットを生かして、地域住民が自ら電力確保に関わる仕組みも必要になってくる。一旦、方向性が決まれば、自然エネには技術面やシステム面での工夫の余地は大きくなる。

 今、ネットで太陽光や風力発電の技術開発を調べてみると、様々な技術が日々進化していることが見えてくる。面積が3分の1で済む集光型の設備や、従来の3倍の効率で太陽エネルギーを変換する新素材の開発、或いは大規模なメガソーラーの実験など、時代は地球に降り注ぐ太陽エネルギーをいかに効率よく変換するかに向かってばく進中だ。その一方で、日本ではエネルギー政策の転換が十分出来ずに、新型原子炉の開発や石炭火力を維持するためのCO2回収技術(価格的に合いそうにない)など、将来性のない新技術に国費をつぎ込む動きもある。不毛なことである。

 ドイツは2011年に福島の事故を見て、ドイツのエネルギーをどうするかの検討委員会(ドイツ脱原発倫理委員会)を立ち上げ、緻密な議論の末に3ヶ月後には2022年までの脱原発を決定した。危険な原発と脱炭素を天秤に掛けるべきではない、という合意だった。そして今や自然エネのデータで、世界で最も挑戦的な数字を掲げている。「脱炭素は原発に引導を渡す」。従来、日本が大きく変るには、外圧か破局のどちらかしかないと言われて来たが、世界的なエネルギー大転換の時代に、正しい政策転換が出来るかどうか。日本という国が試されている。

「政治とカネ」の果てなき闇 21.7.2

 自民党政治の世界で、「政治とカネ」を巡る不祥事が跡を絶たない。少し前の安倍政権時代には国有地を法外に値引きして払い下げた森友学園問題と、その実態を隠すための公文書改ざん問題が、未だに尾を引いている。あるいは、日頃様々な形で支援を受けてきた加計学園の理事長に、首相案件として特別の便宜を図ったことが疑われた加計問題。さらには、IR(カジノ施設)を巡る秋元司の収賄事件、鶏卵業界からカネを貰った西川貴盛などなど。党から1億5千万円の選挙資金を貰って地元でカネを配り、選挙違反に問われた河井夫妻なども。

 政治家とカネを巡る問題は、小は私腹を肥やすために懐にカネを入れるケチなものから、大は派閥の権力者が自分の派閥を大きくするために集める、巨額な裏金まで様々だが、中でも派閥を采配する権力者に寄ってくるカネは途方もなくなる。それは、田中角栄の金脈を追求した立花隆氏の時代から、政治の裏側では様々に形を変えながら、今も脈々と続いている。かつての建設・土木業界だけでなく、最近でも一皮めくれば、復興支援事業、カジノや観光事業、医療や科学技術、オリンピック、コロナ対策の利権などまでに及んでいる。 

ノンフィクション「泥のカネ」
 こうした利権にまつわる裏金を「泥のカネ」と呼んで、その実態に迫ったのが「泥のカネ 裏金王・水谷功と権力者の饗宴」(2013年文春文庫)だ。著者はノンフィクションライターの森功。ここに登場する水谷建設の元社長の水谷功はいわゆる政商で、ダム建設や原発建設などに絡んで、裏金を使いながら権力者に近づき、大手ゼネコンに発注される巨額建設事業の下請けで儲けまくった。ハイライトは、水谷が獄中で告白した小沢一郎に対する1億円の裏金である。紙袋に入った5千万円を二回にわたって小沢の秘書たちに手渡したと言うものである。

 実は、小沢一郎とこの裏金事件については私もかつて3回にわたってコラムに書いた。いずれもその実体が分からない段階で書いたもので、マスコミの報道姿勢についての疑問(「推定無罪を無視するマスメディア」2010.10.10)や、小沢切りに動く岡田民主党の政治音痴について(「小沢切りの真相と深層」2011.12.12)などである。小沢事件は結局の所、小沢本人は無罪(秘書たちは政治資金規正法違反で執行猶予付きの禁固刑)になったのだが、今回、コラムの出版化にあたってこれらを残すべきか、実際はどうだったのか気になっていた。

◆裏金造りの様々な手法
 そこで、320ページと結構な分量だったが手にしてみた。水谷功が関与したと思われる様々な案件の関係者に会って証言を積み上げ、水谷の正体と事件の全容に迫る力作である。ダム建設のような大きな事業は、大手ゼネコンが巨額の建設費を仕切り、その下に水谷建設のような下請け、孫請けが入る。かつては大手ゼネコンには大抵、談合の仕切り屋がいてその受注の仕組みを采配したが、仕事を貰うために下請け会社は様々な政治的ツテを利用する。あらゆる方法で裏金を造り、それを政治家に届けて、その「鶴の一声」で大手ゼネコンを動かして貰う

 裏金を作る方法は様々だ。大手ゼネコンから(あうんの呼吸で)裏金分を上乗せした額で受注し、それを政治家に届ける。或いは、海外に帳簿上安くした中古の建設機材を輸出して高く売り、その儲けを海外にプールし、手荷物で国内に運ぶ。大手ゼネコンや政治家を接待するマカオや香港、韓国のカジノなども裏金提供の現場となるし、カジノは空港で手荷物の大金が見つかった時の言い訳にもなる。水谷建設は、こうして小沢の「天の声」が受注先を決める東北の胆沢ダムや、原発建設の残土処理などにありついて会社を大きくしていった。

◆小沢一郎の裏金事件の顛末
 水谷が絡んだ政治利権は、これだけに止まらない。関西電力の原発工事、六ヶ所村の関連設備、関西の空港建設などでも暗躍したが、その裏金の動く先には、二階俊博や亀井静香の名前が挙がっている。こうした政治家は、大規模事業に首を突っ込み、何かと口をきく。そこで、自分に都合のいいように仕事を采配して貰うために、裏金が動く。ただし、こうしたカネが贈収賄で表に出ることは滅多にない。大抵は職務権限のないカネ(口利き)だからだ。せいぜい、政治資金規正法違反(小沢の場合は記入する年がずれた期ずれ)を問われるくらいだ。

 小沢は、銀行から金を借りて都内の不動産を購入した体裁をとったが、その裏に1億円の裏金があったのかどうか。「泥のカネ」を読む限り、それは限りなく黒に思えるが、検察はその受け渡しを立証できなかった。藪の中である。こうした闇から闇のカネが、政治権力者の周辺で動いていることは、様々な案件において利権でつながった人脈が動いていることから想像するしかない。それを47年前の立花隆は、厚い壁にドリルで穴を空けるようにして天下にさらしたが、16年前の土地購入にまつわる小沢一郎のケースではそれがなかったわけである。

 ただし、こうした裏金が今でも動いているという一端は、先日の鹿島建設東北支社の元営業部長が2億2千万円に上るカネを脱税で摘発されたことでも分かる。そのカネは、大手ゼネコンから受注するために下請け企業が上納した裏金であり、以前はこれが政治家にも渡っていた。こうした事情を踏まえた上でも、過去の小沢に関するコラムは、残してもいいように思っている。メディアが自身で事実を極めずに、小沢を犯罪者と決めつけて政界を去るように迫るのは、メディアの怠慢だし、基本的人権を無視したものだからである。

◆「政治とカネ」の変らぬ風景
 「政治とカネ」の問題は、その後も続いている。実際に裏金が動くかどうかは不明だが、利権のあるところには必ず、その利権にあやかる企業と政治家をつなぐ線が出来る。また、政治家はそうした利権構造をいつも作ろうとする。科学技術の分野でも、詐欺で摘発された省エネコンピュータ事件なども、当事者は安倍政権に食い込んでいたし、医療関係の国立研究開発法人のAMED(日本医療研究開発機構)を作った際にも、官邸の和泉洋人や大坪寛子(写真)が思惑がらみでAMEDの出資先を自分たちで決め、当時の理事長が「AMEDの自立性を壊す動き」に抗議したこともある()。 

 菅もまた、そうした利権構造とは無縁ではない。むしろ地盤も看板もなかった菅は、地元はもちろん様々な利権構造を利用してのし上がってきた(「菅義偉の正体」森功)。さらに驚くべきことには、今の菅首相は使い道が全く問われない官房機密費(およそ年間12億円)を官房長官の加藤から取り上げ、独占しているらしいことである(「選択」7月号)。これが事実なら、菅は都合のいいように取り巻きたちをカネで支配することが出来る。「選択」は、この機密費が去年の総裁選の最中にも菅によって使われていたのではないかとまで書いている。

◆衰退に向かう日本で
 裏金事件で暗躍した水谷功は、去年12月に75歳で他界した。「泥のカネ」では、その波乱に満ちた人生を描いている。その絶頂期の還暦のパーティー(2005年)には、政治家の秘書たちが参加し、安倍晋三からの花が並び、芸能人が歌を披露した。実生活では、カジノで一晩に1億円を使ったり、愛人を抱えたり、暴力団とつながったり、政治家たちを操ったり、さらには北朝鮮との怪しげな人脈を作ったりと、破天荒な生活を続けた。こうして、「裏金王」と呼ばれた政商は、一時代を幾つかの脱税事件などで過ごし、今や小沢一郎も見る影がない。

 亡くなった立花隆は、12年ほど前に既に「日本は衰退の一途をたどっている」と嘆いていたそうだが(「報道1930」6/30)、目の前に迫る重大課題(人口減、国の借金、科学技術の遅れなど)から目をそらし、こうした権力とカネにうつつを抜かして来た日本は、さらに衰退の坂道を転がり出している。こうした時に、身の丈に合わないオリンピックでまたまた借金を増やして日本はどうなるのだろうか。

まだ謎多きコロナウイルス 21.6.9

 中国から新型コロナの感染が始まって1年半。世界的な感染爆発(パンデミック)によって、累計1億7380万人が感染し、死者は少なくとも388万人(6月8日現在)に達している。しかし、これだけの被害を出し、世界中で研究が進んでいるにもかかわらず、このウイルスにはまだまだ謎が多い。感染の経路、多様な症状と後遺症、ウイルスの目まぐるしい変異とワクチンとの攻防。そして最近ではその出所を巡っても様々な憶測が広がっている。中国・武漢市のウイルス研究所から流出したとか、人工的に変造されたとする説まである。

◆空気感染(エアロゾル、マイクロ飛沫、飛沫核による感染)
 今年5月、アメリカ疾病対策センター(CDC)は新型コロナに関して「エアロゾル感染が最も注意すべき感染経路」だと発表した。エアロゾル感染とは、マイクロ飛沫感染ともいい、これまで厚労省などが主な感染経路としてきた飛沫感染よりも始末が悪い。咳やくしゃみ、会話などでウイルスとともに飛び出す比較的大きな飛沫は、大体2メートル以内に落下するので、3密を避けることが有効とされてきた。しかし、エアロゾル感染は空気中に長時間浮遊する、さらに微細な飛沫に含まれるウイルスによる。

 これは、いわゆる空気感染(飛沫核感染)と殆ど同じで、ネットを見てもエアロゾル、マイクロ飛沫、飛沫核などが同等のものとして扱われている。感染者の呼気などにウイルスが含まれるエアロゾルは、空気中に3時間も漂い、換気が十分でないと離れていても感染する。去年のダイアモンドプリンセス号での感染の際にも一部で空気感染が疑われたが、ここへ来てはっきりしたわけである。これだと、仮に感染防止のために、一人ずつ交代で同じ部屋で昼食をとっても、換気が不十分だと感染する可能性がある。厄介な感染である。  

◆クラスター対策の破綻
 このエアロゾル感染について、上昌広医師(医療ガバナンス研究所理事長)は、これまでのクラスター対策が有効でないことが一層はっきりしたと言う(サイエンス映像学会、5/25)。クラスター対策とは感染者が出た場合に、その感染者と濃厚接触があった人を追跡して感染を抑え込む方法で、当初から厚労省の「クラスター対策室(押谷仁東北大教授ら)」が指揮してきた。しかし、この方法は二重の意味で有効ではなかったことになる。一つは、市中感染が爆発的に増えると、保健所による濃厚接触者の追跡が間に合わなくなることである。

 実際、感染が急増した地域では保健所が手一杯で、濃厚接触者の追跡も出来なくなっていた。これでは封じ込めは出来ない。さらに空気感染となると、感染経路を追うことは事実上不可能になり、上医師はこうしたクラスター対策だけで感染を抑え込もうとしているのは日本だけだ、と言う。コロナ対策にはやはり、無症状の感染者をどう発見して隔離するか、広範囲のPCR検査や抗体検査しかないことになる。しかし、厚労省を中心とした日本の「感染症ムラ」は、このPCR検査の拡大を頑なに排除してきた。

◆感染症ムラで占められる政府の専門家会議
 その理由については、上医師の「日本のコロナ対策はなぜ迷走するのか」に詳しい。要するに政府の「専門家会議」を構成する国立感染研、地方衛生研、保健所などのいわゆる厚労省系の「感染症ムラ」が、PCR検査を他機関(民間や大学など)に広げる感染症法の改正に反対してきたからだという。自分たちの利権が侵されるからである。その中心人物は、岡部信彦(川崎市健康安全研所長:前国立感染研)や尾身茂分科会会長(もと厚労省医系技官)などで、世界の常識とも言えるPCR検査拡大の壁となってきた。

 問題は、こうした感染症ムラ(専門家会議)が、世界の最先端研究から遅れていることだという。保健所へ相談の目安を当初「37.5度以上の発熱で4日間」としたり、「PCR検査の資源を重症者に向ける」と言ったりして、無症状者でも感染を広げるという知見への対応が遅れた。そんな半歩遅れの対応の中で日本は、変異株のリアルタイム監視や水際対策、コロナ研究からワクチンの研究・開発にも遅れをとってきた。PCR検査が不十分なので少なく見えるが、児玉龍彦氏は抗体検査などから、実際には発表の3倍程度の感染者がいるはずだという(同学会)。

◆ワクチンは切り札になるか
 そうした日本政府が、今唯一の頼みとするワクチンだが、これもなかなか厄介な問題があることが見えて来た。先日のNスペ「全論文解読2〜AIで迫る終息への道」を見ると、コロナ押さえ込みに絶大な力を発揮するする「メッセンジャーRNAワクチン」(ファイザーなど)も、手放しで喜べない課題がある。ワクチン接種のスピードが問題で、このままのスピードでは秋にも第5波があり得る。さらには、国内にワクチンが行き渡って一時的に抑え込んでも、海外からまた新たな変異株が入ってきた時にどうなるかと言う問題もある。

 現段階では、ワクチンで作られた抗体は、変異株に対して効力が落ちる可能性があるが、同時に活性化した「キラーT細胞」によってウイルスの増殖が抑えられる可能性もあるという。それにしても、このウイルスの変異は目まぐるしい。2週間に一回程度の変異と言うが、その変異株が人間の免疫(抗体)をすり抜けたり、増殖スピードを上げたり、致死率を上げたり、それこそ厄介な変異をする。それに対抗するために、新たなワクチンを作ったり、3回目を打ったり(ブースターショット作戦)と言った複雑な対応策が必要になるという。

◆コロナ押さえ込みは人類共通の課題
 理想的には、世界中で一気にワクチンを投与して感染を抑え込むことだが、今の状況では、それは永久に無理だろう。私は間もなく2回目のワクチンを打つ予定だが、人類は今後も次々と現れる変異株に振り回されることになりそうだ。もう一つ気がかりなことは、ワクチンの接種後(或いは2度目の感染で)に感染した場合のAEDという副作用である。AEDとは、悪玉抗体(抗体依存性免疫増強)といい、通常の感染より症状が重くなる。これは2年〜3年後に出るかも知れない(希な?)副作用で、これを防ぐためにも徹底的な封じ込めが必要になる。 

 このように、コロナ封じ込めは、一国にとどまらず世界的な課題になる。どこかに感染の震源地(エピセンター)が残っていると、そこで次々と怖い変異種が生まれ、それが世界中に飛び火するからだ。それが現在起きている現象である。従って、ワクチン普及を手放しで喜ぶだけでなく、PCR検査も含めて常に感染状況を監視していく努力が必要になるわけだが、問題は、こうした困難な課題を今の政権が理解しているのかどうかである。ワクチン頼みと、従来の自粛手法から少しも変らない政府に、浸透しつつある変異株を抑えられるかである。

◆複雑で巧妙なコロナウイルス。その出現の謎
 オリンピックをどんな形でやるにしろ、秋以降には第5波の感染拡大がある、という専門家の警告もある(Nスペ)。それだけ、このウイルスは厄介な性質を持っているということだが、この複雑で巧妙な生存戦略を持つウイルスがどこでどのように生まれたのか。中国雲南省の洞窟に住むコウモリからセンザンコウなどの中間宿主を経て人間に取り付いたのか。その遺伝的変異が追えていないという不可解に加えて、(バイデン政権のように)最近ではこのウイルスは武漢市のウイルス研究所から外部に流出したのではないかと疑う向きもある(ニューズウィーク6/4号記事が面白い)。

 加えて最近では、(真偽は不明だが)遺伝子の解析からコロナウイルスは人工的に変造されたとする説まで現れているが、いずれにしても、私たちはこのコロナウイルスの謎の前に謙虚になって、科学的に対処しなければならない「厄介な時代」に生きている。そうした自覚を持ってコロナ時代を見ていく必要がありそうだ。

「メディアの風」の16年 21.5.17

 菅政権が迷走している。新型コロナへの対応にしろ、オリンピックへの対応にしろ、口を開けば「国民の命と暮らしを守る」や「安全、安心な大会を」と呪文のように唱えるだけで、何ら有効な手を打てない。科学的に対処するには、まず感染状況の精密な把握が必須だが、これが出来ていない。変異株の流入を水際で食い止めることにも失敗した。頼みのワクチン接種も思うように進んでいない。何より、国民の心に直接響くメッセージを発信できていない。政権維持に汲汲とする姿ばかりが目立って国民の信頼を失い、末期的な症状を呈している。

 全国的な感染爆発を迎えて、政府は「蔓延防止等重点措置」や「非常事態宣言」を乱発しているが、飲食業への時短要請や外出自粛だけで抑えられるのか。今や医療崩壊に恐怖する国民の自主的な防衛に頼るしかないのが実態だが、これについても人によって受け取り方はバラバラだ。一方では、コロナ対策とワクチン接種の司令塔が6人にも増えて、誰が責任者なのか分からない。国民のストレスも高まる一方で、お昼のワイドショーは自称他称の評論家でうるさいばかり。ネットも百家争鳴。呆れて、暫くは口を挟む気にもならない。

◆自己満足の出版化計画
 そんな状況を横目に見ながら、最近やったことと言えば、過去16年にわたる440本のコラム全部(400字原稿用紙で3500枚分)を読み返したことである。自己満足の出版化のためだが、これも残される方の迷惑を考えると2冊が限度だと思うので、テーマ分けして古い順に並べ、やっと半分以下の183本にまで絞り込んだ。問題は、これが2冊に入るのかどうかだが、それはそれとして、絞り込んだコラムが、どういうテーマ分類と内容になったのか。前書きは別として、今回は各章のテーマに付記する説明文を書きながら、全体像を概観して見たい。

「メディア、番組」
 最初の章立てには、本のタイトル「メディアの風」にちなんで、メディアや番組に関するコラムを持って来た。もちろん、私の仕事が放送関係だったことにもよる。33本から19本に絞ったが、印象に残った番組や映画、著作などを取り上げ、その今日的意味を探ったもの、さらには、その時々のメディアを取り巻く環境の変化、メディアによる権力監視、或いは逆に権力によるメディア支配の実態などについて考察したコラムが並ぶことになった。その意味で、メディアのありようも時代を反映して激動している。

「新型コロナ」
 日本で新型コロナが社会問題になり始めた2020年の2月頃から、同時進行でコロナに対するウォッチングを続けて来た。その間にアップしたコラムは1年で20本。既に日本におけるコロナ対策は、常に中途半端で先進国の中でも周回遅れという評価が定着した感がある。コロナは日本の政治と行政、科学と医学、デジタルなどなど、様々な面での日本の劣化を露わにした。現実を「科学的に見て合理的に行う」ことが出来ない日本という国とは、一体何なのか。手探りしながら書いた中から、より本質的なもの9本を選んだ。

「東日本大震災、原発事故、脱原発」
 同時進行で見続けてきたと言えば、2011年3月の福島原発事故である。現役時代に原発の安全性に関する特集番組を制作した経験から、これについては最初から多大な関心を持って見つめてきた。これまでに書いたコラムは80本。うち最初の2年間の45本は「メディアの風〜原発事故を見続けた日々」にまとめて自費出版した。今回は、そこからポイントになる7本だけを残し、さらにその後の27本を選んだ。脱原発に抵抗する原子力ムラの策謀、原子力行政の行き詰まりなど、原発安全を巡る日本の無責任の体系を多面的に書いてきたものである。

「世界、文明、地球温暖化」
 ここには、目の前の社会問題や日本の課題を少し離れて、地球的、人類的な課題をまとめた。100年に一度の大変化としてのメガシフトや、地球温暖化問題、或いは世界的な格差や、それをもたらす強欲経済、世界的な民主主義の凋落などである。21世紀に入って、人類はこうした様々な課題に直面しており、まさに人類の英知が問われる事態になっている。その中で、若い世代を中心に新たな試みも始まっているのが、僅かな救いだろうか。AIなどの科学技術、経済問題、国際問題なども含め、50数本のうちから29本をこちらに並べた。

D「戦争と平和、憲法」
 過去に、民族の愚行とも言える大戦争を引き起こし、自国民310万人に加えてアジアに2000万人の戦争犠牲者を生み出した日本。その反省は今、十分に生かされているのか。あの戦争の恐怖の現実、戦争責任の考え方から、安倍政権に始まった安保法制の持つ意味、空洞化する平和憲法、そして人類的課題である核兵器廃絶を巡る考え方まで。戦後日本の国是ともなってきた「不戦の誓い」が揺らいでいる今、改めて戦争と平和について考える。このテーマに関しては、未来に向けての重要なテーマだけに、多くを削除せず29本を残すことになった。

E「日本の政治課題、社会問題」・・・ここから下巻?
 ジャーナリストの端くれとして、定年後も「時代に向き合って生きる」を自分に課しながらコラムを書いてきた。こちらの30本は目の前で起きている社会・政治問題について伴走しながら書いてきたものである。子どもの貧困、超高齢化や少子化の社会的衝撃、年金問題、天皇の退位問題、科学技術立国の凋落と「失われた30年の自画像」、歴史認識など、多岐にわたる問題を扱ってきた。その都度、勉強しながらのコラムである。これらを見ると、一頃の勢いを失った近年の日本が、いかに過去の栄光を引きずってぬるま湯に浸っているかが、心配になる。

F「民主党政権」
 短命に終わった民主党政権(2009年〜2012年)だが、その時代に書いたコラムを残すかどうかは少し迷った。しかし、読んでみると当時の民主党政権がどのような点で政治的に未熟だったかが分かり、しかもそれは今の立憲民主党の低迷ぶりにもつながっていることが分かる。これは結構本質的な欠陥でもある。そうしたこともあって、結果として30本のうち10本を残した。それにしても、当時のメディアは、束になって民主党政権や小沢問題を批判した。その十分の一でも、今の政治に対して底力を見せてくれればと思うくらいである。

G「安倍政権と菅政権」
 7年8ヶ月に及ぶ安倍政治について書いたコラムは57本(うち残したのは23本)になる。初期の頃はアベノミクスに隠れて見えにくかった安倍政治の本質も、特定秘密保護法、共謀罪、集団的自衛権を強行するうちに、その国家主義的な体質を露わにし始める。さらに残る改憲を唯一の大義とする中で、足元の政治課題が置き去りにされ、政治の劣化と腐敗が進むことになる。それは「安倍政治の失われた8年」に書いたところだが、何より深刻なのは、この間に進んだ日本の議会制民主主義の空洞化だろう。この病理は菅政権にも引き継がれている。

◆後書きに代えて
 新型コロナが浮き彫りにした日本の劣化もさることながら、これからの世界には課題が山積している。年々深刻になる地球温暖化、中国と覇権争いをするアメリカと同盟国、あるいは強欲な資本主義によって進む格差と貧困、分断される世界、そしてAIやデジタル化が変える世界、民主主義の危機など。その中で、日本の政治はどこに向かうのか。10年後、日本は世界の中である程度の地位を保っているだろうか。「メディアの風」で時代の行方を見つめてきた16年の、その先にはどんな未来が待っているのだろうか。その時、私は生きているだろうか。

若狭湾・老朽原発の再稼働 21.5.5

 4月28日、福井県の杉本達治知事(写真)は、若狭湾に立地する高浜原発1、2号機と美浜原発3号機について、再稼働に同意すると発表した。いずれも運転開始から40年を超える老朽原発である。福島第一原発の事故後の規定で40年が限度とされ、電力不足などの場合に例外的に「1回だけ、最長20年延長許可」が認められていたのを受け入れた訳である。この間に、福井県議会と地元の高浜、美浜両町は受け入れの手続きを済ませており、これで老朽原発の再稼働が現実のものとなる。二つの町は、国からの最大50億円の交付金になびいた形となった。

 老朽原発の再稼働は、国と関電が躍起となって地元同意にこぎ着けるためのアメを用意した結果だが、福井県が要望していた使用済み燃料の県外移送も、未解決のままの同意となった。これで、この3機が稼働すると、若狭湾で運転可能な原発は7基に増えることになるが、この間、関電は1兆円を超える安全対策費をつぎ込んできたという。しかし、原発再稼働そのものに反対の声も強い中、若狭湾に3基の老朽原発を集中させる判断には、いくら地元にカネが落ちるとはいえ、無責任との批判も強い。過去の関連コラムも引用しながら見ていきたい。

◆原子炉の寿命20年延長問題・劣化進む原発行政
 若狭湾の老朽原発をさらに20年上延長する審査合格証は、原子力規制委員会によって2016年2月に出された。電力会社は、40年を超えても運転休止中の期間(10年)は計算に入らないと主張するが、本当に安全は保証されているのだろうか。よく言われることだが、鋼鉄製の圧力容器は運転中に中性子線を浴び続けることによって脆くなる(これを脆性遷移という)。何らかの事故で原子炉の水が少なくなった時に、原子炉には緊急炉心冷却水を注入することになるが、その急激な冷却によって脆くなった原子炉が大破断する危険が指摘されて来た。

 実際には、脆性遷移の状態を知るために炉内に試験片を置いておき、定期的に脆性の検査するのだが、それまでの状態はチェック出来ても、この先20年の脆性遷移を正確に予測できるかどうかは分からない。この問題に関しては、20年先までの「予測式」が正確でないとして、専門家から原子力規制委員会が厳しく問われている(井野博満:原発老朽化問題研究会、東大名誉教授)。委員会内部の議論では、電力業界寄りの日本電気協会によって反対意見が封じ込められたというが、こうした経緯で延長が認められたとすれば不安にならざるを得ない(写真は美浜原発3号機)。

◆陸の孤島にやってきた原発
 若狭湾は、かつて関電が所有する11基の原発が集中する「原発銀座」と言われた。もう半世紀前になるが、福井に勤務していた1970年(昭和45年)から4年間、私は何度か若狭湾各地を取材して歩いた。当時、美浜原発(1970年、72年開始)はすでに稼働していたが、大飯原発は1、2号機ともまだ建設が決まったか、始まった頃だったと思う。原発がある大島半島はかつて陸の孤島とよばれ、原発建設のために1973年に作られた「青戸の大橋」が完成するまで、半島東側の集落に行くには渡し船で行くしかなかった。

 関西電力は、「橋が出来れば、船で行き来しないで済む」、「各集落を結ぶ立派な道路ができる」と言って原発誘致を持ちかけたわけである。出来たばかりの美浜原発にも行ってみたが、そこも昔は陸の孤島と言われた敦賀半島のさらに裏側の入江にある。人々がひっそりと昔ながらの風習を守りながら生きて来た岬の突端。若狭湾の優しい風景の中から突如現れた原発は、何やら恐ろしいほどに異質で巨大な構造物に見えたことを記憶している。原発は、当時の都会の人たちが想像するのも難しいような隔絶した場所を選んで建設されていた。

◆原発が集中する若狭湾の危うさ
 ただし、陸地からは隠されているように見える原発も海から見れば無防備な状態にある。そこは日本海側には珍しいリアス式海岸だ。グーグルの航空写真と地図で原発の位置と周辺の状況を確認して見ると、陥没した若狭湾全体が津波を抱きとめるような半円形をしているのが分かる。しかも、原発の幾つかは局地的に津波の波高が高くなるような、入り組んだ入江の奥に設置されている。近年、この若狭湾周辺には様々な活断層があることが分かって来た。関西電力は、その活断層が動いても原発は大丈夫だというが、本当にそうだろうか。

 実際、天正大地震(1586年)の時には、若狭湾沿岸に押し寄せた津波で大きな被害が出たという記録も残っている。原発が集中することを考えれば、若狭湾の原発には、より厳密に安全対策を考えなければならないはずである。しかも、40年前の設計と言えば、車を考えても骨董品に近い。様々な部品類も古くなっている。何らかの原因で過酷事故が起こり、そのうち1基でもお手上げ状態になれば、他の原発にも近づけなくなり、その影響は悪夢のような事態になる。原発から直線距離で40キロほどしか離れていないところに琵琶湖があるからだ(写真は大飯原発)。

 そうなると、琵琶湖の水を飲んでいる滋賀県や京都府、大阪府など、近畿圏の1450万人が行き場を失う。場合によっては国そのものが滅んでしまう。それが福島原発事故の教訓であるはずなのだが、原発再稼働を容認する人々はそれを学ぼうとしない。いわば「裸の核」同然に、(北朝鮮からも近い)日本海側に原発が無防備に集中している若狭湾は、国の責任者なら当然、日本の「脆弱な急所」だという認識を持つべきところなのに、老朽化した原発を次々再稼働させるとは、日本は福島の事故から何も学んでいないと言われても仕方がない。

◆若狭湾・原発銀座の致命的脆弱性
 原発の安全とは構造上の問題だけではない。例えば福島発事故の際、原子炉がメルトダウンしたのは、津波で非常用電源をすべて喪失したからだが、その原因は他にある。それは、原発に電力を送り込む送電線の鉄塔が震度6強の揺れ耐えられなかったからである。では、若狭湾の原子炉へつながる送電線の鉄塔は大丈夫なのか。また、原発までの唯一のルートである道路や橋は大丈夫なのか。例えば、大飯原発のある大島半島である。かつては細長い三角形の島だったが、その一角が砂州によって本州とわずかにくっついて半島になった。

 地震の時、液状化しやすい砂州上の道は使えず、半島突端の原発に行くには1973年に完成した「青戸の大橋」(全長743m)を渡るしかない。しかし、橋とそれに続く道路は左右2車線の細いもので、いざという時には避難する住民の車や事故対策車などで大混乱になると心配されている。さらに、懸念されているのは50年近く前に出来た「青戸の大橋」の老朽化だ。新しい耐震基準も満たしておらず、仮に落下して通行不能になれば、事故対策はお手上げになる。また、半島の山と海岸の間を削って作った道路もがけ崩れなどで遮断される恐れが十分ある。

◆相変わらずの、その場しのぎの原発政策
 福島原発事故の最大の教訓は、電力会社を始めとする日本の原子力ムラが安全神話にあぐらをかいて「過酷事故」を起こした時の対策を全く考えて来なかったことである。まかり間違えば国を滅ぼすような危険なものを扱いながら信じられない話だが、これは若狭湾に集中する原発でも同じ。大体、写真を見ても分かるが、ここで仮に過酷事故が起きても、福島のような汚染水タンク群や浄化装置を作る敷地の余裕は全くないことが分かる。ぞっとするほどの狭さである。

 菅政権は現在、2050年までにCO2実質ゼロの「脱炭素」政策を打ち出す一方で、それを口実にCO2を出さない原発を推進しようと画策している。再生可能エネルギーなどで代替できるのに、どうしてリスクの高い原発に頼るのか。「脱原発」も「脱炭素」も両立できるし、両立させなければならない。にもかかわらず、あくまで自分たちの利益を追求する日本の原子力ムラの策謀には、粘り強くNOを言い続けなければならない。