「風」の日めくり                     日めくり一覧         
定年後に直面する体と心の様々な変化は、初めて経験する「未知との遭遇」です。定年後の人生をどう生きればいいのか、新たな自分探しを通して、終末へのソフトランディングの知恵を探求しようと思います。

下北半島弾丸ツアー印象記 24.10.13

 長く続いた猛暑の間は外に出かけることもままならず、近所の市民会館に出かけては冷房の効いた静かな喫茶室で仏教関係の本を読んだ。真言密教については、幾ら読んでも頭にはいいらないので、「仏教ノート」を作って要点をまとめ、一応の概略を辿ったが、今度は、その密教と釈迦が唱えた「悟り」との関係はどうなのかという疑問がわいてきた。そこで初期仏教の本などを読んでノートに加えるうちにようやく猛暑も下火に。暑さが少し和らいだ頃には旅心も出て来て、かねて行ってみたかった下北半島のツアーを探して出かけることにした。

◆下北半島1泊2日の弾丸ツアー
 下北半島は私の中での空白域の一つだった。そこで、下北半島だけのツアーを探すのだが、これがなかなか見つからない。多くは6年前に出かけた津軽と下北の二つの半島のセットになっている。一つだけ見つけたのは、朝7時に羽田に集合して翌日の夜8時50分に羽田に戻って来る1泊2日の「弾丸ツアー」だった。悩んだ末に前夜は羽田近くに泊り、2泊3日の旅程にして出かけることにした。猛暑の間の仏教勉強はいずれどこかに書くとして、今回は私の空白域の一つを埋めることになった、その「下北半島弾丸ツアー」について書いておきたい。

 旅の初日は、三沢空港(青森)から下北の霊場「恐山」ほかを回って斗南温泉(むつ市)泊。翌日は朝7時半にホテルを出て、遊覧船で行く「仏が浦」の散策、下北半島の二つの突端の(マグロ漁で有名な)大間岬と尻屋崎などを巡り、再び三沢空港から戻るコースである。鉄道が通っておらず、車でないとなかなか行けない場所ばかりで、今回は大型バスでのツアーである。また、ツアーのメニューにはなかったが、尻屋崎から空港までの帰路に、半島の東側に位置する東通原発と六ケ所村の再処理施設の場所を確かめたいという密かな気持ちもあった。

◆一人旅のバスツアー。まずは恐山に
 前泊したのは、たまたまネットで探した羽田から一駅の天空橋駅にある「イノベーションシティ」の中のホテルだった。ここは旧羽田空港の跡地に去年の12月にオープンした2つのホテル、研究施設などからなる複合施設で、その巨大さびっくり。300室以上もあるホテルに素泊まりして、翌朝6時発の無料バスで空港へ。空港に集まってみるとツアー参加者は12人、夫婦が2組で残り8人はおひとり様での参加だった。うち男は私を入れて2人、残り6人が女性のおひとり様。雨模様の三沢空港からはガラガラの大型バスに乗り、まずは「恐山」を目指す。

 恐山は高野山、比叡山と並んで日本三大霊場の一つ。およそ1200年前に天台宗の円仁によって開かれたとされるが、今は曹洞宗の寺が管理している。カルデラ湖の宇曽利山湖を八つの山が囲む場所にあり、これが空海の開いた高野山などと同様に、蓮華八葉の霊場に相応しいとされる。活火山で、あたりには噴気孔からの硫黄の臭いが立ち込める。小雨の中、持参のビニールガッパを着て傘をさし、この世とあの世を包み込んだ広大な敷地を地元のガイド(おばさん)の案内で巡って行くと、見渡す限りに、死者を弔う小石を積み上げた小山が並んでいた。

◆亡き人への思いにこたえる恐山
 下北地方では、「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行ぐ」と言い伝えて来たそうだ。人々は、その亡くなった肉親に会うために、弔うためにここにやって来る。積み上げた小石の山には、亡くなった幼児を慰めるためか、小さな風車が幾つもさしてある。おばさんガイドによれば、幾つかあるお堂には故人の思い出の衣類や写真、おもちゃなどが寄せられ、年に何回かはお焚き上げが行われるそうだ。本尊を祀った地蔵堂など寺の施設もあるが、湖の周辺の一帯は死者との対話を求めて来る人々の思いに満ちている感じがする。雨模様の景色が一段と深い。

 「ここを訪れる人たちの中には、恐山は怖いと言う人たちもいるが、ここは、本当は優しい気持ちが溢れたところなんです」とガイドのおばさん。ここには、「この世とあの世、地獄と極楽」といった民間信仰が息づいている。これは釈迦が唱えた本来の仏教とは少し違うかも知れないが、寺の敷地内の小屋には死者の魂を呼び寄せて、死者に成り代わって話す「口寄せ」を行う女性(イタコ)もいる。寺とは無関係の存在で、大分数が減ったそうだが、この日も何人かが口寄せをお願いしていた。人々の死がある限り、恐山はその悲しみに答え続けて行くのだろう。

◆旅の2日目は晴天だった
 恐山巡りの後は海鮮丼の昼食をとり、本州の終着駅の大湊駅、本州最北端の下北駅を訪ねた。大湊は明治維新で廃藩になった会津藩が再興を許されて下北に移住させられた斗南藩の一部。駅の案内板を見ていたら、以前のコラムにも取り上げた旧会津藩の芝五郎の生家が駅の近くにあって、こんな僻地だったかと感慨深かった。その後は、むつ市の斗南温泉のホテルで一泊。翌朝は晴天で、まずは今回のツアーのもう一つの目玉である「仏が浦」観光へ。佐井港までバスで行き、そこから遊覧船に乗って30分の海岸に行くと、絶景の奇岩が立ち並んでいる。

 仏が浦は、マサカリに例えられる下北半島の刃に当たる場所にあり、資料によれば、1500万年前に海底火山から噴出した火山灰が押し固められ、それが雨や波で削り取られて形成された景勝地という。それぞれの奇岩には、浄土のイメージを重ねて「如来の首」「五百羅漢」「極楽浜」などの名が与えられていて、浜辺を歩いていて見飽きない。遊覧船でないとなかなか見られない絶景なのだろう。再び地遊覧船に乗って戻った後は、マサカリの西の突端である大間岬へ。近くの大間町はマグロの一本釣りで有名で、そこでとれたマグロのどんぶりで昼食。

◆下北半島の2つの突端を巡る
 その大間町では、地元のおばさんガイドが愉快な口調で町内の「マグロ御殿」の幾つかを紹介してくれた。大物だと一匹2億5千万円や3億円にもなるそうだ。マグロは大間岬の目と鼻の先でとれる。そこのマグロの巨大な像の脇で参加者がそれぞれに記念写真。本州最北端の大間岬から東を見ると、はるかに霞んでもう一つの岬が見える。それが東の突端の尻屋崎。今度はそこへバスで向かう。途中休憩して1時間も走っただろうか。明治9年に作られ、国の重要文化財にもなっている本州最北端の灯台が見えて来た。青い空に白い灯台が美しく映える。

 ここは海流が激しくぶつかるところで船の遭難も多く、灯台が必要だった。近くには遭難者を悼む記念碑も立っている。近くの牧草地に放牧されている農耕馬の「寒立馬(かんだちめ)」も見ることが出来た。寒気と粗食に耐えて生き残って来た馬である。これで弾丸ツアーは終わり。尻屋崎から南下して三沢空港に向かう。乗る前にバスの運転手の青年に、東通原発と再処理工場はどちら側で見られるかと聞くと左側だと言うので、座席を変えた。スマホのマップで確かめながら見たが、東通原発は林の間から原発建屋がかすかに見えただけだった。

◆原発関連施設の場所を確かめる
 六ケ所村の再処理工場は、その巨大な施設が見えた。沢山のクレーンが立ち並び、まだまだ建設中のようだが、何を作っているのだろう。2つの施設とも「PR館」だけは完成している。途中の休憩所でバスの青年に聞くと「私も(再処理工場の)中に入ったが、どうなっているのか。あれは完成しないのではないですか」と言う。ゼネコンが自社ビルまで敷地に建設して、やがて取り壊したりしていると言う。建設が始まって30年、3兆円をつぎ込んで未だに完成しない。その姿を土地勘と共に目にしたのも一つの収穫だったかも。三沢空港には午後5時過ぎに到着。

 今回の旅で下北半島の空白は埋めることが出来た。コロナで一人旅をやめて久しいが、今回の旅では体力的にも少し自信が持てた。一人旅のおじさん、おばさん達に混じって頑張れた。私の中での日本の空白域はまだ幾つか残っているが、体力があるうちに、また出かけるのも悪くはないと思えた弾丸ツアーだった。

猛暑の中の夏のイベント 24.8.27

 連日「猛烈な暑さに警戒」というアナウンスが流れる今年の夏。外に出るたびに、憂鬱さを通り越して呆れてしまうような熱気を感じるが、毎日の警戒警報をまともに受け止めていると、それだけで心が疲れてしまう。雷を伴うゲリラ豪雨も、もはや日常になった感がある。加えて、日本近海の海水温度の上昇によって大型化する台風の襲来である。気象予報士の解説では、高い海水温、高気圧の張り出し、雲の流れなどが影響しているようだが、この猛暑とゲリラ豪雨、大型台風などは、温暖化現象の中でも、周囲を海に囲まれた日本独特のものなのだろうか。

 去年の夏の終わりのコラム「急進する温暖化に科学は?」では、世界各地で起きている熱波や山火事に触れ、急進する温暖化に対して、様々な科学分野を動員して対処する必要性を書いた。確かに、先日のNスぺ「熱波襲来」(8/24)を見ても、日本近海だけでも、海中の生態系の異変、黒潮の流れの異変、そして「海洋熱波」の出現など、異変は多岐にわたる。地球の大気と海の循環系は非常に複雑で、温暖化の影響は一様には現れない。こうした影響を地球規模で探るためには、世界の科学者が協力して全地球的に監視する「地球診断」が必要な所だが、それが可能かどうか。

◆山形のペンションへの小旅行
 戦争が止まらない現状では、この全地球的な診断は当然困難になるが、近辺の異変ばかりに目を奪われているうちに、地球全体が取り返しのつかないことにもなりかねない。この点、世界各地の情報を集めるのは、メディアの役割でもあるだろう。このことはいずれコラムの方に書くにして、こちらにはこの夏の主な出来事を報告しておきたい。まずは、夏の小旅行である。近所のKさん夫妻が経営するペンションが山形にあって、かねがね「来られたら、羽黒山などを案内しますよ」と言われていた。そこで、8月上旬に2泊3日で出かけることにした。

 その「ぽつんと一軒家」的なペンションは、月山(1984m)を望む川辺にあって、お盆休みを外したので客は私たちだけ。山菜料理が得意な御主人が食べきれないほどのご馳走を出してくれた。翌日は、ご夫婦に車で山岳信仰の聖地でもある出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)の中の羽黒山神社(三社合祭殿)、日本庭園の美しい玉川寺などを案内して貰い、ともに温泉に入り、夕食は地元の割烹で料理を食べながら様々な話をした。羽黒山などはさすがに涼しく、夜は夜で目の前の清流の音を聞きながら、大自然に包まれた日本の歴史的風土に思いを馳せた。

◆心に沁みた孫たちとの交流
 6月半ばにNYに住む次男一家が夏休みで一時帰国したことは前回書いたが、その次男一家と長女と2人の孫の食事会が7月末にあった。5人の孫たち(5歳から16歳まで)を含めて、総勢10人の食事会である。近くの和食屋で会食した後は、全員が狭い我が家に集まった。孫たちは皆、絵を描くのが大好き。大きな画用紙を持ってくると、めいめいが絵を描き始めた。長女のところの長男7歳は恐竜が大好きなサッカー少年。ともに美大出の次男夫婦に首長竜の絵や、ティラノサウルスにまたがったメッシの絵(下)などを描いても貰って大喜びしていた。

 次男は一足早くNYに戻ったが、その前に夫妻とは大事な話が出来たので一安心だった。先日は残った家族4人がNYに戻るというので、先方の両親にお礼方々、成田に出かけて見送った。2か月以上にわたる長い夏休みの間に、一家は京都や丹後に出かけたり、バレエ教室に通ったりと日本の夏を満喫したらしい。14歳の孫娘と9歳の次男は既に日本語より英語の方が得意になっているが、それぞれにのびのびと自由に育っている。この子たちがこの先、日米どちらで暮らすようになるかは分からないが、好きなことに打ち込んで欲しいと願っている。

◆孫とじいじの絵の合作
 お盆には、娘が孫2人(7歳男児、5歳女児)を連れてこちらに里帰り。台風7号の影響もあって3泊4の逗留になったが、その間に孫たちとは毎日、近所のお寺にお参りし、市民会館に出かけて日陰でサッカーのリフティングをしたり、私のPCでAIと遊んだり、絵を描いたりして過ごした。特に絵については、2人の孫と私との合作で、大きな紙に抽象画的なものを毎日1枚ずつ描いて行った。まあ、落書きに近いものだが、やっているうちに楽しくなってどんどん描いた。お互いにサインペンを持って自由に線を引き、色鉛筆で色を塗って行く。 

 線を引いているうちに、7歳の孫が絵のタイトルを考える。それも「貝殻の中の王国」、「真夜中のゆうれい船」(上)、「タコのよろい」(左下)、「夢の中の炎に包まれたドラゴン」(右下)など、どこか絵と響き合っていて、その発想に感心させられる。3枚目、4枚目になるとお互い、線の引き方も大胆に自由になって行く。それぞれ完成までに1時間もかからない遊びだが、お互いに褒めあい、励ましあいながらの制作は楽しかった。4日目には、出来た絵をリュックに入れて3人は帰って行った。カミさんも私も大分孫疲れもしたが、一方では癒される4日間だった。











◆社会とのつながりが希薄にならないために
 その合間を縫って、いつもの仲間と1泊で栃木県の高原ゴルフにも出かけた。初日のハーフは雷で断念。2日目は、雨で30分ほど中断したが無事終了した。高原と言ってもかなり暑かったが、終わった後の4人での夕食会も含めて何とか楽しむことが出来た。以上が、猛暑の夏のイベントだった。一方で、楽しく遊んでばかりいると、現実社会とのつながりが希薄になり、心の置き所が曖昧になって来る。そこで、もうこの歳では殆ど役立たずなのだが、TV制作会社の番組企画やAI展開の会議には、リモートでも出来るだけ参加するようにしている。

 一方で、切り抜いた新聞を涼しい市民会館の喫茶コーナーで読み込み、ファイルにする作業も相変わらず続けている。最近の話題と言っても、いずれの情報も既視感があるものばかりだが、補充・更新するつもりで蓄積しているうちに、自分なりの切り口が見つかることがある。それをコラムに書いたり、企画会議での参考意見として生かしたりする。9月から科学技術ジャーナリスト会議が始める、若い人たち向けの「塾」での講義も30分の録画にまとめて事務方に送った。「企画の立て方」という内容で、まさに自分が何十年も続けて来たことである。

◆総裁選レースのメディアジャック
 市民会館で涼んでから家に帰ってテレビを付けると、これも連日、自民党総裁選のニュースが溢れている。メディアジャックとも言うべき多さで、競馬評論的に総裁選レースの動きを伝える底の浅さや節操のなさに呆れてしまう。本来から言えば、やがて首相にもなる候補者には、メディアの側から問うべき政策(アジェンダ)の項目を用意して、候補者を吟味するくらいの能動的役割を果たしてほしいと思う。同時に、私たちが国家を託すべき政治家とは、どのような資質を備えているべきなのか。政治家が備えるべき条件は何のかも、問うて欲しいと思う。

 歴史を切り拓いた勝海舟や吉田松陰を上げるまでもなく、理想像の政治家の一人にも挙げられる石橋湛山(1884-1973)を慕う政治家グループが今の政界にもいるらしいが(歴史家、保坂正康)、それにしても、あの無味乾燥な岸田に3年も追随し、裏金問題が起きてもシーンとしていた政治家たちが、岸田が辞め、安倍派の重しが取れたとたんに、我も我もとうごめきだしている現状である。その姿勢の軽さを見ていると、「日暮れて道遠し」といった政治の劣化を感じざるを得ないが、これもごまめの歯ぎしり的なコラムのテーマの一つかも知れない。

混迷の時代を横目に見ながら 24.7.23

 梅雨が明けと同時に本格的な猛暑がやって来た。何しろ、わが越谷市は熊谷に次いでニュースに出るくらいの暑さ。外に出ると体温より暑い熱気が身にまとわりつき、この夏をどう乗り切ればいいのかと憂鬱になる。とりあえずの手立ては、歩いて5分の市民会館。リュックに読むべき本と、切り抜いた新聞記事、ノートを入れて涼みに行く。5階建ての立派な会館の各階にはホールがあり、そこに革張りのソファーが並んでいる。喫茶店だった2階の一角にはテーブルと椅子が並んでいて、コーヒーなどの自販機がある。殆ど誰もいないそこで時間を過ごす。

 そうした所で、孤独に2時間ほど時間を過ごしていると、徒然草ではないけれど「心に様々なこと」が浮かんできて、妙に非日常的なことを考えたりする。例えば、このまま惰性で日々を送っていていいものか。間もなくやって来る80歳代は、これまでとは違った何か新しいテーマを見つけてやって行けないものかなどと考えたりする。何しろ今は、手帳に書き留めた予定以外は決まった日課を機械的にこなす毎日である。朝起きてストレッチを50分ほどして、新聞の「天声人語」や「余禄」を音読し、切り抜くべき記事に印をつけたり、切り抜いたり。

◆自分を取り巻くテーマをリストアップ
 次に、テレビ欄でその日見るべき番組、録画をする番組に印をつける。買い物などをした後は、市民会館に出かけて本を読んだり、友人に電話したりし、帰りに5階までの階段を2往復し(写真:5階からの眺め)、夕飯前にはスマホでラジオ体操をする。もちろん時には、家でパソコンに向かって80歳まではと決めている「メディアの風」のコラムを書いたりもする。こうした習慣のままに流れて行く日常を、いったんせき止めてみたいと、今の自分を取り巻いているテーマを思いつくままに書き出してみた。家族のこと、終活、健康維持、知的関心、仏教探求、社会とのつながり。

 あるいは、幾つかの友人グループとの関係。いわゆる趣味の分野も。これはゴルフや絵画、写真俳句、旅行などだが、絵などは不精な私には始めるまでに何かと時間がかかる。終活も大きなテーマだが、ついつい先延ばしになっている。例えば、本や資料、デジタル関係、各種の口座引き落としの整理などである。以上をすべて平等にこなしていると、それだけであっという間に寿命が尽きそうだ。優先順位をつけて、自分にとって意味のありそうなことに絞ってやって行くしかない。というわけで、これらのテーマに関連して幾つか近況を書いておきたい。

◆テーマの一つ。家族関連の出来事
 まずは、家族関係の出来事である。6月18日、NY在住の次男一家5人が夏休みで一時帰国した。その彼らが来宅したのは29日。3人の孫たち(長男16歳、長女14歳、次男9歳)も成長して見違えるよう。移住して7年が過ぎ、次男などは日本語が心許ない状況だが、皆、自由にやりたいことに挑戦しながらのびのびと育っているのに感心した。やはりアメリカの教育の方が日本より余程自由なのかと思わされた。私のきょうだいが、久しぶりにお盆の墓参り(茨城県は7月の新暦のお盆)を兼ねて会食をすると言うと、彼らも一緒に行きたいと言う。

 ところが、集まる日の前日にコロナ騒動があって、墓参りは私たちきょうだいだけになった。水戸のお寺に全員で集まるのはコロナ発生の前以来。その後、中華を囲みながら4人のきょうだいと連れ合い2人の6人で積もる話に花を咲かせた。その後、次男一家も水戸のお寺の墓参りに行ってくれた(写真)。ありがたいことである。次男一家と長女と孫たちと10人で、食事会の予定もある。3月に会った長男のところを含め、孫たち7人が全員元気で、すくすく育っているのが何より嬉しい。こうした家族関係を維持し、サポートしていくのが第一のテーマになる。

◆もう一つのテーマ。真言密教について学ぶ
 もう一つは仏教探求について。日課としては、朝晩仏壇に向かって般若心経を唱えるほか、コロナになってからは毎日、近所の真言宗のお寺をお参りしている。この寺での月一回の「朝の集い」にも通い出してから30年になる。しかし、仏教の理解については、あまり進んでいないと言っていい(「私の仏教探求」)。そこで最近、日本における真言密教の確立者である空海に関する本を何冊か読んでみた。人間空海については、その異常とも言える天才ぶりや生涯、時の朝廷との関係などについて多くが語られて来た(「空海の風景」「空海の企み」など)。

 しかし、肝心の真言密教がどういうものか、ということになると、何冊かの本を読んで来たが、難しくて分からない。そこで、今回は、「空海の思想」(竹内信夫)を手始めに密教の思想について読んでみた。中でも特に惹きつけられたのは「空海 密教への道」(中島尚志)だった。この本は2回目だったが、実に丁寧に書かれている。いわゆる宗教学者でもないのに、膨大な資料や経本を読み込み出来るだけ分かりやすく伝えてくれる。その誠実な書きぶりに感心した。それでもまだ、入り口でしかないのだが、仏教探求は人生最後のテーマの一つかも知れない。

◆社会とのつながり
 毎日会社に通うようなサラリーマン的仕事を卒業して以来、既に14年が過ぎた。その間に、大学講師やネットニュース(科学)の編集長を経験し、今はTV制作会社で若い人と番組企画を議論している。幾つかの研究会にも所属している。これが定年後の私の「社会とのつながり」だが、それも油断していると、いつの間にかそのつながりと自分の心との間に隙間が生じてくる。そこで、身体と頭が何とかなるうちは出来るだけ、つながりを大事にして行きたいと思っている。そんな理由で、生涯教育の場とか、若い人向けの塾とかでの講義も引き受けている。

 7月8日の暑い日には、武蔵小杉まで出かけて話をした。「いのちを支える科学と社会を考える」というシリーズ講座の中で、私の方は「人類のいのちに関わる3つのテーマ」と題して、「温暖化、原子力、戦争と平和」について現役時代に関わった番組も紹介しながら話をした。今まさに人類の前に立ちはだかっているこれらの問題は、実は互いに関連している。9月には、ジャーナリズムを目指す若い人たちに向けて「企画の立て方」を話す予定になっている。自分がやってきたことを元に、若い人に何か伝えられたら嬉しいが、これもいつまで続くかである。

◆混迷の時代を横目に見ながら
 7月13日、トランプが銃撃された。使われたライフル銃AR−15は、アメリカで2000万丁も出回っているらしいが、その威力は仮に頭にでも当たったら頭全体が吹き飛ぶほどのものだという。その銃弾が頭蓋から何ミリのところを飛べば、あの程度で済んだのか。一つのミステリーだが、どっちに転んでもこれは歴史を塗り替えた銃弾になったに違いない。これでトランプ復帰が確実になったとすれば、世界の温暖化も戦争と平和も、そしてエネルギーの原子力も大きな影響を受けるだろう。何しろトランプは石油を掘りまくると言っているからだ。

 まさに「紙一重」で命拾いを実感した人間は、その性格が一瞬のうちに変わることがあるというが、どうやらその変化は3日ほどしか続かなかったようだ。とすると、以前のコラム「恐怖の男・トランプの真実」(2019.1.8)に書いたように彼は自己愛の強い、白人中心主義の狂気の男のままなのか。その時、アメリカに住む次男たちはどういう影響を受けるのだろうか。あるいは日本の経済、防衛は彼のアメリカ第一主義にどう巻き込まれていくのか。今のトランプ現象と「ヒトラーを生んだワイマールの自由」(NHK)が妙に響きあっているのが心配だ。

 日本の都市近郊に住み、年々厳しくなる猛暑に耐えながら暮らす老境の身だが、日々の暮らしがますます世界の「混迷の時代」と無関係ではいられないような気がする状況でもある。これと向き合いながら人生の最終盤をどう生きて行くのか。混迷の時代を横目ににらみながら、上記にリストアップした「自分を取り巻くテーマ」をどのように追求して行くのか。そんなところが当面の課題だろうか。

問いが根源的になる世界情勢 24.6.11

 前回、胸痛からいろいろ心臓の検査をしたことを書いてから、早くも1か月。お陰様で頻繁に起きていた胸痛も影を潜め、まあまあ元気に過ごしている。5月に79歳の誕生日を迎え、70代最後の一年に入ったわけだが、次の80歳代をどう過ごして行くのか、この1年はその模索の年にもなるだろう。寄る年波に手探りしながら生きている私たち夫婦も、この5月で結婚50年になった。子供たちから記念品とメッセージが届いたが、私たちは月末に近場の温泉行をそれに充てることにした。選んだのは、東京湾に面した内房総の安房勝山の温泉である。

◆安房勝山の温泉行
 去年は、結局6回も近場の温泉行をしたが、今年はこれが1回目。それだけカミさんの体調が戻って来たのだろうか。去年の夏ごろは絶不調で体重も減る一方だったが、メンタルクリニックに通い出してから少しずつ食欲も出て来ている。その安房勝山の温泉で海鮮料理を楽しんだ翌日の昼は、電車で1時間ほど戻った木更津に住む次男の奥さんの実家を訪ねて一緒に食事をする計画である。特急もない内房線なので、我が家からは乗り換えをしながら、ずっと各駅停車で旅館に到着。海まで4,5分の所で、海を見に行くと海岸線に雲一つなかった。

 そこで、夕食を速めて貰って日没の午後6時50分に海岸に行き、富士山のシルエットと日没を見ることにした。しかし行ってみると、残念ながら水平線に少し雲がかかっていて日没は見られず、帰って、デザートを食べる。食事は鯛を中心とした刺身の船盛、生きたアワビの踊り焼き、金目の煮つけ、大きな岩ガキ、それに地元牛の陶板焼きなど。全部で7部屋の小さな旅館なのだが、仲居さんは日本語の上手な外国人で、こんな田舎でも人手不足に悩んでいるのだろうか。温泉は地下深くからくみ上げたアルカリ性のもので、これも良かった。

◆温泉行と併せて旧交を温める
 翌日も晴れ。チェックアウトまで近くの海岸から漁港までを散歩した。廃業した民宿や釣り宿が並ぶ寂れた感じの漁港だったが、その沖合に一つの島が見える。手前の看板を見ると、島は「みささぎ島」といい、古事記の伝説にちなんだ説明が書かれていた。その昔、東国平定の使命を負ったヤマトタケルが、相模の国から船で房総に渡ろうとして海が荒れ、それを鎮めるために妃のオトタチバナヒメが海に身を投じた伝説があるが、その島はそのオトタチバナヒメの亡骸が流れ着いた島だと言う。このところ「古事記」を読んで来たので感慨深いことだった。

 その後、久しぶりに木更津に寄って、次男の奥さんのご両親と旧交を温めた。ご主人は、膨大な美術品を集めていて「わたくし美術館」も開いている(現在は休館中)。お元気そうだった。NYに住む次男一家は、今年の夏休みも一家で一時帰国するが、その長い間は先方にお世話になるので、その挨拶も兼ねた訪問である。彼らがNYに移住してから、早いもので7年になる。それぞれに、好きなことに打ち込んでいるのはいいとして、この先はどうするのだろうか。ご両親も気がかりの様子だったが、こちらも、今度会った時にゆっくり聞いてみたい。

◆文字を持たない時代の人類は何を考えていたのか
 先日は、1年前に出版した拙著「いま、あなたに伝えたい。」を2冊、地元の越谷市立図書館に寄贈した。前著の「メディアの風 時代と向き合った16年」(上下)も寄贈して図書リストに載っているが、これでまた一区切り。ついでに、上記の「みささぎ島」のような古代史の史跡を紹介した「古事記・日本書紀を歩く」と、「日本書紀の読み方」を借りて読みだした。そうした古代史の解説を読み、あるいは聖書研究の専門家との会話に親しむうちに、ふと、まだ文字を持たない時代の人類が何を考えていたのかという想像や疑問が頭に浮かんできた。

 人類が、世界の成り立ちや各種事象について、現在のような科学的知見を得るようになったのは、ギリシャのアルキメデス(紀元前3世紀)は別として、17世紀のニュートン、18世紀のダーウィンなどせいぜいこの400年ほどである。それ以前の何万年という長い年月、人類は様々な疑問を抱きながら、彼らなりの解釈や物語を創りながら生きて来たと思われる。例えば、人間はどこから生まれて、死んだらどこへ行くのかという根源的な疑問に加えて、どうしたら災いを逃れられるのか、どうしたら飢えずに済むのか、敵に勝つにはどうすればいいかなど。

◆諸々の常ならざる存在にカミを見る
 あるいは、天災や疫病から逃れるにはどうすればいいのか。科学的知識が全くない時代にそうした疑問に直面するうちに古代人は、その疑問に答えてくれ、災いを取り除いてくれる「超人間的な存在」を想定するようになったのではないだろうか。それははじめ、本居宣長が言うように(太陽や月、大岩や山、大木などの)「諸々の常ならざる存在」に対する崇拝だったと思われるが、それが、やがて仮想の存在(神々)に発展し、部族ごとの伝承になって行ったのだろう。また、その神々との約束事や、それを破った時の懲罰的エピソードも伝承となって行く。 

 それらの部族ごとの伝承が、部族が統一されるに従って統合され、一つの世界観に裏打ちされた神話になって行く。そこに超人間的な存在、例えばこの世界を創った神の存在が現れ、民族全体の統合の象徴として働いていく。また、それぞれの部族にはその超人間的な存在(神々)と会話ができて部族を率いるシャーマンや預言者が中心的存在となって行く。彼らはまた、様々な奇跡的事績を身にまとっていたに違いない。そうした時代が何万年も続く間に、一神教は一神教なりの、多神教は多神教なりの世界観や歴史観を持った宗教を形作って来たのだろう。

◆人間の根源的な問いと科学的知見
 人類が文字を発明した後は、それが神話や聖書になった。もちろん、聖書研究の専門家の言うように、旧約聖書に書かれている内容は20世紀に入ってからの考古学的研究によっても裏付けられる完全な歴史的事実という説もあるが、こと神の事績と創世記に関しては、20世紀来の科学的知見と整合性をとるのは難しい。しかし、科学的知見だって人間を救ってはくれないのだから、それを超える神話の世界を否定することはないと思う。むしろ私が惹かれるのは、科学も何もない時代、人間はその死すべき運命の中で何を求め続けたかということである。

 その根源的な問いは、今も続いている。それが様々な神が祀られた神社や、祈りの場所(お寺、教会など)につながっている。人間は死んだらどうなるのか、どのように死ぬのが幸せなのか。こうした問いに関連して最近、心に残る映画と番組を見た。一つは以前にも紹介したが、100歳になるスーパー女性の人生最後の葛藤を描いた「神様はまだ来ない〜満100歳 ひとりぼっちの抵抗」(元木伸一監督)、もう一つはNスぺ「海辺の診療所 いのちの記録」(6/2放送)である。どちらも「死ぬのは大変!」と思わせるが、この問いに迫る時代的メッセージである。

◆問いがだんだんと根源的になる?
 人生100年時代の死に方がテーマになる一方で、科学的知見がこれだけ進化した現在でも、世界には地獄のような悲惨が満ち溢れている。残虐な戦争にしがみつくプーチンも、ネタニヤフも神の教えから言えば救いがたい人間だが、一向に天からの懲罰が下るようなことは起こらない。ごく卑小な感想だが、もしこの世に超絶者がいるならば、とっくにプーチンやネタニヤフに懲罰が下ってもいいはずなのに、彼らを見るにつけ、この世に超絶者は存在しないことを実感する。まあ、長い目で見れば彼らにいわゆる幸せな最後は訪れないだろうとは思うが。

 今、専門家に教えを乞うているのは、キリスト教を否定しているユダヤ民族のアイデンティティはどこにあるかということである。こういうことは、とても一朝一夕に理解できるものではないが、今の政治劣化などより余程深刻な世界情勢を見るにつけ、自分の問いもだんだんと根源的にならざるを得ない昨今である。

限りある命ともののあわれ 24.5.5

 花冷えの中、毎年ここだけはと思っている桜を確かめるように見に行っただけで、桜の季節はあっという間に過ぎて4月。その4月も様々なことで心落ち着かないままに過ぎてしまった。この間のことをとりあえずまとめておきたい。

◆夫婦で生前戒名を頂く
 3月の彼岸の頃、水戸のお寺に墓参りを兼ねて、カミさんと住職を訪ねた。去年以来、いろいろあってこの先、子供たちに負担を掛けまいと、出来るところから終活を始めている。2月末には寺を訪ねて、将来の墓の相談と同時に2人の生前戒名もお願いしていて、今回は、それを頂きに行ったわけである。事前にごく簡単な戒名で結構ですと念を押していたのだが、戒名は両親同様に文字数の多いものだった。やはり、そういうことかとちょっと当惑もしたが、ありがたく頂いて帰り、後日、こちらで事前に考えていたお礼の気持ちを振り込ませて頂いた。

 「生前戒名を貰うと長生きしますから」と言われたが、その間、自分の死ということが身近に感じられることにもなった。というのも、3月にかけて相当に根を詰めて「絵のようなもの」に取り組んだことや、将来の墓の悩みなども重なってかなりストレスが溜まっていたせいかも知れないが、夜中に胸のあたりがキリキリと痛んだり、重苦しくなったりと原因不明の胸痛に悩まされることになった。そのうち、日中でも歩いている時などに胸の痛みを感じるようになった。この痛みはどこから来るのか。不安になると余計に痛くなるような気がする。

◆謎の胸痛から心臓の検査へ
 ある夜中には、以前、お守り代わりに貰っていた「ニトロベン舌下錠」(心筋症の薬)を舐めてみたりした。しかし、特に痛みが変わることもなく、また、その痛みがどんどん大きくなると言うようなこともない。夜中に救急車は嫌だなあと思いながらも睡眠導入剤を飲んで寝てしまうと、朝には何でもなかったりする。そこで、定期的に通っている大学病院の先生に相談して、循環器内科を紹介して貰った。行く際にも胸の痛みはあったのだが、心電図とレントゲン、血液検査からは、特に心筋梗塞に移行するような兆候は見られないというので、別の検査をすることになった。

 24時間のホルダー心電計を付け、次に心臓のエコー検査。結果が出るまで半月以上あったが、その間は異常もなく、そのうちにこの痛みは心臓由来のものではないような気もして来た。ただ、仮に心臓の血管が詰まりそうになっていれば、いろいろと面倒なことだとは思っていた。それ以上に、もう80歳近くなるのでいつか自分の命が何かの病気で終わるかも知れないというイメージが、ごく手近なところにあった気がする。それは、今日明日と言うことではないだろうが、誰しも避けられない現実と向き合うことから来る感覚だったかもしれない。

◆ついに行く 道とはかねて 聞きしかど
 結果が出たのは半月後の4月22日。その間には心配も大分薄らいで、思い切ってゴルフもやってみたが、無事に終えて夜は友人と一杯やって帰って来た。検査の結果は、どれも特段の異常は見当たらないと言う。ほっとすると同時に、あれは何の痛みだったのかと不思議に思った。可能性の一つとして心臓の血管が痙攣する症状が考えられると言うが、今はちょっとの痛みは気にしないようにしている。歳をとると、こういう一つ一つのことが何かのサインかも知れないと思ったりして、その都度、自分の命に限りがあるという現実を感じたりする。

 歌人の在原業平の辞世の歌に「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」という歌がある。55歳で死んだ彼に比べれば、私などは随分と長生きしていると言えるが、それでもいざ命に関わる症状に出会えば、同様の感慨を持つに違いない。同時に、身近な人々、思い出す人々、ことごとに対して懐かしいような、それでいて、それらに手が届かなくなる哀しみのような感情を抱く。それが、言ってみれば一種の「もののあわれ」という感情かも知れないと思ったのは、4月にそんなことを教えてくれる本を読んだからでもある。

◆紫式部と本居宣長。日本文化の奥深さ
 今年の大河ドラマ「光る君へ」は、久々に見続けるドラマになった。以前、BSの「英雄たちの選択・紫式部」で、平安朝の権力を巡る暗闘を知り、特異な時代の人間ドラマに興味を持ったためもある。その紫式部の「源氏物語」については、以前に現代語訳で読んだが、そこに通底する「もののあわれ」については漠としたイメージしか持っていなかった。そこで、書棚に長く眠っていた600頁を超える小林秀雄の「本居宣長」を読み始めた。宣長がいかにして源氏を読み解いたか。そこに彼が見出したキーワードが「もののあわれ」というものだった。

 紫式部も、また、それを800年後に読み解いた宣長も、天才たちが織り成す世界は難解だが、こうしてみると日本人というものは、すごい文化力を持った民族だと改めて感心させられる。宣長はまた、8世紀初めに書かれた「古事記」についても新しい解釈を生み出したが、それを解説する小林秀雄は、当時の日本語成立の奇跡についても解説している。そういえば、字を持たなかった日本人が漢文との出会いをもとに、平仮名の発明による和文と漢文訓読体との合流(和漢混淆文)を発明したのも奇跡的だった(「日本語の奇跡」)。日本文化の奥深さである。

 命の限りが迫って来たこの歳になって、新たに日本の文化の奥深さに迷い込んでどうするのかとも思うが、かと言って目の前の事象はあまりに索漠としている。政治は相変わらずだし、世界は闇だ。そんな中で「もののあわれ」は、移り行く世の無常と結びついているだけに、日本人には親しい感覚かも知れない。検査で異常なしを告げられた日、千駄木のうまいコーヒー店によって、しみじみとした時を過ごした。コロナで久しく会えなかった長男一家の大学生の孫娘たちと3月半ばに会えたこと、次男や娘のところで元気に育っている孫たちの様子などを想いながら。

◆もの想いの中で過ぎ行く日々
 かれこれ1か月、原因不明の胸痛に悩まされたが、その間にも番組制作会社での新人研修、AIに関する研究会、92歳の大先輩を囲むリモートの勉強会、再開したゴルフなどが続いた。これらを楽しむ一方で、上記のような難解な読書も懲りずに続けて来たわけである。また、先日には思い切って3時間の映画「オッペンハイマー」にも挑戦、改めて人類が手にした悪夢のような原爆の恐ろしさを感じた。NHKで始まったアーカイブ番組「時をかけるテレビ」も、第一回は40年前に放送された「核戦争後の地球」。これも、テーマは核戦争の恐怖だった。

 そこで大先輩が主宰する5月の勉強会では、核兵器の最新情報を取り上げることになった。限りある命を思って、そこはかとない「もののあわれ」を感じる一方で、長命で旺盛な知的好奇心を持って日々を送っている大先輩たちから刺激を受ける。こうした複雑な思いが交錯する生活をどう考えるかという問題もある。毎日、淡々と暮らして行くのがいいのか。それともまだ頑張ると思って目標を持って生きるべきか。私の場合、何とか80歳まではブログを続けるとしたが、その後の未知のフェーズがどんなものになるのか、容易に想像出来ないでいる。

4年ぶりに色塗りの試行錯誤 24.3.13

 去年の夏に久しく描いていない「絵のようなもの」を再開したいと思って、抽象画の美術展に出かけ、「絵心を探しに夏の美術展」などと書いたあと、9月には鉛筆の下絵を完成させた。しかし、その下絵がちょっと複雑で、これにどう色付けしたものか悩んで、AIに色付けをさせてみたりして遊んでいるうちに、月日はどんどん過ぎて年明けに。今年こそはと思うが、色塗りに踏み出す心理的バリアが高くてずっと放置して来た。何しろ、もう下絵の完成から半年以上、前回の絵(NO28)から既に3年半が過ぎているので、なかなか踏み出せない。

 そこで、パソコンをどかすなどして、机の上を片付け、絵の具を揃え、筆を洗い、お手本とする絵などもプリントし、一つ一つバリアを取り除いて、2月中旬、いよいよ色付けに取り掛かった。前回は、画家の東山魁夷の青のトーンをモチーフにしたが、今回も東山の「紅葉」の色合いが頭にあった。全体を紅葉色に染めて見たかったわけである。しかし、いざ始まると難しく、使ったのは濃い紫や幾つかの橙色だけで、後は一色一色手探りで色を決めて行く作業になった。全体で200ピース位の断片で構成されているので、色決めは予想通り難航した。







◆中央部分を埋めてから周辺を攻める
 下手をすると、それぞれの色の自己主張が強くなり、取っ散らかって収拾がつかなくなる。同系色の色や補色系の色を配置しながら、全体がそれなりに落ち着くようにしなければならない。久しく「絵心」を忘れていた自分にはかなりの難問だった。基本となる色を全体のバランスを見ながら配置した後は、まず、中央部から固めて行こくことに専念する。ここが固まれば、周辺に攻めて行けるということで、中央部に明るい黄色を持ってきて、補色関係にある緑をところどころに配置して行く。こうして中央部が固まるのに1週間以上かかった。







 今回の苦労の一つは、色が多彩になり過ぎるのを抑えるために、無彩色(白黒)の部分を配置したことである。それが、中央部の縦の柱や右側の柱たちである。このアイデアは、去年の夏に見た抽象画の中の白黒の線からヒントを貰った。さて、そうして周辺部に手を伸ばして行ったわけだが、そのモノトーンを他に応用しようと、左上の歯車のようなものも濃淡のある青緑の色で描いてみたここまでのように、色違いで塗っていたら色の洪水のようになっていたかもしれない。







◆色の洪水を防ぐための試行錯誤
 終盤には、残った上辺部も思い切って灰色のグラデーションで埋めてみた。これは、本当は薄い黄緑とかにした方が絵らしいのかも知れないが、私に難し過ぎた。一時は、中央部が終ったところで周辺全体を水墨画のように白黒で取り囲んでみたらなどとも思った時もある。周辺部をモノトーンにして中央部を際立たせる作戦だが、水墨画の何たるかも知らない私には、その発想は荷が重すぎた。そんな試行錯誤を重ねながら、全体を埋めて行ったわけである。







 ほぼ95%が完成したところで、細部に手を入れ始めた。幾つかの色の塗り替え。これには、まず白で上塗りし、新しい色を塗って行く。塗り重ねが出来るのがアクリルガッシュのいいところである。一番苦労したのは、垂直の線である。下絵の時は、いい加減に書いていた線が出来上がってみると、微妙に傾いている。これを、定規を使って垂直に修正していくのが、結構面倒だった。垂直に直した後は、その周囲の色も埋めなければならない。しかし、完成した絵を見るとどうだろう。どうもまだ、傾いているように見える。これは目の錯覚かも知れない。

 こうした細かい修正にも5日はかけただろうか。このように試行錯誤しながら20日余り。久しぶりに「描く楽しさ」のような気分を味わいながら、一応の完成までこぎつけた。絵の大先輩に写真を送ったところ、貴重なアドバイスを頂いたが、この段階で取り入れるのは難しいので、ひとまずこれで完成としたい(トップ頁下に掲載)。 この絵について、「出来上がったので題をつけてね」とLineで娘の長男(7歳)に完成版を送ったら、「くさりの中の空飛ぶお城」というタイトルをつけてくれた。白黒の柱が鎖のように見えたらしい。タイトルが決まったところで、額に入れて前の絵と交換した。
                 

◆次回のコラムのテーマは?
 そういうわけで、この間、他のコラム発信もお預け状態で暮らして来た。更新もひと月以上お休みしている。ただ、絵を描きながらも本を読み、幾つかのテーマは考えて来た。その一つが、最近の政治家の言葉を含め、現代は言葉というものがどんどん上滑りして、リアリティーを失って来ているように思うことである。この間に読んだ芥川賞の「東京都同情塔」(九段理恵)もテーマは言葉のような気がする。SNSの現代は、互いの考えを言葉で共有できない混乱の時代、新たな「バベルの塔」の時代に入っているのではないかなどと感じさせられる。

 言葉のリアリティーが失われる状況は、生成AIの登場によっても、より拍車がかかりそうな勢いである。時代が変わる幕末、勝海舟も吉田松陰も実にリアルに時代を見つめ、リアリティーのある言葉でそれを伝え、新たな時代を切り拓いていった(「歴史を動かす力」司馬遼太郎)。そのようなことをつないで、今の時代の言葉の傾向を考えてみたい。「言葉のリアルが消えゆく時代」。これはこれで、自分にとっては今回の絵などよりよほど苦労しそうなテーになりそうである。